六章
後から来た明良に事の次第を告げ、嵐は本堂前の小さな階段に場所を移した。
「こっちの方が声が響かない」
僅かな配慮に微笑し、階段の上段に腰掛ける。嵐もその隣に腰を落ち着けた。
「何から話せばいいんだろうな……」
両膝の上に両腕を置き、手を組む。視線は階段の先を見ている様でも、虚空を見つめている様でもあった。
「……おれは、何才に見える」
すっかり聞く態勢だった嵐は、突然の質問に驚きつつ答える。
「……年上だろう。俺より」
「どれくらい」
「……からかってんのか?」
悪い、と言って笑う。
「二十七、八才ぐらいか、そうすると」
「俺にはそう見えるが」
「間違ってはいない」
含みのある言い方が気になった。
「何だそれ」
「外見は、二十八才だろう」
「……中身は」
「四十才ぐらいいってるんじゃないか」
人事の様に言うが、恐ろしく外と中の差が激しい。嵐が二の句を次げないでいると、慎は微笑し、前方へ視線を転じた。
「……田舎はもっと湿った風が吹いていた」
ささやかな風が頬を撫でる。
「年寄りばかりの所で、熊も出た。見た事あるか?」
生まれも育ちも東京の嵐は、いや、と言う。
「畑を荒らすわ、鶏を食べるわ……たまらなかったな。あそこは若者なんて殆どいなかったのに」
懐かしむ口調が、段々と低くなっていった。
「退屈だった。……おれ達にあそこは狭すぎた」
慎の表情は暗い。
沈黙を保っている間、虫の音が異様に大きく響いた。
「……肝試しのつもりだったんだ」
自ら沈黙を破った慎の声は後悔に満ちている。
「友達と四人で、村にある妙な家に行った」
今でも思い出せる。さびれた外観とは反して中は丁寧な作りの屋敷に、紅い着物が印象的な少女――そして、あの水。
「鬼がいるっていう話は嘘だったのさ。迷いに迷って着いたら、女の子が迎えて、水を飲ませてくれた」
本当に美味かった、と慎は続けた。
喉の渇いた彼等にふるまわれた水は、正に命の水と言うにふさわしく、美味かった。何杯飲んでも腹は膨れず、気付いた時にはすっかり日が暮れており――慌てて、屋敷を出た。
「けど、道はなかった。おれ達が来た道も森も」
どれだけ歩き続けたのだろう。
歩けども歩けども風景は変わらず、また太陽も沈まない。変わらぬ風景と変わらぬ光の中、不思議と疲労はなかった。
しかしその変化の無さが、彼等の存在をあやふやにした。
「空腹を感じ始めた時、一人目が発狂した」
空腹によるものでない事は、皆承知していた。
変わらぬ時間が、そうさせたのである。
一人目も、その後も。
「皆、限界だった。心も……体も」
慎の話に、どこか奇妙な既視感を感じ、問う。
「……どうした、一人目は」
ちらりと嵐を見て、迷いつつ重い口を開く。
「……食べたよ。……殺したんだ」
驚愕よりも、哀しさが息を詰まらせる。
「腹も、よくわからない力も満たされた」
今もあるその力は、何の為なのかわからない。
友人を失ってまで得る様な力なのか、わからなかった。
「また歩いて……今度は二人目が発狂した」
「……食ったのか」
慎は微苦笑して返しただけだった。
「……三人目は発狂しなかった」
そう、発狂はしなかった。――それだけは嫌だと、彼は言っていた。
「自殺したんだ」
何も言わず、何も残さず逝った友を前に、恐ろしく冷静だった。
どうすればいいか。
――自分が生きる為に。
「……三人目も食べた。一人になって……無気味なくらい感覚が冴えたよ。森を出るのは簡単だった」
そして己の浅ましさを知った。
森を出れば容赦無く現実が襲い掛かり、永遠とも言える生を選んだ自身の浅ましさを呪った。
何故、自分が生きて周りが死ぬのか。
「その時、おれは人間をやめたんだ」
「……そうか」
「あの白い犬は、森を出た時から付いてきてる。多分、賢也だろう」
「三人目か?」
「おれが許せないんじゃないかな」
笑って言うが、どこか諦めにも似ていた。
慎はそれ以上話そうとせず、黙って風を身に受けている。
「お前が言ってた森だが」
「鷲鼻森か」
予想がついていてだけに、そうか、としか言えなかった。
「まだ死にたいか」
「……まだ、死にたいな」
また、そうか、とだけ答える。
その時、嵐は何を思ったか突然立ち上がり、本堂の本尊の横から何かを持ってきた。
「煙草。お前吸う?」
「吸うが……」
口篭る慎に一本渡すと、嵐は早々に火をつけてふかした。
「禁煙してたんだがな」
吸いながらポツリと呟く。思いがけない嵐の独白に慎は微笑し、煙草に火をつける。
「……付き合わせたか?」
「いや。煙草でも吸ってなきゃ、やってられん時もあるさ。今もな」
「……おれもだ」
一息吸えばニコチンが体を巡り、覚醒へ誘う。慣れるのが怖い感覚だ。
しばらく紫煙がその場で浮いたり、流されたりし、何度目かに紫煙をくゆらせた嵐が口を開く。
「……お前が言ってた森だがな、知ってる」
黙って慎は煙草をくわえた。
「お前らに水を出した子も。話すか?」
いや、と言って慎は首を横に振った。
「いい。本当の事は、そんなに知らなくて良いんだ」
「……あやふやで良いと?」
「おれに似て丁度良い」
くすりと笑って、煙を吐く。
「うまいだろ、これ」
煙草を持ち、示す。
確かにうまく、滞る事なく滑らかに煙草の成分が体内を巡った。
「高いんだ。ここの住職のだから」
さらりと告白され、思わず煙を吸いすぎた。
涙を流しながらむせる慎の様子を、非道いことにくつくつ笑いながら嵐は見ていた。
「あんな所に隠してな」
にやにやと後ろの本尊を指す。
「それであの住職、こそこそ吸ってるんだ。高いから誰にも見付からないようにな」
その様子が目に浮かぶ様で、おかしかった。
「でもいいのか。勝手に」
「神様の前で隠し事はいかんだろ」
本尊の御足元に隠す程の度胸の持ち主である住職に内心で拍手し、その住職の上を行く嵐に密かに喝采をあびせた。
「君は、もっと人に無関心だと思っていた」
言われ、嵐は眉をひそめる。
「そうか?」
「ああ」
「お前に言われたくねえよ」
「どうして」
「お前だって」
「馬鹿言うな。友達は結構いた」
言い負かされて、嵐は言葉に詰まった。友達の少なさにかけては自分の右に出る者はいないと、妙な自負をしている。
「俺はいない」
「明良は」
「……あー……友達か」
「……違うのか」
「わからねえな。……多分友達だろ」
いい加減な口ぶりに明良を哀れに思う。
虫の音が大きく響き、夜風は冷たさを増していた。煙草を見つめ、慎はぽつりと呟く。
「おれも一つ告白するか」
煙草をくわえ直し、慎を見る。
「あ?」
「おれも禁煙中だった」
既に煙草の三分の一は灰と化して、階段に落ちている。
「……遅えよ」
「やっぱり、そうか」
「うまいからな、これ」
「ああ。久々に吸った」
ぽろり、と灰が一欠片落ち、慎は立ち上がって階段を降りると煙草を踏んで消した。
「押し付けて消せば良いのに」
見れば階段の段や手摺りには、小さい焦げ跡が多数見受けられる。住職や嵐、明良等がつけた所業の痕跡だろう。微笑してつぶれた煙草を拾いあげる。
「ゴミ箱はどこだ?」
そこ、と言おうとした時、耳をつんざくような金切り声が響いた。
「……女?」
「なんだ……」
立ち上がり、辺りを窺う。遠く、人々のざわめく声と悲鳴のようなものが聞こえた。――そして空を紅く染める光。
「火事か?」
嵐の言葉を耳にするや否や、慎は駆け出した。慌てて後を追うが、尋常ならぬ速さは鬼としての力からか、あっという間に引き離されてしまう。
息も切れ切れに走る嵐の脳裏を、嫌な想像がよぎる。
「……あいつ……!」
舌打ちし、暗闇を光に向かって駆けていった。
六章 終り
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