四章(2)

「強盗殺人です。犯人が逃走した時、おれも検問にかりだされたんで。……そういう犯人の動きと似てませんか」

 長くなった前置きを結論づける。

 だが槇は結論よりも前置きを頭の中で繰り返し、そうして一つの予想をうちたてた。

 あまり気持ちの良い予想とも言えないが、隣で俯く嵐の様子に、軽く確信を得る。

「その犯人、自殺だかなんだかしなかったか」

「いえ、病死です。裁判で抗争中に」

「……じゃあ、もう人じゃねえな。どう思う、頓道」

 ちらりと槇を見て、嵐は口を開いた。

「事件が起きたのって、雨の日じゃないですか。それと多分ですが、隣町ですよね。起きたのは」

 どちらの問いにも絶句して答える。

 要は当たっていた。

 事件当日は梅雨の半ばで、湿気と熱気で制服が蒸れたのを覚えている。

──そして検問は隣町とこちらの境にあたる、線路沿いに行ったことも。

 けたたましい踏み切りの音がよみがえった。

「……なら間違いないですね。間宮さんが見たのはその男でしょう。最初に見たのが線路の向こうだから」

 線路は境だった。

 隣町とこちらを隔てる、境だった。

「君に顔を見られたと思って、追いかけてきたんだ。しかも雨の日にしか動けないから、段々と近づいてくる形になった」

「……雨の日に人を殺したからか」

 大きな溜め息と共に、ソファに身を沈める。

「もう家まで来てしまったんだ。……次は入ってきますよ」

「そうしたら」

 間宮は震える声を飲み込み、言い直した。

「そうしたら、私はどうなるんですか」

 問いに答える者はいない。間宮は嵐の目を見る。

 答えは明白だった。

「……どう、すれば」

 生き残れるんですか、とは言えなかった。

 まるで自分が死ぬことを前提に話していることになる。

 嫌だった。

「逃げるしかないと思います。……悪いですが、これは俺がどうにか出来る相手じゃありません」

「頓道」

 ゆっくりと立ち上がる嵐を、槇が厳しい声で呼び止めた。

 だが嵐は至極穏やかな口調で返す。

「最初言いましたよ。俺は逃げるしか出来ないって。どうこう出来る相手なら俺だって何とかしますよ」

 でも、と窓に向かいながら言う。

「出来ない相手に喧嘩ふっかけて、皆が無事に済む方法なんてありますか。一応、分はわきまえているんです」

──分不相応なものを望むから。

 何故か天狗の言葉が思い出され、嵐は小さく嘆息した。

「……まあ、逃げるまでに最低限のことはしますよ。槇さん」

 名を呼ばれ、槇は振り返る。

「今度からバイト代払って下さいよ。こんなのが続いたらいつか胃に穴開きます、俺」

 あながち嘘とも思えない発言に、槇は苦笑ともとれる息をもらし、頭をかいた。

「考えとくよ」

 頼みますよ、と念を押し、窓を薄く開ける。

 冷え込んだ空気がなだれこみ、嵐は思わず身をすくめた。しかし閉じたりはせず、庭木に止まる鴉を縁側に呼ぶ。

「適当に家の周りの空気を散らしてきてくれ」

 足元からくるりと丸い目を向ける鴉の返事はない。

 ただでさえ急がねばならない時に、我儘を聞いてやる道理はない。嵐はしゃがみこみ、声をひそめた。

「……人間以外のは食っていいから」

 道理はない。そう思いこそすれ強く出ることは出来なかった。

 鴉の姿であっても本質は天狗である。喧嘩で勝てる相手ではない。

「あの餓鬼は」

「食うな。お前そんなだといつか腹壊すぞ」

「心配してくれて有難いけど食性に壁がないんだ。お前だって血の臭いのする餓鬼なんか連れてると、巻き添えくうぞ」

「……何のだよ」

「お前の鈍感さを表彰してやりたいよ。さっきの推理は奇跡だね」

 聞いていたのか、と半ば感心する。腰はひけつつも好奇心には勝てなかったようだ。

「一つ教えてやるよ」

 毛づくろいをする鴉に興味のなさそうな返事をする。実際、興味はなかったのだが、次に吐かれた言葉に耳は敏感に反応した。

「あの男はまだ境界を越えられるほど強くない。女に見られてやっと越えられる程度さ。ってことは、つまりどういうことだろう?」

 丸い目が面白がるような光を帯びる。

「謎かけか?」

「違う。真実さ」

 鴉は二、三歩跳ねるように移動し、小雨の中に飛び出していく。

 首を傾げその姿を見送ると、嵐は窓を閉めて顔をしかめている槇の横に戻った。

「遅ぇ。寒い」

 一言の内に二つの用件を述べ、わざとらしく肩をすくめる。

 気のない謝罪をしてから嵐は間宮に向き直った。

「この家の周りを、その男の気配が囲んでたんで、ちょっと散らします」

「はあ……」

 不審そうに眉をしかめる。一体何を言い出したのかと、目を細めてその真意を探ろうとした。しかし両眼はただ目の前の光景を映し出しただぇであり──否、自分でそう判断した瞬間、間宮は自分で否定する羽目となった。

 光景に被るようにして、ぼんやりと霞が漂っている。

 更に目をこらすと、霞は次第にそれぞれへと収束していった。

 収束し、形を成していったそれらは──確かに人だった。

 それもいつのまにこれだけ入り込んだのかと思うほどの人数である。

 顔色を変え、視線をせわしなくさ迷わせる間宮を見て嵐は嫌な確信を得る。

「見えましたか」

 承知済みといった顔に腹が立ち、間宮は眉をつりあげた。

「なに、これ。何の悪戯?」

「悪戯じゃないですよ」

「ならこれがあんた達と同じってこと? 冗談! やめてよ、馬鹿馬鹿しい」

 今まで目にしてきたものが真実である。

 そこへ半ば割り込むようにやってきたものは、虚偽としか言えない。そうすることで自分を納得させなければならなかった。

 間宮は充分、尋常ではない状況にあるのだから。

 だが嵐は頭に手をやり、軽く溜め息をついただけだった。

「別に全部ひっくるめて信じろなんて言いませんよ。信じない方が自然なんだし。でも一瞬だけ信じてくれませんかね」

 言って、少し困ったように笑う。

「君は本当に見境無く見るみたいだから。お寺に行って何とかしてもらうまでは、一応信じてもらわないと」

「寺?」

「見えなくすることが出来るかもしれないんで」

「出来るの」

 嵐は嘆息と共に、多分、と言った。

 確信はなかった。嵐は見えることを不幸だと思ったことがない。

 面倒だとは思いこそすれ、なくなってしまえと恨んだことはなかった。

「ええい、いきなりだなあ」

 不信感も顕に嵐を睨み付ける間宮を眺め、槇はあくびまじりに声を発した。

 二人の攻防戦を見ていた高仲は槇に視線を転じ、当事者である嵐は面倒そうに顔をそらし、間宮は険を含んだ視線を槇に投げかける。

「今まで見えなかったんだろ。これが、このお嬢さんには」

「基本的には見えたんですよ」

「なんだそれ」

 言いながら立ち上がる。

 長時間、辛気臭い話を同じ視線のまま続けるのは、いささか腰に負担が大きかった。

 立ち、天井に向かって両腕を伸ばす。途端にぼきぼきと、解放感と共に耳障りな音が鳴った。

 一人晴れやかな顔をしている槇を見ながら、嵐は淡々と言う。

「目隠しされていたんだと思います。家の周りが例の男の気配で囲まれてましたから」

「そこまでわかるのか」

 ここぞとばかりに肩を叩き始める。

 一連の動作を眺めながら、嵐は苦笑した。

「それだけ強いってことです。逃げる時に邪魔されちゃかなわないんで、散らしたんですよ」

「誰が」

 にやりとして槇は問う。

 だが、嵐は冗談で応じることはしなかった。

──出来なかった。

 全身をとりまく冷気に肌が粟立ち、感覚として髪が逆立つような緊張を覚える。

 それは自身の内から沸きあがる感情ではなかった。

 あえて言うならば脅迫的な緊張感だろうか。

 獲物を視界に捕えた捕食者が、歯牙にかけるまでの時間を楽しむようただ無意味な殺気を発し、恐怖にかられる獲物を追う。

──狩りなんだ。

 嵐は判断を再度改めざるを得なかった。

 男にとって他人とは「対象」でしかなく、偶然にも男の姿を見てしまった者は最優先的な獲物となる。

 それは男の故意によるものだ。

 見られて仕方なくではない。

──満足を得るために、男は見られようとしている。

 表情の変わった嵐の様子に槇も何かを察し、細い目を更に細めた。

 間宮も何か感じるものがあったのか、寒そうに身を縮める。高仲だけが平和そうな顔で三人を見比べていた。

「おい」

「……来ましたよ」

 低い声で言う。

 それを合図にするように、激しくドアを叩く音が響き渡った。

 大人しいものではない。半ば殴るような音だった。

 まるでそのままドアを壊し、入り込もうとでもするかの如く。

 一つ一つの音が轟音のように家を震わし、間宮は口に手をあてて後ずさった。

 気にしない信じないを信条にしている槇でさえ、この轟音には顔をしかめざるを得ない。確かに聞こえてしまうのだ。

 ドラマみたいだな、と槇は考えていた。

 犯人である自分達を捕まえるべく、刑事が激しくドアを叩く。

 その音で威嚇でもするように。

 効果は絶大だ。槇ですら、こんな馬鹿なことを考えることで現実から逃避しようとしている。

「ほんとに来たな」

 苦笑しながら言う。つられて嵐も表情を弛ませた。

「雨ですから」

 音は一定のリズムで鳴り続けている。もはや来客を告げる音ではなかった。

 太鼓のような轟音が家を震わせるたび、間宮は体をびくりとさせていた。

 連続する音は間宮に忍び寄る足音でもある。

──死神とでも言おうか。

 「運命」を書いたあの作曲家も、こんな気持ちで来客のたびに怯えたのかと思うと、妙に安堵した。

「……逃げなくていいんですか」

 おっかなびっくり立ち上がり、高仲が嵐に言う。

 嵐は頷き、間宮に向き直った。

「逃げますよ。いつも身につけてる物ありますか」

 問われ、自身をくまなく見つめ直す。

 ポケットから懐から探してはたと気付く。

「……この上着」

「それを身代わりにして、時間を稼ぎます」

「捨てるの?」

 薄いピンクが気に入って買った物だ。ここしばらく間宮と生活を共にしてきた。捨てるとなると抵抗がある。

 嵐はかすかに顔をしかめ、語気を荒げた。

「自分よりも上着が大事ならどうぞ! 俺は逃げますよ」

 間宮に対して初めて怒気を露にする。肩をすくめる間宮を見やって息を吐き、槇は嵐を叱咤した。

「言いすぎだ、馬鹿」

「……そんなこと言ってますけどね、俺だって限界なんですよ」

「どういう風に」

「ああもう、形容出来たら切々と語ってみせますけどね。あの男は本当に強いんですよ。俺なんか相手にならない」

「オレだったら?」

「瞬殺です」

 間髪いれずの物言いに槇は呻いてみせる。

──珍しい。

 あちら側の者に抵抗のない嵐がこれほどまでに狼狽えるのを、槇は初めて目にした。

「とにかく逃げるだけです。俺にはそれしか出来ないし、だからそれに反対されたらどうしようもないんですよ。いいですか!」

 説得する気はないらしい。後半はほぼ怒鳴る形となっていた。

 嵐自身ですら、自分の狼狽ぶりに驚いている。太鼓のようなノック音が響くたびに心臓が飛び上がり、可能ならば体を置いて心臓だけでも逃げ出したい。

 本能的なものだった。

 恐らく間宮も同じだ。しかし彼女には逃れえなかったその後に死が待っている。嵐には彼女を助けられなかった後悔が待っている。

──どちらも御免だ。

 嫌な思いは今までに充分してはずである。

 間宮も、そして嵐も。

 救われないというのはあまりにも悲しすぎるのではないか。

 こんな時、槇の気丈さが少し羨ましかった。

──まあ、仕方ないか。

 嵐は慣れている。あちら側に触れることも、触れられることも。

 だが間宮は慣れていない。恐いのは当然だろう。

 いくら狼狽していたとはいえ言動が過ぎた。

──落ち着こう。

 あちら側に対し免疫があるのは嵐だけである。

 自負ではなく事実だった。

 嵐の怒気にあてられすっかり怯えてしまった間宮に、努めて穏やかな口調で話しかける。

「すみません。……俺も恐かったんで」

 いくつか深呼吸をすると、跳ね上がっていた心臓が落ち着いてきた。その様子を見ていた間宮も嵐にならい、深呼吸をする。

 ドアを激しく打ち付ける轟音は確かに恐い。だがまだ入ってこない。

 男はまだ、入ってこないのだ。

「これ、あの」

 間宮が脱いだ上着をおず、と差し出す。それを受け取りながら嵐は思考を手繰り寄せた。

 入ってこない。

──なぜ?

「それでそうすれば」

「逃げないんですか」

 質問を繰り返す二人を無視し、嵐は思考を繰り返す。

 入ってこない。男はドアを激しく叩くだけだ。

 なぜ。男は入れないからだ。

 その理由とは。

──境界があるからだ。

 家の内と外の境界が男を阻む。こちらが招かない限り男は入ってこない。

──そうだ。

 鴉の言葉がふわりと舞い戻る。

 男に境界を越える力はまだない。

──ならば境界をもう一度越えてしまえばいいのではないか。

「高仲さん」

 呼ばれて思わず裏返った声で返事をする。だが嵐はどこかを見つめていた。

「この近くに境目みたいな所ってないですか」

「境目というと……」

「何でもいいんです。町と町の境でも神社でも何でも。ありませんか」

 問うた時には確信を得ていなかったが、嵐の答えで高仲は何か確信を得たようである。

 両眼に閃いたような光が宿った。

「神社はここからだと三十分以上かかりますが、町境なら走れば」

 ちらりと間宮を見やり、嵐に視線を戻す。

「間宮さんはおれが背負いますから、十分くらいで」

「どこですか」

「交番を少し行った所です」

 男がどれほどの速さでやって来るのかは未知である。

 しかし境界を越えるしかないのなら、これ以外思いつかない。

「そろそろ説明が欲しいなあ」

 頭をかきながら槇がのんびりとした口調で言う。

 嵐は僅かに顔の筋肉を緩めた。

「さっきから音だけが凄いでしょ」

 ああ、と槇は耳に手を当てる。音の鳴り始めはうるさく感じたものの慣れとは恐ろしいもので、今では嵐の声が小さく感じるほどである。

 音に負けぬよう、かなり声を張り上げているはずなのだが。

「それがどうした」

「叩くだけなんですよ。あの人はまだ、勝手にこちらに入れるほど強くはない」

「……ああ、それが境界ですか」

 合点がいったように高仲が声をあげる。

「はい。家の中に籠もっていれば安全ですが、一生それを続けるわけにもいかないでしょう」

 言って、間宮に視線を転ずる。間宮は大きく頷いた。

「だからもう一度境界を越えるんです」

「待て待て。話が見えん。何のことだ?」

 手を振り、それ以上の話の進行を妨げる。嵐は小さく息を吐いた。

「だから、あの人は最初線路の向こうにいたんですよね。線路自体、町境になっていたんです」

「それで?」

「事件があったのは線路の向こうです。男は向こうに捕われていたんだ。それがどうしてこちらに来たんだと思いますか」

 槇は押し黙る。わかっているはずなのに、と嵐は嘆息した。この頑固さには本当に骨が折れる。

「間宮さんに見られたからですよ。だから彼女についてきた。間宮さんが見たから境界を越えられたんです」

「てことは、もう一度境界を越えるってのは、奴が越えられないようにするためか」

「はい。誰も見なければあの人に境界を越える力はありません。一端逃げ込むには充分です」

「その後は?」

 自分らが境界を越えても男はまだ、こちらの町に存在することになる。

 決して解決したとは言えない。

「俺が別の町に連れていきます」

 仕方ないといった風に言い放つ嵐を、間宮や高仲は唖然として見やり、槇が二人の心情を代弁した。

「……は?」

 嵐は肩から力を抜いた。

「境界を越えたら俺があの人を見ます。それでもう少し遠い所に連れて行きますよ」

「馬鹿言え! お前、さっき言ってたろうが。太刀打ち出来ないって」

「逃げるの専門ってもっと前に言いましたよ。背負って歩くぐらいなら守ってくれるのがいるんで、平気です。途中で誰かが見ればそっちに移るし」

「無責任な……守ってくれるのって何だ」

「自分を棚に上げて言わんで下さいよ。守ってくれるのはさっきの鴉です」

 槇は一瞬目を丸くし、次いで苦笑した。やはり自分の勘はあてになって困る。

「なので高仲さん、交番の自転車貸してもらえますか」

 突然話をふられ、高仲は半ば反射的に了解する。だが了解した後、高仲は思いついたように提案した。

「バイク乗れますか? バイクもありますが」

「本当ですか? それだと有難いです」

「わかりました」

「それじゃあ逃げるかい」

 ラジオ体操のように両腕を振り回しながら槇が言う。高仲も屈伸運動を始め、大きく伸びをすると背中を間宮に向けて屈んだ。

「どうぞ。雨では走りにくいでしょうし」

 すみませんと言って背中におぶさる。高仲は軽々と担ぎ上げ、間宮は思わず小さく悲鳴をあげた。

 さすがはスポーツマンと妙な感心をしていると、槇が嵐の背を叩く。

「お前、それどうするんだ」

 槇は嵐の手中にある薄いピンクの上着を指差す。

 ああ、と言って胸の高さまで持ち上げた。

「間宮さんがずっと身につけていたものだから、身代わりになると思うんです」

「奴がそれを追っかけるってか?」

「多分。家の一番奥……まあ台所あたりで上着持って呼べば」

「はー……面倒な」

「何で槇さんが面倒臭がるんですか」

「オレがやってやるよ。お前、運動苦手だろ。たまには先輩らしいことしてやんねえと」

「……何ですか、それ」

 嵐が眉をひそめると槇はその手から上着をひったくった。そしてにやりと笑う。

「その代わりバイト代は無しな」




 上着を持って男を呼んだらすぐ戻って逃げるよう言い、嵐は玄関で待つ二人の隣に並んだ。

 間宮は高仲の制服を指先が白くなるほどに握り締めていた。

「高仲さん、レインコートは?」

「間宮さんに持ってもらってるんです。走るのに邪魔なんで」

 高仲の背にいる間宮がこくりと頷く。胸には丸められたレインコートが握り締められていた。

 視認しながら、嵐は事の進みを告げる。

 槇が囮になること、男が向こうに行き槇が戻ってきたら全速力で逃げること──そして決して振り返らないこと。

「絶対に見ちゃいけませんよ。見た途端にあいつが追いつきます」

 いいですね、と間宮に念を押す。

 それから靴を履き、ドアの鍵を開けた。居間よりも大きく聞こえるノック音はやはり恐ろしかったが、鍵を開けた時の音ほどではなかった

 この音が男に聞こえたのではないか。はずみでドアが開いてしまうのではないか。

 だがどれも杞憂に終わり、それぞれがほっとする。

 ゆっくりと高仲は靴を履き、嵐が間宮の靴を間宮自身に持たせた。嵐は自分と槇の傘を持つ。

 ドアの真前に高仲を立たせ、嵐はドアノブに手をかけてドアにぴたりと体をつけた。

「槇さんが戻ったらドアと外門を開けます。そうしたらすぐに逃げて下さい」

「先輩は」

「俺と一緒に後から走って行きますから。絶対に振り返らないで下さいよ。何なら間宮さんは目をつむってて下さい」

 最後に大丈夫、と間宮の背を叩く。間宮の肩から力が抜け、何故だか涙が流れた。

 重い荷物を一緒に持ってくれる人間がいることが、こんなにも有難いとは。

──疲れていた。怯えるのも警戒するのも。

「……すいません……こんな」

 巻き込まれたくてこうなったわけではない。巻き込みたくてそうしたわけではない。

 理不尽だ。

 彼等を見てしまうことはあまりにも理不尽すぎる。

 無言で間宮の背をもう一度叩き、ドアに耳をつけた。男の気配がする。強い、迫りくる気配だ。息遣いまで聞こえるのは気のせいだろうか。

 開けたくない。

 心の底からそう思い、それはこの場にいる誰もが思うところである。

──だが。

 ただ息をひそめるだけの時間はとうに過ぎた。

 走り、ここから出るしかない。

 嵐は大きく息を吸い込んだ。

 鼓膜に響くノック音とは違う、床を蹴りつける音が足元を伝う。嵐が槇に教えた合図だ。

 不意にノックが止んだ。

 突然訪れた静寂はどこか不気味で、嵐の前の静けさを思わせる。あんなにうるさかった音が懐かしい。

 そう思う自分に違和感を感じながら、嵐はノブを小さく回した。身を屈め、飛び出す用意をする。

 その時だった。

「こっちだ! こっちに来い!!」

 槇のどら声が響き渡る。

 途端に男の気配がドアの向こうから消え去る。波のようにさっと引いたのを感じ、嵐は勢いよくドアを開け、小雨の中に飛び出した。

 次いで外門を開けて高仲に道を譲る。

 脇目もふらず走る高仲の背を微かな安堵と共に見やり、湧き上がる不安と共に槇の姿を探す。

 開いたままの玄関は何か穴のようだ。入ったら最後、決して出られない。

「何やって……」

 いらいらしだした時である。乱暴な足音が聞こえたと思った先に、槇が靴を抱えて飛び出してきた。

 こけつまろびつ外門まで出てきた槇の背中を押し、嵐も走り出す。

「遅いですよ!」

「こけたんだよ! 知るか!」

 叫ぶように言う。言葉を発するたび雨粒が口に入り込み、二人は自然と無口になった。

──否。

 それだけではなかった。

 背後に。

 足音はせずとも気配のみが追いかけてくる。

 獲物を失うことのないよう牙を剥き出しにし、殺気だけをあてがう。

 背中をぞわりと虫酸が走り、冷たい手が胃の底をなでているような悪寒を覚えた。

 ぱしゃん、と踏み出すたびに聞こえる水音。その連続が虚しく聞こえる。

 口を開けて息を吐くことも、必死になって両腕を振っていることも全て無駄ではないのか。

 後ろからひたすらに追いかけてくるあの男には、通用しないのか。

「てめぇっ……こらっ!」

 走りながら槇が嵐の後頭部を叩く。

 呆けていた嵐は現実に戻り、口に入り込んだ雨水を吐き捨てた。

 更に腕を大きく振り、足を持ち上げる。白っぽい視界の向こうに背負われた間宮の背が見え、そのもっと向こうに交番の赤いランプが見えた。

──いける。

 行ける。逃げられる。

 この理不尽な恐怖から逃れられる。

 嵐は肺に沢山の酸素を詰め込んだ。槇に指摘された通りである。運動不足が祟り、足の筋肉が悲鳴をあげている。

 槇は既に嵐を追い越していた。間宮を背負っていた高仲はゴールを果たし、嵐の言葉に忠実に、後ろを振り向かぬよう間宮をゆっくり下ろしている。

──走れ。

 槇もようやくゴールを果たし、膝に手をついて体を支え、肩で息をしていた。

 あとは自分。

 唇を噛み締めて荒い呼吸を繰り返す。

 きん、と耳鳴りがしたかと思いきや突然視界が白くなった。

「走れ!」

 槇の怒鳴り声が聞こえる。微かに振り返ったその顔は目を強く閉じていた。

──ああやっぱり。

 恐いんだ。

 槇さんも。

 露になっていなかった一点が見れたような気がし、完全に視界がホワイトアウトする。

 上も下も、何もわからなくなっていた。頬に当たる雨だけがやけに冷たい。

「この馬鹿が!」

 声が重なったような響きを持つ声が耳に飛び込み、白い視界から一足飛びに現実が呼び戻される。

 誰かが自分をひきずっている。そう感じるのと同時に、背中を一陣の風が吹きぬけた。

──疾風だ。

 視界の端に黒い小さな影が飛び去るのをとらえた。

 声は実際二人分だったのである。

 天狗と、槇の。

 背後からの圧迫感が消え失せ、嵐は大きく息を吐き出してようやく覚醒した。

「おい! 頓道!」

 緩慢な動作で立ち上がり、激しく咳き込んだ。口の中に雨水が入り気持ち悪い。

 視界の右端には交番の赤いランプが見えた。

「……大丈夫です。……来ませんね」

 確認の意を込めて問う。近くの高仲が前方を見ながら頷いた。

「バイク、いいですか」

「はい」

 高仲はそろりと立ち上がり、目を閉じた間宮の手を引いて蟹歩きに交番に入った。

 目を丸くして一部始終を見ていた同僚を説き伏せ、もう一度外に出る。交番の脇からバイクを引っ張り出し、思案の末、担ぎ上げて蟹歩きになり、嵐の側に戻る。

 前方を向いたまま嵐は立ち上がった。バイクのエンジンをかけ、またがる。

「俺が見て連れていくまで絶対見ないで下さい。視線があったら終わりですからね」

「気をつけろよ」

「守ってくれるのがいるので大丈夫です」

 ちらりと交番の上を見る。鴉が至極不機嫌そうに鳴いた。どうやらまだ餌場を失う気はないらしい。

「……本当だな」

 くすりと槇は笑う。大の男が三人して前を向いたまま直立不動でいるのは、何とも不思議な光景だろう。

 そう考える余裕が出来ていた。

 それじゃあ、と言って第二レースに向かうようエンジンをふかす。

 息を整え、勢いよく後ろを振り返った。

──瞬間、全身を電流のようなものが走った。

 目、はあったのだろうか。

 バイクを急発進させる。風景が紙芝居のように流れ、嵐と後ろからの気配だけが違う世界にいるようだった。

 バイクを走らせながら男の容姿を思い出そうとする。だが出来なかった。

 どんなに思い返してみても男の顔が思い出せなかった。ただコートと帽子という風貌だけしか浮き上がってこず、顔の部分には影がかかっている。

 見てはいけない。

 思い出してはいけない。

 あれは、もう人ではない。

 住宅街から大通りに抜け、いくつかの交通規則を破りながらバイクを走らせた。

 車の間をすり抜け、信号で止まることなどないよう猛スピードで駆け抜ける。

 顔をつぶてのような雨粒が打ち付けていく。穿たれるのではないかと思うほど痛い。ヘルメットでも借りれば良かった。

 この辺りに町境はないのかと焦りが心を覆い出した時、突然迫るような恐怖感が失せた。

 あまりに唐突な展開に嵐はブレーキを踏むのを忘れ、歩道橋を過ぎた辺りでようやくバイクを止めた。

 背が軽い。どっと疲れが押し寄せ、嵐は犬のように浅い呼吸を繰り返し、段々と整えていった。

 そうしてゆっくりと周囲を見渡す。歩道、車道、店の中、どこを見てもあの男の姿はない。

 だが消えたなら誰かに見られたはずだ。

「……どこに」

 額にはりつく前髪をぬぐい、サイドミラーを見る。嵐は弾かれたように背後を振り返った。

 背後の少し上──歩道橋を渡る青い傘。その下からぎょっとしたような目が嵐を見ている。

──その後ろに。

 その少し距離を置いた後ろに、男が立っていた。近づくことも遠ざかることもなく、傘の少年が歩き出すのを機に後を歩く。

 傘をささずに、濡れぼそる帽子とコートをまとって。

──幸運を。

 嵐には何も出来ない。

 だからせめて、と彼の幸運を祈る。

 傘の少年は歩道橋を渡り終え、向こう側の歩道に下りようとしていた。

 そして、あの男も。

 青い傘が見えなくなるまで嵐は見続けた。そして自身の格好の異様さに気付き、少しバイクを走らせて途中の迂回路から対向車線に移り、交番に戻るべく走らせる。

 適正なスピードで走れば、雨粒もさほど痛くない。

 背ばかりが、異様に軽く感じていた。



四章 終り

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