一章
夏はどんなものも力強さを増す。太陽はその陽光を益々強力なものにし、突き刺す様な光は目に肌に、刺激を与える。
青々と繁る草木のつんとした匂いも青みも、日を追うごとに眩しさを増した。
――それらの陰に、踊る小さなものたちも。
「……あちい」
ぽつりとぼやき、汗を拭う。目深に被っていた帽子も今や団扇代わりと成り果て、黙々と進めていた足はむくんで痛い。
もう一歩、と踏み出した足がパキリと小枝を折った。途端に蛇や羽虫、小鬼の形をとった雑鬼たちが溢れ出し、男の頬をかすめた。咄嗟に避けたが、頬がほんのり火傷の様に痛む。
頭上でケタケタと笑う雑鬼達をねめつけ、大きく息をつく。
「少し休むか……」
大木の下に腰を落ち着ける。
降ろしたリュックからミネラル・ウォーターを出し、口に含んだ。暑さでぬるくなってはいたが、喉には充分なお湿りとなった。
ほう、と息を吐いて、仰ぐ。
密生した木々の葉の隙間からは、いくらか和らいだ陽光が射し込んでいた。しかし尻の下から立ち上る湿気を暖めるには充分で、この森は自然のサウナと化していた。時折そよぐ風は、汗と湿気にまみれた肌をひんやりとさせる。その肌も虫や木々でかぶれ、所々赤い斑点が見られた。
――長袖にしときなよ――
今になって、あの男の言葉が思い出される。――どこにでも、お節介で話好きな人間はいるものだ。例え本人が放っておいてほしいと思っていても。
――この森に来るまでには、いくつもバスを乗り継がなくてはならなかった。山奥もいいとこの山村まで来た時には、一瞬時代を疑うほどに、そこは隔絶されていた。
最後の乗り継ぎのバスに乗り、一番後ろの座席に座る。乗客は少なく、腰の曲がった老婆とタオルを首に巻いた男の二人しかいない。
過疎化が進む山村では、よそ者は嫌というほど目立つ。二人はちらちらと視線を彼に向け、ついに男が立ち上がり彼の隣に座った。
「どこから来たんだい?」
「東京から」
「旅行じゃないだろう。こんな何も無い所」
「自然が豊かで良いじゃないですか」
「ああ、初めて来る奴は皆そう言うんだ。……お世辞はいいよ」
男は寂しそうに笑う。旅行目的じゃないとわかった男は、純粋な好奇心から尋ねてくる。
「旅行じゃないなら、何だい?親戚を訪ねてきたって風じゃないな」
しばし考えた後、答える。
「鷲山に行こうと思っているんです」
「……その格好でか?」
男が不審がるのも当然だ。彼の格好といえば、ランニングに半袖シャツを羽織っただけという簡単ないでたちで、とても山に行く格好とは思えない軽装だ。かろうじて、ジーパンとトレッキングシューズがそれらしく見える。荷物も黒いリュック一つ、と何とも頼りない。
「その格好じゃきついよ。長袖にしときなよ」
「いや、鷲山の鷲鼻森に行くだけで……」
「同じ同じ!虫もいるし、ウルシや何かでかぶれるって。俺の家来て長袖何か貸してやろうか?」
「いえ、平気です。すみません」
ちらりと苦笑する。
「平気ならいいが……。鷲鼻森なんか行って何するんだね?」
「ああ、海山さんのお宅を訪ねようと思ってるんです。ご存知ですか?」
「海山?……ああ、あの家か……」
にやり、と男は笑った。
「あそこはな……出るぞ。殺人があったんだ」
「殺人?」
「噂だ。十年くらい前に肝だめしとかで若い奴ら四人が海山の家に入ったが、一日経っても二日経っても……とうとう一年経っても帰ってこなかった。それで俺らで海山の家に入ったがもぬけの空。とうとうそいつらは見付からなかった」
「……なぜ殺人なんですか?」
若者らが自発的に姿を消したとも考えられる。
「村を出るにはこの道を通らなきゃならん。そいつらは車を持ってないのさ。四人もズラズラ歩いてたらすぐわかるだろう。山を抜ける手もあるが、岩場だらけで無理だ」
「それで殺人なんですか?」
「神隠しとか言う奴もいるけどな。昔も結構あったらしい」
「じゃあ十年以上前とかに……」
「ああ。親父の時にもあったって聞いたな。結局解決しなかったらしいが」
「……殺人か」
「鬼がいるのさ」
男はポツリと呟き、タオルで汗を拭く。
「村じゃ、わけのわからん事があると鬼がやったと言ってる。そうして納得するんだ」
黙っていると、ふいに男は立ち上がり彼の肩を大仰に叩いた。バスのスピードが緩み始めている。
「じゃあな。あんたも気をつけろよ。鬼に会ったらとりあえず熊を何とかしてほしいって言っといてくれ」
豪快に笑い、男はバスを降りていった。
――鬼がいるんだ――
現代社会において、そう言う人がいるのは驚きだった。
過去において鬼とは恐れの対象であり、それが住まう所こそ闇であるとされた。
限りなく闇が少なくなった現代において、そこに鬼が住まうとは――闇があると考える者は皆無に等しい。この様な隔絶された山村だからこそ、聞く言葉だ。
「鬼がいるなんて聞いてねぇ……」
「いるよ」
ぼやきに答える者の声はか細く、高い。
背後からする声に振り向かず、尋ねる。
「いるのか?東北以外にいるなんて初耳だな」
「噂はいつまでもその域を脱し得ない。名は?」
「……士朗」
「嘘だね」
くすり、と笑いを含んだ声で言う。
「……嵐」
「らん?女の子みたい」
「嵐と書いてそう読む。噂が何だって?」
「何だ、聞かないの?名前」
「知らない奴とお知り合いにはなりたかないんでね」
名前を知り合う事で、そこに相手との縁が生まれる。人ならまだしも――人外の者との縁をこれ以上欲しいとも思わない。
「……つまんない」
「教えてくれたら良いモンやるよ」
「ふうん……。鬼、と言っても見たことないからね。ただ人があいつに会ったら二度と戻ってこない」
「絶対にか?」
「食べてるんじゃないの?あんな良い家に住んでるんだから一口ぐらいお裾分けしても良いと思わない?」
人である手前、頷くわけにもいかない。
「家ってのは?」
「すぐそこ」
「そこ?見えねぇぞ」
「あと半日歩けば」
これだから、と嵐は立ち上がる。人外の者とまともに話をしようと試みたのがバカだった。立ち上がる嵐を見て声の主は明らかに慌てたようである。
「え、ちょっと待ちなよ」
「いい。頑張って半日歩くさ」
貰った地図もある。
「だめだめ。その地図じゃ行けないよ」
「どういう……」
尋ねるよりも先に嵐の体がフワリと浮く。慌ててリュックを拾い見上げると、そこにはにんまり笑った少年の顔があった。
大きな目と八重歯が印象的で、嵐を持ち上げる二本の腕は浅黒く焼けていた。
「……天狗か」
「そこらの雑鬼と一緒にされちゃ困る」
山伏姿の背からは黒い大きな羽が見えた。
あがくのをやめ、眼下に広がる木々の海を眺める。
「天狗っつったら鞍馬山じゃないか」
「鞍馬の天狗は嫌いだね。気位ばかり高くて」
「この土地に元々いたのか?」
「うん。雑鬼が多くて餌に困らなかったのに、ちょっと前から鬼が来てさ、ずっと腹っぺらし」
「……尻子玉はやんねぇぞ」
ケラケラと天狗は笑った。
「久々の話し相手にそんな扱いしないよ。とりあえず鬼を何とかしてほしい」
「どいつもこいつも……俺の相手は鬼じゃない」
うんざりしつつ言う。
「海山の家に用があるだけだ」
「その家に鬼がいるんだ。ついでにいいだろ」
「退治屋じゃない。出来るのは話し合い程度だ」
「……まったくなぁ」
ぽつりと言うと天狗は急降下を始める。声をあげようにも、口も開けば飛び込んでくるのは勢いづいた風ばかりだ。言葉を発するよりもむせてしまう。
「はい、到着」
ひょい、と二メートル上空から手を離され、嵐はしたたかに尻を打ち付けた。痛さに暫くうめいていたが、隣にたった天狗に頭を無理矢理掴まれ顔を仰がされる。
「ほら、目的地」
「わかった!いいから放せ!」
天狗の手を払い、立ち上がる。
人の居ない家は朽ちると言うが正にそれを体現したような家だった。
立派だったであろう門は傾いて瓦が崩れ落ち、草木は伸びるに任されていた。家を支えていたであろう柱も所々腐りかけ、見るも無惨な姿をさらけだしている。傾いた門にかけられている表札もかろうじてぶらさがっている状態で、うっすら「海山」という字が読み取れた。
「一つ質問するけどね」
背後で天狗は腕を組む。
「お前は鬼が居るのはこの家だって知ってたんじゃないの」
嵐は思わず肩をすくめた。事の成り行きはいたっておかしい。
天狗は半日かかると言った家を海山の家だとは一言も言ってない。
――しくじった。
鬼が出る家などそうそう無いと思い、天狗に巧いこと喋らせ、あわよくば道も教えてもらう魂胆だった。
彼等は与えたものに応じたものを、相手から貰おうとする。先刻言った「良いものをやる」というのは誘い文句で、実際くれてやるようなものは無い。
だが天狗は見事ひっかかった。――ここまでは良かった。
しかしこの先踏むべき段階をすっ飛ばし、自分自身で墓穴を掘り今に至る。
心の内で激しく動揺しながら嵐は立ち上がり、土をはたいた。
「海山の家に鬼がいるってのは、さっき聞いたばかりだ」
「その家とおれが言ってる家が同じだと知っていたね?」
「……そこまで聡くない」
「嘘だね。何も無しに案内させようとしただろう」
「お前達は事ある毎にものを要求しすぎる」
「それがおれ達の性分さ。知らない筈はない」
「知ってる。それで辛い思いをする人だっている」
「分不相応なものを願うからさ。……お前はその点では利口そうに見えたけどね。悪知恵が働く」
「……ありがとよ」
「だが失敗だ。天狗に嘘はつけない。千里の目は心も見透かす。今はどうやってこの場で優位に立つか考え中か」
己の浅はかさをも見透かされた気がした。にやりと天狗は笑う。
「じゃあこうしよう。お前が鬼を何とかしたら許してやる。それまでは家から一歩も出るな。出たらおれの餌になれ」
反論を試みるが無駄だった。どう考えてもこちらに非がある。
「……わかったよ」
元々この家に用があっただけに、断る理由もない。そこにちょっとした命の危険が加わるだけだ――と、前向きな考えをしてみたが、どうにも腹がキリキリと痛んだ。
素直に従う嵐を天狗は不思議そうに見やった。
「変な奴。人間はここで、もっと抵抗するんだぞ」
「する意味がない。それにどう考えたってこっちが悪い」
天狗は目を丸くする。
「死ぬ死なないの話にまで発展して……ったく、腹がいてぇ……」
「そう思うなら最初から、まともにやれば良かったのに」
家に向かいだした嵐は振り返り笑った。
「妖怪がまともとか言うなよ」
それに、と続ける。
「金欠でやれる物が無い」
一章 終り
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