四章
初めは、浅ましい人間だと思った。望むままに欲し、望むままに奪う。
次に会った時は、変な人間だと思った。異形に笑いかける、変な人間だと思った。
三度目は、不思議な人間だと思った。こんなにも美しいものを何故放っておくのかと、嘆いた。
四度目は、愉快な人間だと思った。自分に姿を与え、喜んだ。
五度目には――愛しい人間だと思った。
何があろうと、離れたくないと思った。
嵐は少女を見据えた。――そう言えば聞こえが良いが、単に驚いて動けなくなっただけである。
後ろめたさが山盛りな状態で、嵐は声を発することも出来なかった。
元々話せない少女を前に、嵐も黙りこくってしまえば事態の進展など無いに等しい。だが突然、少女が糸の切れた人形の様にへたりこんだことで、止まっていた時間が動き出した。
虚ろな目に、うっすらと涙が浮かんでいる。そうして一筋、涙が頬をつたった。
その時、嵐は妙な感心をした。――一応、この子も、生きているんだな、と。
「……君は」
しばらく声を発していなかったため、声がかすれている。一つ咳払いをし、言い直した。
「君は……君が待ってる人は、来れない」
流れ落ちる涙をふくこともせず、少女はただ聞いている。
「ちょっと待って」
掌をつきだし、待つように言う。反応が無い為、はたして通じたかどうかは不明だが、そろりと立ち上がってリュックを取りに行く。
リュックを持ち、少女の隣に膝をついて、中から桐の箱を取り出した。蓋をとじている紐を解き、その中から朱色の盃を出す。
漆塗りの美しい盃だった。深みのある赤は鮮やかで、見る者の心を奪う。傷一つないそれは、嵐にも高価なものであるとわかった。
――そして、それは、値段をつけることが出来ないものであることも。
盃の見事な曲線は――途中で切れていたのだ。
「これを知ってるだろう?」
少女はこくりと頷く。
「……同じ物を持っていたね?」
やや間を置いて頷く。
「だけど、なくしてしまったはずだ」
少女は手を強く握りしめた。
「……俺は、憲治さんに頼まれて来た」
嵐はあぐらをかいた。
「頼まれただけだから真実っていうものが何なのか、俺は知らない。俺が知ってるのは、憲治さんが同じ半分の盃を持ってたってだけなんだ」
呆けたように盃を見つめ続ける少女に、事情を話しても通じるのか、と不安になる。
と、その時。涙を流しているだけだった少女が、その白い手を盃に伸ばし、手に取った。
いとおしそうに表面をなで、緩慢な動きで立ち上がり、元は床の間だった所に膝をつく。
「……」
盃の真っ直ぐに切られた面を中の水面に浸し、すうっ、と引き上げる。
盃は芳しい香りを放つ水をまとい、姿を見せた。その光景に嵐は息を飲む。
半分だけの盃は水滴を滴らせ、その丸い曲線の続きを見せた。
完全な形を取り戻したそれは、確かに美しかった。少女の白い手がいやに際立って見える。
「……これは」
鈴をころがすような、とはこの声の事を言うのだろうか。高くもなく低くもない少女の声は、心地よいものだった。
「これは、私」
「……それが?」
「そう。あれから作られた」
少女は嵐が大黒柱と思っていた柱を指差した。
「あれが親か……」
「少し、違う。親じゃないの」
「じゃあ、あれも君?」
「……そう……そうかもしれない。……一人でいたの。ずっと一人だった」
少女は目を伏せる。
「あの泉は?」
「わからない。どうして出来たのか……でも、皆あれを喜んだ」
すごく美味しい、と少女は付け加えた。だが嵐は、美味しいとは違うだろうと思っている。あの泉は――あの酒は、尋常じゃないほどの生気に満ちていた。常人なら体に影響が出る。――その影響とやらが何なのかは図りかねるが。
「でも」
声音が低くなった。
「誰も私を見ない。泉を守っていたのは私なのに……私が、私が見守っていたのに……!」
みしり、と盃が悲鳴をあげ、少女は手の力を緩めた。
「……憲治も、そうだと思っていたの」
だが違った。
真実、少女を見極めようとし――そして見出した。精神だけの存在だった少女に、美しい盃という姿を与えた。
「自分が段々磨き上げられていくのがわかった」
そして、それが誇らしかった。
変わるのだ、と。
寂寥感にかられ、醜くなっていく己から。
「……信じられなかった。人間が、こんなきれいな物を作るなんて」
一番貪欲に泉を求め続けた生物が、一番美しいものを作った。それが己に与えられた姿――己だけに与えられた姿だという誇りは、いつしか愛情へと変化した。
ただ一人、自分を見出した人間に――。
「一緒にいたいと思った。あの人は、何があっても私を見出してくれる……一緒にいて、私だけを見てくれる」
ふわりと少女は微笑む。この笑顔と酒に、あの老人は酔ったのか。
否、酔うのではない。ただ夢を見たのだろう。そこに、自分の幸せがあると信じ。
「憲治さんはしばらくここで?」
「ええ。楽しかった。彼もいつも笑っていたの」
「……酒も、美味そうに飲んでたんだろうな」
「一番好きだったみたい。そこから汲みたてのが美味しいって」
少女は泉を指す。成る程、二つの茶碗は少女を老人のものか。
「元気にしてたんだ。病気もしないで」
こくりと頷く。そしてうつむいたまま表情を暗くした。
「……そう、元気よ。私が彼に元気でいてほしかったから、泉を飲んでもらっていた」
「泉の酒をか」
「……美味しいって言ってたのに」
繰り返し呟く。
「美味しいって、言ってたのに……」
雨が強さを増した。
「……朝にあの人は出て行った」
「だから、呪ったのか?」
ゆっくりと少女は顔をあげる。
「だって……約束を破ったんだもの。私を置いていかないって言ったのに」
少女は微笑んだ。
――なぜ微笑むことが出来るのだろうと、背筋を冷たいものが走る。
「何をしても乾きが癒えないように。私の泉でしか潤せないように……そうしたらあの人は戻ってくるしかないから」
呪詛の効果は覿面だったと言うしかない。
老人は――海山憲治は確かに、常に乾いていた。
物を得ても、財を得ても、家族を得ても――幸福を得ても。そうして死ぬ間際の今、ようやっとその渇きを癒そうとしている。どうせ死ぬ身だからと海山は笑っていた。
――死ぬなら、彼女に三途の川を渡してもらいたい。
海山も薄々、気付いていたのだろう。共に生きようとした少女が人外の者であることに――自分が踏み入ってはならぬ所に入ろうとしていることに。
そして気付く。自分は自分の世界を、捨てられないことを。
――悲しいもんだな。
愛しいと思った少女に、結局海山の想いは届かなかった。「気をつけて」の言葉の代わりに放たれたのは、呪詛の言葉だったのだ。――悲しい、というよりもむなしさが先にたっただろう。
共に過ごした日々の答えが、これだとは。
「憲治さんは君のことを本当に好きだったんだ」
少女の表情が固くなった。
「……なぜ、あなたがそう言うの」
「そう思うからさ。好きでもない相手と何日も過ごすなんて出来ない」
「突然いなくなって?」
「一回会っただけだけど、あの人は軽率な行動をする人じゃないさ」
少女は黙ったままだ。
「初対面の俺にだってきっちり頭下げるんだもんな。君にだって何回も言ったと思うよ」
「……いいえ、聞いてない」
「本当に?」
きっ、と少女は睨みつけた。
「私は聞いてない!」
「君が聞こうとしなかっただけじゃなくて?」
「……あの人は……!」
「そうやって、憲治さんの言葉も聞かなかったのかな」
我ながらきついことを言っているような気がする。しかしこうでもしなければ、少女の目が覚めることはない。――話せなかった時の方が、まだ美しく感じた、
多分、と思う。
海山もそう思ったのだろう。最初に会った、言葉も愛憎も、何もしらぬままの彼女が一番美しいと。そして少女の一つの姿である盃を持ち、割った。結果、口を割られた盃と同じく少女の口もきけなくなったのだ。――一番美しい姿のまま、健やかに。
それが少女の望みであったかどうかは別だが。
だが、それが彼女本来の美しさであると説いた海山の想いぐらいは知って然るべきだろう。
たとえ共に生きてゆけなくとも、彼女らしく美しくあれば。
「……憲治さんは、悔やんでた」
「悔やむ? 私が呪ったから?」
「いや、勇気がなかった、って。君を自分の世界に連れて行けないなら、君の世界で自分が生きていけば良かったってさ」
「……なら、なぜ」
「……勇気がなかったんだろ。本当に。普通の人間ならまず腰が引ける」
「あなたは?」
「とりあえず、こちら側に近い人間だからな。馴れてる」
そう、と呟いて少女は視線を泉へ転じた。
「……行こうって、言ってた」
言葉からは刺々しさが失せていた。
「……でも、私には……」
捨てられない。生きてきた世界を。
結局、海山と同じだ。互いが互いの世界を捨てられず、己の世界に固執した。
その為少女は海山を呪い、言葉を失った。
その為海山は乾きを得て、最も美しいとした盃を割った。
「……私は……」
何本目かの涙の筋が頬をつたって盃に落ちる。
「……本当にあの人を好きだったの……?」
愛しいなら何故、永遠に乾けなどと呪詛を吐いたのか。
「愚かな……なんて愚かなことを」
本当に愚かだ。失うことを恐れるあまりに、海山を憎んでしまった。
――何と醜い。
せっかく海山が美しいと与えた姿を自ら放棄し、己の醜さを露呈した。
――何故。
愛しいと思ったのは、幻想か。
「……間違っちゃいないよ」
雨音の中、嵐の声が異様に響いて聞こえた。
「……好きなら好きで、お互い結構わがままになるもんだ。離れたくないならそのぶん、どうにかしようと思うのが本当だろうよ」
「……いいの……?」
「いいかどうかは本人次第じゃないか」
呪詛を持ち出すあたり、やりすぎな感もいなめないが。
「だけど、君は待ってたんだろう」
茶碗も布団も何もかも、海山のために用意されている。シャツの意味が初めてわかった。
「このシャツな、憲治さんに着ていけ言われたんだよ。君にわからせるためだったんだな」
シャツを着た嵐は、おそらく彼女には海山に見えていたのだろう。今までの優遇の数々は、全て海山に対してのものだったのだ。
「多分、君がまだ自分を待ってくれてるって思ってるんだろう。信頼がなけりゃこんなことやれない。待ってるんだろ? まだ君も」
少女はゆっくりと顎をひいた。
――そう、会いたい。
会ってまた、もう一度過ごせるなら。その機会を得られるなら。
「……会いたい。あの人と一緒にいたい」
「……素直が一番だな」
少女はきょとんとしている。
「ああ、一つ聞きたいんだ」
「なに?」
「十年以上前に、ここに人が来てないか。とりあえず四人」
涙をぬぐい、少女は少し考えて口を開いた。
「……来た。喉が渇いていたみたいだから、泉を飲ませたの」
「どれくらい」
「かなり……あれだけ飲んだら……」
少女の言わんとする所が知れる。
「ああ……そうか」
泉の酒には生気が満ちている。その効果はわからないが、おそらく一定量を越せば――不死と言うにふさわしい体になるだろう。
「四人はこの森にいるのか」
「わからない」
「……まあ、死んでないなら……いいか」
むしろ、死ねない体になったことこそ不幸か、とも思えた。――彼等に落ち度はないにせよ。天狗なみに言えば、運が悪かったとしか言い様がない。こちら側の住人になったのなら、縁があれば会うこともあるだろう。
「……あ」
外を見て、少女が声をあげた。
つられて嵐も外を眺め、小さく笑う。
「……なんだ、明るくなっても雨止まないんだな」
空から陽光が射し込んで、部屋が一気に明るくなる。細い雨の筋がきらきらと、輝いて美しかった。
「……あなたは」
「ん?」
立ち上がった嵐を、少女は見上げる。
「なぜ来たの? あの人に頼まれたって……」
「ああ。……そうだな」
すっかり忘れていた。この泉の酒を持ってきてほしいとの事だったが。
――呪詛の影響でああ言ったのなら。
「……ふむ」
嵐は少女を見つめる。
見つめられた少女は首を傾げた。
「……なに?」
「……一緒にいたいんだよな」
少女は頬を染める。
「……まあ、なんとかなるか。つれてってやるから俺の頼み聞いてくれる?」
笑いかける嵐の意図がはかりかねるように、少女はなに、と尋ねた。
「いや、熊出るんだろ? ここ。それなんとかしてくれ」
しばらく考え、ようやく合点がいったようだ。今までのような儚さは見えぬ笑顔を浮かべる。
「私、猟師じゃないもの」
「……やっぱ、無理か」
見上げた空の雲が切れている。雨が、止み始めていた。
四章 終り
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