終章

 甲高いクラクションに促され、嵐は中古のビートルの側に戻る。

「用は済んだか」

 車の屋根に両腕を置いてもたれかかる男に頷いてみせた。

 男はやや長めの髪を茶色に染め、小さめのサングラスをかけている。――これで一応は寺の坊主だというのだから、世の中は本当にわからない。

「いいか?」

「……ああ」

 家から視線が離せないでいた。鯨幕を張り、提灯を門前に掲げ、沢山の黒服の客を迎え入れる家から。

「でも間に合ったんだろ」

「一応な」

「どうだった?」

「……そういうこと聞くか」

「だって仲介人オレよ?」

 当然という顔で尋ねてくる。確かに、この坊主――汰鳥 明良が今回の件をどういうツテだか嵐に回したのだ。知る権利はある。

「死に水にはならなくて済んだよ」

「まあ死に水で酔いたかないわなぁ……」

 見当違いもいいとこの発言に殴ってやろうかと思う。

――ありがとう。

 ふと、いさめるように海山の声が蘇る。細く、注意しなければ聞こえぬ程弱弱しい声だ。

――ありがとう。本当にいい酒だ。

 満足そうに微笑む。

 それから上下する胸の動きが止まるまで、時間はかからなかった。まるで、その一口を待っていたかのように。

――やっと。

 枕元に座し、少女は笑った。

――やっと、あなたと。

 空気に溶け込むようにして、少女は消えた。

 嵐の手には、家族からお礼といって渡された封筒がある。厚さからして察しがついたが、開ける気にはならなかった。開ければそこで、海山や盃との関係が途切れてしまう。――あるだけで誇りに思える、関係が。

「それで? 帰るけどお前は?」

 目を離せなかった。

 しかし、と、無理矢理に家から視線をひきはがす。

――いいじゃないか。

 肉体がなくたってそれ以上のものがあるのだから。

 明良に続いて助手席に乗り、窓を全開にする。

「エアコン効かないだろ、閉めろ」

「いいから動かせって。風が入って涼しいだろうが」

 不服そうに眉をしかめて、明良はエンジンをかけた。

「そういや……」

 明良がラジオのチューナーをいじりながら尋ねる。

「酒飲んだ?」

 シートベルトをしめていた嵐は、思わず身を固くする。

「なに、飲んだの?」

 それを肯定の様子と受け取ったのか、明良は身を乗り出した。

「美味かった? やっぱ変な効果あった?」

 変な効果とやらを望んでいるなら――決して言うまい。

「ないない」

「……本当かぁ?」

「坊主が人を疑ってどうすんだよ。俺は寝る」

「……嘘くせぇ……」

 まだ言い足りなそうな明良の脛を、狭い車内で思い切り蹴る。声をあげることも出来ず、明良は渋々ギアを変え、アクセルを踏んだ。

 ゆっくりと、車が動き出した。

「煙草吸うぞ」

「どうぞ。ラジオもっと静かなのないのかよ」

「決定権は運転手持ち」

 つまり逆らうな、という要約い至り、嵐は「へいへい」とだけ言うと、窓の所に腕を置いた。

「ケガするぞ」

「脇見運転の方がよっぽど怖えや」

 減らず口に明良は閉口し、アクセルを踏む力を強めた。

 サイドミラー越しの鯨幕が段々と遠ざかる。遠く遠く、家も遠く、そうして見えなくなる。

――眠れねぇなあ。

 酒の影響か、ここしばらく眠気が襲うことがなかった。今もそれは継続中で、目を閉じてみても眠れそうにない。

――確かに変な効果だ。

 さて、いつ治るのか。

 湿り気を帯びた涼しい風が頬をなで、髪を持ち上げる。

 さしあたって、もうしばらくは本の海にお世話になるしかなさそうだ。

 うっすらと、嵐は目を開ける。

 サイドミラーにはもう鯨幕も家も、映っていなかった。



名残のさかずき 終り

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