二章

 門の朽ち方には年月があった。その向こうに見えた家にも。

 だが今目の前にあるのは何だ、と嵐は自問する。――自答はない。

 ただ無言で、そのこぢんまりとした日本家屋を見上げるだけだ。

「ええと……」

 自分が来た道を振り返る。道はただ、道として存在していた。門もそのまま傾いている。しかし家だけが、門の外から見た状況と百八十度変わっていた。

 決して真新しいというわけではない。人の生活臭さがいたるところにあり、閉じられた玄関はいつでも主を迎えられるようだった。その主が自分ではないことを知っている嵐は庭に回り込んだ。磨かれた縁側が目に入る。

 縁側が面する小さな庭には同じく小さな木蓮が、隅にそっと植わっていた。枝も他の草木も好き放題伸びており、その点は外観と大差ない。

 家だけが、変わっていた。

「……でも、ここだよな」

 地図を取り出し、見る。見たところで空から来た嵐にはわかることは何もなかったが。

「気休めにもなりゃしねぇ……」

 地図をしまい、改めて家を眺める。雨戸は開いており、縁側から家の中が見れた。障子や襖は全て開け放たれ、畳の部屋が続く。明かりといったものが全く無い室内は薄暗く、踏み込むのを躊躇わせた。

――でも行かなきゃな。

 何度目かの溜息をついた時、コトン、と音がした。

 心臓が飛び上がる程に驚くとはこう言うのだろう、などと考えつつ音のした方を向く。

――朱が、目に鮮やかだった。

 それは着物の色なのだが、自然に染め上げたとは思えぬ程に鮮やかで、かといって人工では産み出せぬ美しさを持っていた。裾にあつらえられた花々の刺繍も金糸で見事に咲いている。その着物に垂れる様にして、長い黒髪が映えた。黒髪は白い肌を際立たせ、その中の瞳も髪の様に漆黒の色を落としている。

 美しい少女だった。

「この家の人かな?」

 我ながら不審感を煽る台詞だと思う。少女はじっと見据えたまま答えようとせず、無言で応じる。

 沈黙が辺りを包み、嵐は気まずい思いで言葉を続ける。

「海山さんのお宅だと思うんだけど」

 やはり少女は答えない。

 無視、は考えられなかった。両眼はしっかり嵐をとらえている。

 声が小さすぎるかと思い直し、少女に近付く。

「海山さんの家だよね」

 やや声を張り上げるが、言葉は返ってこなかった。これだけ近くでこれだけ声を大きくしているのに、この反応の無さ――不審に思っても仕方ない状況だが、いくらなんでもやりすぎではないか。そう思うと苛立ちが募ってきた。

「何か言いたい事あるなら、はっきり言ってくれ。何も言わなきゃわからん」

 腹立ちまぎれに言い放つも少女の反応は薄い。ただ口をぱくぱくと動かすのみである。

「……だから。何か言え! 言いたい事があるなら!」

 黒い瞳がじっ、と嵐を見据える。

――そう、先刻から。

 少女はずっと嵐を見据え、と言うよりも目を離さなかった。警戒しているのもあるだろうが、それ以外に――

「……話せないのか?」

 少女はこくりと頷いた。嵐は頭を抱える。

――参った。

 早くに気付くべきだった。自分の意思を伝えようと、ずっと嵐を見続けていた事に。

 そう考えた途端、おそろしい程の罪悪感にさいなまれた。

「……ごめん」

 何度目の謝罪だろうかと思い返す。

 同時に、内心で激しく後悔した。

――どうも、この森の波に飲まれてたな。

 雑鬼がそこらかしこに居るような森である。普通の森に比べ、生気も霊気も――邪気も数段上だ。気を抜けば飲まれ己を見失い、度を過ぎた行動を取ってしまう。

 今の自分の様に。

 頭を掻き、地図を取り出してマークしてある箇所を指差す。

「これは……」

 次に家を指した。

「……ここなのか?」

 少女は頷く。出会ってから十分。やっととれた交流にほっとし、地図をしまいつつ辺りを見回す。

「他に人はいないのか?」

 今度は首を横に振った。

「いるのか?」

 また首を横に振る。

「……どっちだよ」

 また、首を振る。進展の無いやりとりには馴れが必要だが――そう、わかってるのだが苛立ちは隠せない。気を静めようと一つ、二つ、大きく深呼吸をする。

「……まあ、いいや」

――とは言ったものの、実は途方にくれていた。もぬけの空だった、という話の通りであれば、失礼しますの一言で全ては済む。しかし現実にはこの少女がいた。交流を図るのに十分も必要な少女が。用件だけ済まして、さっさと帰る手もあるが――この拠所の無い眼を持つ少女を、放って置く事が出来なかった。

 どうも昔から、こう言う性分らしい。見つけては拾い、養い、満足する。

 それは幼い頃の雀に始まり、一通り動物を網羅し現在に至る。世話好きなのかお節介なのか、それとも自己満足か。後者だと罵られた事もあった。しかし、と溜息をつく。

――小心者だからなあ。

 放っておいたら放っておいたで、良心が痛むのだ。それを何故だ、と問われても困る。

 対応に困って考えあぐねいていると、ふいにぽつりと冷たいものが鼻の頭を叩いた。指で拭おうと手を上げた途端、次から次へと、雨粒が落ち始めた。ぼんやりとその様子を見ていた少女は突然、嵐の手を引く。

「……入れって?」

 その細腕から想像出来ぬ強さで縁側を上がらせる。

 土足のまま二、三歩、引きずられる様にして歩く。縁側に面した畳の部屋に立つと、少女は小さく微笑み、ぱたぱたと家の奥へと消えた。

 取り残された嵐はぽかん、とし、次いで慌てて靴を脱ぎ、縁側の石に立て掛けた。

――濡れるよな。

 かといって縁の下に置くわけにもいかない。気付けば虫の巣窟、なんてのは出来るだけ避けたい。

 脱いだところで、さて、と辺りを見回した。

 暗い家の中に、雑鬼らの姿は見えない。同様に、明かりもない。その割には、とあぐらをかいた。

――随分と目がきく。

 森に入ったところで太陽は中天に差し掛かっていた。つまり昼。あれからの経過を考えれば、そろそろ陽が傾く頃である。例え曇天であっても、その暗さは増す。だが、この明るさは。

――化かされたか。

 考えがいきつき、嵐はくすりと笑った。狐か狸なら話がもっと単純になったものを。

 雨は激しさを増し、そのカーテンは外の景色を霞ませた。雨音だけが耳に届き、鳥の声など一つも聞こえない。白くぼんやりと佇む木々を見つめていると、目がかすむ。目頭をおさえ、立ち上がった。

「……得体の知れない所からはさっさと去るに限る」

 あの少女は用が済んでから考えよう。視線を転じると、隣の部屋には家具類が並んでいた。

 木目の美しい箪笥に、猫足の文机。しっかりと磨かれ、焦茶の奥から鈍い光を放っている。指でなぞると、うっすらと指の腹が白くなった。

「……十年ね」

 手をはたき、箪笥の一番上にある、曇りガラスの引き戸を覗く。きゅうすに茶碗が二個、茶筒が一つ。

――違和感が背を走る。

 悪寒とも言うのだろうが、少し違う。恐怖ではなく――ただ、おかしい、と第六感が告げる。

「……帰りてぇ」

 ぽつりと呟いた時、くん、と袖を引かれた。飛び上がりそうになるのをこらえ、振り返る。

「……びっくりした」

 少女がにっこりと笑い、また引っ張る。抗う術はないものかと模索する。だが、細身の少女相手に行使する術など無かった。

 引かれるままについていくと、行き着いたの風呂場だった。脱衣所の向こうのすりガラス戸は、湯気で曇っている。

「入れって?」

 こくりと頷いてみせる。汗ばんだ体には願っても無い事だったが、何故自分にそうされるのかがわからない。

 立ったままの嵐の背を押し、入るよう促した。

――まあいいか。

 部屋に置いたままのリュックが気になるが、わざわざ取りに行くのも不審がられる。大人しく入った方が無難だろう。

 脱衣所に入り、汗と土まみれの服を脱ぐ。――脱いで、思った。

――そういやこれって。

――肌身離さず、ずっと身につけておきなさい。

 布団の中で、小さな老人が言った言葉だ。淡い水色の半袖シャツは、どこにでもありそうな普通の作りになっている。お守り効果があるとは思えないが――その効果を否定するだけの根拠もなかった。だが、さすがに湯船につかるのにシャツを身につけるのは、気が引けた。

 少しの間なら、とシャツを籠に入れる。その時、コンコン、と脱衣所の戸を叩く音がした。ぎょっとして、開けられる寸前のところで戸を閉める。

「なに?」

 うっすらと開けて、問う。袂をあげ、腕捲りをしている少女はタオルと着替えを差し出した。

「ありがとう」

 礼を言って受け取るが、少女は去る気配を見せない。

「……ええと、まだ何か?」

 頷き、自然な動作で脱衣所に入ろうとする。慌てて嵐は押し戻した。

――わかったぞ。

「いや、大丈夫だから。一人で洗えるよ」

 背中を流すつもりでいた少女は、きょとんとして小首を傾げる。なぜ、とでも言いたげだ。

「……じゃあ、ご飯の用意してほしいんだけど。腹減ってるんだ」

 合点がいった顔で微笑み、少女は小走り気味に廊下を走って行った。

――何なんだ。

 江戸、明治ならいざ知らず今は平成の世だ。背中を流しましょうか、などという気のきいた話は聞いた事がない。

 面食らってぽかんとしていた嵐は、はた、と気付き、自分の姿を見つめ直した。

「……入るか」

 家の古さから勝手に時代錯誤な考えをしていた嵐は、風呂の作りの良さに満足していた。広くはないバスタブの周りには木の板がはめこまれ、大きなガラス窓から薄く光が射しこみ、立ち上る湯気を照らす。

――しかし。

 湯船につかり、よくよく考えてみる。なぜ、自分は風呂などに入っているのだろうか。とにかく用があるだけで、このように歓迎されるいわれはない。

「嬉しいっちゃ嬉しいんだが……」

 ふう、と息をついた。

 籠の中のシャツが気になる。――あの言葉。

――肌身離さず。

 それは離したら、何かが起こるということか。先刻考えたように、シャツにお守り効果があるとは思えない。

 そもそも、ここに来ることが危険だということを、あの老人は承知済みだったのだろうか。それであのシャツが必要だと。

――だとしたら随分な確信犯だ。

 はめられたか、とも思ったが、自分にそれだけの価値があるとも思えず却下する。

 何をしたいのか、依頼の意味が何なのか。活路を見出そうとして――嵐は結局迷い込んだ。

 ややのぼせ気味に、ふらふらと現れた嵐を、少女は不思議そうに見やった。

「……このシャツ好きなんだ」

 着替にと渡された着物を片手に、最初に通された部屋に行く。縁側の障子の向こうからは、小さく雨音が響いていた。

「開けていい?」

 少女は頷く。滑らかに障子を滑らせると、雨音は途端に大きくなった。

「こりゃやまねえな……」

 土砂降りの雨を前に難しい顔をしていると、いい匂いがした。久々にかぐ温かい匂い。

――少女は確かに、嵐の頼み通りの事をした。腹が減っているという言葉の通りに。

 漆塗りの膳の上では麦ご飯と味噌汁が湯気をたて、ほうれん草のおひたしや糠付け胡瓜の色が鮮やかだった。別の膳には野菜の煮物と焼き魚が美味そうな香りを発している。腹は正直だった。

「こんなに?」

 飯櫃を抱えた少女は頷く。ここまで優遇される仕事も珍しい。

――自身の生活より贅沢かもしれない。

 食事を目の前に、あぐらをかいて、そう思う。あまりの豪勢さに、どこから手をつけていいかわからないでいると、すい、と少女が茶碗をさしだした。手にとると、今度は銚子を出す。

「酒?」

 少女は銚子を傾け、透明な液体を茶碗に注いだ。途端に、芳醇な香りが鼻をつく。少女に飲むよう促され、一気にあおいだ。

――目が覚める。

 五臓六腑に染み渡るとはこう言うのだろうか。飲んだ途端、体の内側から震え立った。

「うまいなぁ、これ」

 満足そうな嵐の笑顔につられるようにして、少女も笑う。そして、更に注ごうとする少女に対し、嵐は茶碗を手で塞いだ。

「ごめん、弱いんだ。また次に頼む」

 ふ、と少女は顔から表情をなくした。気を悪くしたかな、と少し申し訳なく思い、努めて明るい声で言う。

「これ一人で? 凄いな」

 芋の煮物を口に運ぶ。決して濃い味ではないが、しっかりとした味が口に広がった。

「美味いよ」

 ぱっと少女は微笑む。華が咲いたような美しさがあった。少女と外を眺める。雨は止みそうになかった。


二章 終り

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