一章
事務所と言うのも、家の仲間に入るのだろうかと考える。しかし考えたところで、カビ臭い匂いが鼻孔をついて、無理矢理思考を中断させた。
――入らないな。
ポストから溢れて玄関に散乱するダイレクトメールの山に、留守電のボタンが点滅する電話。
人が住まずとも他者の介入により、事務所というものは息づく。人が住まなくなると朽ちる、家とは違う。
アパートの一室でも事務所と言う名義をつけると、こうも豹変するものかと驚いた。
「……売るか」
今まで律儀に家賃、電気、電話代だけは払ってきた。
探偵というよりむしろ拝み屋をやらせたい明良に、この部屋を紹介され、始めは半ば義務感から家賃やらを払っていたが一年目にして気付く。
――依頼主に自宅の電話番号を教えれば良い。
電話でやりとりする利便性につかり、今日の今日まで事務所の存在を忘れていたのだ。
「何を今更……」
明良からの電話があったのは、朝食を食べ終えてニュースを見ていた時である。事務所はどうなった、と聞いてきた。
脈絡のない話は明良の得意とするところだが、それにしても突然すぎる。何故、と問うた。明良は答える。
何と無く、と。
それからいくつか言葉を交わし、事務所に向かって雨の中を歩き出した時、不意に察した。
――逆らわない方が良いかもな。
何か明良にぶつけてやりたい言葉もあるが、しかし抵抗することなく、するすると事務所へ向かっている。
こうなると、事の成り行きに身を任せた方が良い。下手に逆らって余計な面倒を背負い込むのは避けたかった。
事務所から多聞寺へ直行だな、と考えながら窓を開けて換気する。湿気だらけの空気だが、循環しないよりはましだ。
ここ数日続く長雨は止む事を知らず、だからと言って外で遊ぶ様な趣味も持ち合わせていない嵐には、何ら差し障りは無い。ただもう少し、風景の変化があっても良いのではと思う。
くわえ煙草で黙々とダイレクトメールを整理していると、やや趣きの違う葉書を手に取った。
明らかに手書きとわかる汚い筆記は、読む気をなくす。しかし裏返して差出人を見た途端、嵐は盛大に顔をしかめた。
「天狗、いるか?」
窓の外に向かって呼びかける。するとこれみよがしな溜め息がした。
「天狗、天狗って。それ種類だろう」
「……どっちだって変わらねえだろ」
「あのね」
すい、と鴉がベランダの柵に降り立つ。
「名前って大事なんだぞ。わかる?おれがおれであるのは、名前があるから。お前もそう。お前がお前なのは、名前があるから。そこら辺わかってくれないとね」
偉そうに持論を披露して濡れた体を震わせる。派手に飛び散る水に顔をしかめ、嵐は葉書を差し出した。
「食えって?おれヤギに見える?」
「食っても何しても良いからこれ処分してくれ」
「この間の礼も返してもらってないのに、それを言う」
つくづく可愛いくないことを言う天狗に嵐は声を荒げた。
「始終、俺の側に居て雑鬼を喰ってる奴がそれ言うか!」
「それで助かってる奴が口応えするか」
「……お前……」
確かに寄り付く雑鬼が少なくなり、助かってはいる。それとこれとは違うと言いたいが、辺りを震わす程の大きなくしゃみがそれを妨げた。
天狗は逃げる様に一度羽ばたいてから、また柵に戻った。
「風邪?」
「知るか……」
「鼻風邪って長いよね。ご愁傷様」
少しはいたわれ、と言ってやりたかったが、それよりも葉書の方が気になる。出来るだけ早く処分し、無かった事で済ましたい――済ましたかった。
ところが、断りも無く乱暴に開けられたドアの音により、嵐の目論見は見事崩れ去り、続いてのドラ声に心の底より諦めざるを得なくなった。
「おう、頓道。……なんだここ、相変わらず汚いなあ」
くたびれたスーツの上着を抱え、更に所々すれた革靴を脱いで上がる。
無精髭と細めの顔が合わさり粗野に見えるが、垂れた目に宿るのは紛れもない知性であった。
職業病、というものだろうか。男はなめまわす様に部屋を一瞥してから嵐に歩み寄る。
「泥棒が入ったっつってもバレねえな、これ」
「いっそのこと通報して保険金詐欺でもしてみましょうか」
「やめとけ、いくらオレでも揉み消せない。せめて当たり屋程度にな」
刑事らしからぬ言動に嵐は苦笑し、持っていた葉書を出した。
「字汚くて読めないですよ、槇さん。読めたのは名前だけ」
槇、と呼ばれた男は小さく笑い、葉書を取る。
「名前が読めれば充分だ。前なんか宛先不明で返ってきた」
笑って済む事ではないだろう、と思いつつ鴉に目配せをして飛び立たせる。槇は飛び立つ鴉を目の端で追い、笑った。
「普通の鴉か?」
「やっぱり槇さんの方が向いてるんじゃないんですか、拝み屋」
「よせよ。幽霊の類は信じない事にしてんだ」
「俺も関わりたくないんですがね」
「お前、大学ん時からそうだな」
槇は大学の先輩にあたる。サークルにも入らなかった嵐をどこで知ったのか、ある日の「肝試し行かないか」の一言から二人の付き合いは始まった。
不真面目ではなかったが、決して真面目でもなかった槇が刑事になったと聞いた時には心底驚いたものである。
体制に組み込まれる事が嫌いな人間に見えた。そう本人に言うと、槇は笑って「儲けが良さそうだから」と答えた。
その性格は好きなのだが、厄介な事に槇にも幽霊の類が見える様で、信じない気にしないを言い張る槇が、嵐に葉書を出したという事はつまり――そういうことなのだろう。
なまじ力があるだけに、明良が持ち込む話よりタチが悪いものが多い。
普通の人間関係なら喜んで築きたい相手なのだが。
「オレの相手は人間様だからな。彼岸の奴はお前に任すよ」
勝手に任されても、という言葉を呑み込み、嵐は窓を閉めた。
「場所移しますか。ここだと出す物もないんで」
「気にしなくて良いぞ」
「俺が喉渇いたんです。近くの喫茶で良いですよね」
曖昧な返事を返す槇を促し、嵐はくわえていた煙草を水道の水で流して火を消し、空っぽの三角コーナーに投げ入れた。
「こないだ禁煙中とか言ってなかったか」
一連の動作を見ていた槇が口を出す。
「禁煙中だったんですよ」
一章 終り
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