終章

一人目が死んだ。


七日ほど経ち、二人目が死んだ。


程無くして、三人目が死んだ。



いつだろう。


いつなのだろう。



おれの番は、いつ。



いつ、許される。





 炎に包まれた家にかつての面影はなく、床から天井から火がなめつくし、溶けるべきものはすべてただれていた。

――いる。

 辿り着いた時、泣き叫ぶ女性を押し止め、自身も涙を流す男がいた。

 声を、言葉を聞くよりも早く慎は察した。

 肌で、目で、耳で、己に宿る全ての感覚で察し体が動いた。

――やめろ、行くな。

 炎の轟音にまぎれ男の声がするも、慎の足は止まらずに家の中に進む。

 台所も、団欒の場である居間も炎に包まれ、見る影もない。

 ちりちりと肌が焼け、痛い。

 息を吸えば吸った分だけ、周囲の熱気が我先にと飛び込んでくる。口許をおさえ、台所の蛇口――元は蛇口であった筈の金属に手をかけ引っ張った。既に捻る箇所はただれ落ち、ならば引っ張ってしまった方が早い。そう考えがいきつくのは鬼故かと、皮膚の焼ける臭いを嗅ぎながら自嘲気味に笑った。力を込め、痛みに顔をしかめて引っ張る。めき、と音がしたかと思うと設置部分に亀裂が走り、壁を破って細く水が噴き出た。火に晒された水は熱く、慎は間一髪のところで体を捻る。冷たさを取り戻した水を頭から被り、濡れた服を口にあてがった。

 濡れた服越しにする呼吸は幾分、楽だった。細い滝をまたぎ、台所を出る。すると奥の方で轟音をたて、床だか天井だかが崩れた。火の粉が慎に向かい、目をかばった腕にぽつぽつと小さな火傷を作った。

――どこだ。

 焦りは禁物とわかっていても、焦燥感が心を占めていく。

 どこにいる。いるなら示してくれ。声で、呼吸で――強い生命力で。

 おれにはわかる。

 六感を研ぎ澄まし一歩進んだ時、わあん、と泣き声が耳の奥まで響き渡った。決して近くではないが、声は脳を震わし慎の足を誘う。

 誘われるままに階段を上り、二階の小さな部屋の前に立つ。声が微かだが炎の燃え盛る音にまじって聞こえた。炎に包まれたドアは崩れそうで、来る者を拒んでいるようだ。蹴破ろうかと足元を見るが――今更になって裸足であることに気付いた。だが、と口許に笑みを浮かべる。

――大丈夫だな。

 意識的にしろ無意識的にしろ、煙草の火も消したのだし。妙な自信でもって、崩れている箇所からドアを壊していく。

 泣き声が止み、咳き込む声が聞こえた。ゆったりと、怯えさせぬ様にベッドの下に話し掛けた。

「行こう」

 そこには抗い難い響きと暖かさがあり、煤にまみれた小さな手が差し出された慎の手をとる。ひっぱりだすと、大きな瞳に一杯の驚愕を映した少年が出てきた。四、五才といったところだろうか。

「……だれ?」

 咳き込む少年を、まだ湿り気のある服を脱いでくるんだ。

「口をこれでおさえるんだ」

 こくり、と頷き従う。

 微笑んで返し、慎は部屋を飛び出した。

「遊んでたらすごく暑くなって、臭くなって、こわくて……」

「泣いてた? 偉いね」

 叱責がとぶかと思いきや穏やかな声が降ってきて驚く。

「泣いていたから見付けられた」

 極限状態にあって微笑む男は、少年にとって未知のものだった。

「こわくないの?」

「怖いよ。今も、ずっと昔も」

 そう、怖い。炎ではなく己が怖い。今こうして笑みを浮かべる自分がいつ、生の為に人を殺めるのか――怖い。

「早く帰ろうな」

 再び少年が頷いた時、がくん、と足元が崩れ落ち心臓が宙に飛ぶような感覚を覚えた。危ないと思うよりも早く体は反応し、少年を庇うようにして受身をとった。息つく暇もなく、上から容赦なく火にまみれた瓦礫が襲う。

 いくら強靭な体と言えど、ここまで追い討ちをかけられては敵わない。

 肩や、背や、体中のあちこちが痛み、身じろぎして瓦礫をどけるだけで激痛が走る。

――一階だよな。

 階段の真下だろうかと見当をつけるが、動けそうにない。痛みに眉をしかめる慎に、少年は震える声で問うた。

「……大丈夫?」

 彼が動けなくなるという事は、そのまま助からない事を意味する。

「……あまり、大丈夫じゃないね」

 どうする。自分1人で死ぬならともかく、少年を巻き込むのは後免だ。少年一人で帰すには火が大きい。

――どうする。

 どうすればいい。また人を殺すのか。また生きる為に。

 また、殺す。

 また、何もできない。

 また。

――また。

「――させない」

 考えだけが虚しく頭を巡る中、燃えはぜる音を押し退けて声が耳に届いた。静かで、それでいて力強い。

「……賢也」

 白く輝く犬が、目の前に立っていた。



 裸足で飛び出した迂闊さを呪い、かと言って引き返す訳にもいかず恨めしく思いながら走る。

 始め、喧騒かと思っていた嵐の考えは角を曲がった途端に砕かれた。

 家の燃え盛る音が、ざわつくような轟音として聞こえていたのだ。あまりの凄まじさに嵐は言葉を失い、消防士に退けと言われるまで立ち尽くしていた。

「あんた、ぶんじさんの」

 覚えのある声がし、振り向けば見知った顔の男だった。

「裸足でどうした? まさか知り合いが……」

「男が入って行かなかったか。裸足の」

「あ!? あいつが知り合いか!?」

 他人事で話を進めていた男が急に狽えだした。

「入ったきり出てこないんだよ!」

「……くそう」

 仮にも鬼なのだからそうそう死ぬ事はないだろうが、炎に包まれでもしたらあるいは、等と不吉な思いがよぎる。

 しかし死ぬのを望んで入ったならば、それは本望かもしれない。だが、またしかし、と疑問が首をもたげる。走って行った時の顔必死だった。

 呼ばれる様に、と言ってもいい。

「子供助けに行ったのかね……」

 呟く声に顔をあげる。

「子供? 中にいるのか」

「男の子がいるんだってよ。……ったく、見てらんねえなあ、もう!」

 男の中で何かが弾けた様だ。

 周りの人間に声をかけて、隣近所からバケツリレーを始めた。水道の近い家からはホースが伸ばされ、細い水が小さく、だが確実に火を消していく。その働き振りに消防士らも奮起し、当事者の夫婦とおぼしき男女の男の方が、バケツリレーに加わるが、女は呆けた様に家を見つめている。

 じんじんと足の裏が痛んだ。現実に命を奪う相手に、非現実を相手にする嵐は為す術を持っていなかった。

「見付かったかね」

 不意に横から声をかけられ、しかし、平静に応じる。

「今、聞く事か」

「聞く事だな。鬼がおるだろう」

「いるから何だ」

 この状況下にあって尋ねる事ではないと思うと腹立たしさが募る。小鬼はこれみよがしに溜め息をついた。

「嫌味のつもりかよ」

「そう思うなら、何ぞ後ろめたい事でもあるのかね」

「あ?」

 にい、と小鬼は笑う。

「あの鬼が気に入ったか」

「……死なせたくはねえな」

「ならば動け」

 強い響きでもって頭に声が染み渡っていく。

「火を消すには水ぞ」

「当たり前の事……」

「それをあんたは持っているはずだ」

 不意に、小鬼の顔が違って見えた。

「違うか。鬼と同郷の水を、あんたは持っているはずだ」

 ちらりと見上げる小鬼の目と視線が合う。

 その時、悟った。

――同郷の、水。

 弾かれた様に走りだし、人目の無い民家の影で上を見上げて声を張り上げる。

「天狗。居るだろう!」

 暫し、炎の音が沈黙を埋めるが、やがて気だるそうな声が響いた。

「……わかってて、何で聞くかね」

「お前、水出せるか」

「下手な芸人みたいな言い方やめてくれる」

「屁理屈こねるな。出せるのか」

「風雨は味方だよ。朝飯前」

「頼む、火を消してくれ」

「頼む?」

 すとん、と修験者姿の少年が目の前に降り立った。

「鬼を助けろって?冗談じゃない。こっちはいなくなってせいせいするのに」

 人の姿をとる天狗を見るのは久しぶりだった。鬼、つまり慎の所為で得られなかった分、たんまりと、餌を頂いたのだろう。満足気な顔を血色がいい。慎の不在は彼にとって利益をもたらす。

「それでも、頼んでいるのがわからないか」

「さてね」

 言い放ち、天狗は閃いた様に口許に笑みを浮かべた。

「ああ、ならこうしよう」

 天狗が提案する事にあまり耳を貸したくはなかったが、背後からの家の崩れる音が、嵐をその場に立たせた。

「言ってみろ」

「ここ最近、腹っぺらしでね。腹一杯、気兼無しに雑鬼を喰わせてくれるなら、参加するよ」

「……さっき喰っただろ」

「生憎、成長期なもので。どう?」

 尻小玉をくれ、と言われるかと思っていた嵐は内心安堵するが、悟られては図に乗る。神妙な面持ちで嵐は承諾した。

 天狗は満面の笑みを浮かべ、背中から羽根を一本抜いて一振りする。途端に羽根の扇が手中に現れた。

「……えらい特技があったもんだな」

 手品に感心する様な口調で言われ、天狗は眉をひそめる。

「安い奇術と一緒にするな」

 軽く羽団扇を一振りすると風が辺りを駆け巡った。

「一振りでそよ風」

 次に優しく二回振ると、かすかな水滴が嵐の顔で弾けた。

「二振りで風雨」

 更に軽く三振りすると風が強くなり、小さな氷の礫が頬にあたる。

「三振りで雹。軽く降っただけだから、今はこんなもの。全開はもっと凄いぞ」

「なら全開で二振り宜しく」

 自慢気に披露する天狗の背を叩く。反応の薄い嵐に対して不満そうに鼻をならし、翼をはためかして上空に躍り出た。

「餌! 頼んだからな!」

 あまり大声を出されては周りに気付かれる、という嵐の心配をよそに、大声は響き渡った。ところが、炎の轟音にまぎれそれと気付いた者は意外と少数だったのである。

「同郷の水は行ったか」

 戻った嵐を小鬼が迎えた。

「あんたは聡い」

「誉めても何も出ねえよ」

「いいや。――聡い」

 言い切られ言葉を返せずにいると、突如として突風が吹き荒れた。

――天狗とは違う。

 何故、そう思ったのかはわからない。見上げると天狗は手を顔の前でふって否定していた。

 あちらこちらで悲鳴があがり、消防士もあまりの風の強さに放水をやめて身を屈めている。

 嵐とて顔を覆い動く事すらままならなかったが、「あちら側」の者に風は意味を成さない様だ。涼しい声で小鬼は言う。

「成る程な。さても鬼の考えは図りかねる」

「お前も鬼だろう」

 口を開けば砂利が入り込む為、嵐は早口でまくしたてた。その物言いがいたく愉快だった様で、小鬼は小さく笑った。

「ほう、ほう。儂を鬼とな」

「……なら式か」

 思い付きで言ったが、小鬼の反応は強かった。

「さて、何と言うかね。とりあえず、ここで失礼するよ」

「取りに来たんじゃないのか」

 薄く目を開けた先で小鬼は後ろで手を組み、背を向けていた。

「別れを惜しむ者達を割く程、野暮ではないよ」

 嫌に耳に残る声を残し小鬼の姿はかき消えた。

 言葉の意とする所がわからず、強風に閉口していると不意に呼ばれ、顔をあげた。

「……お前」

 半壊状態の家の上にそれは居た。

 白く輝く、それが。

 強風から目を覆うのも忘れ――否、意識を持つかの様に嵐の周囲だけ風が緩みつつあった。

「賢也か」

 犬は動かず、じっと嵐を見ている。

「慎を、殺すのか」

 渇いた喉の奥から声を出す。

 犬は、口を開いた。

 辺りに渦巻く強風の音など押し退け、真っ直ぐに低く、強い声が届く。

「許していた」

 怪訝そうに嵐は眉をひそめるが、犬の輪郭はぼやけ周囲の風も強さを取り戻しつつあった。

 その中にあって、嵐は犬の――賢也の言葉をしっかりと聞いた。

 静かな、一言。

 ただ強く、一言を。

「ずっと、許していた」



 残暑とも言うべき最後のしぶとさを見せ、その日は久々に暑かった。長袖を肘上までまくりあげて嵐は歩を進め、一つのドアを断り無く開ける。

「調子はどうだ」

 白いベッドの上で点滴につながれているその人物は、笑ってみせた。

「明良が後で来る。お前英雄扱いだぞ」

 半身を起こした慎は、投げ出された新聞にざっと目を通す。

「おれじゃない」

 椅子に腰掛け、嵐は見舞い品の果物の缶詰を開けていた。

「あの姿見れば、誰でもお前だと思うさ」

 当然の顔をして蜜柑を口に放り込み、慎にも勧めた。慎も爪楊枝で桃を刺す。

「でも、おれじゃない」

 数分の間吹き荒れた強風によって、家は半壊状態ながらも鎮火した。生存者の存在を絶望的に思わせる有り様で、嵐ですら瓦礫の下から声が聞こえたと言われるまで、生存を疑っていた。

 「奇跡的」にも両者とも火傷は軽く、少年に至っては五日程前に退院し、両親からの見舞い品がこうして病室内に広がっている。その一部が医師や看護婦にわけられ、ある意味で慎は有名だった。

 新聞の見出しを目にしながら、慎は呟く。

「……奇跡だと思うか」

「火事とお前と子供のどれだ」

「全部」

 白桃を食べながら答える。

「火事とお前に至っちゃ賢也だな」

 嵐は缶詰を置く。

「子供はお前だ。奇跡じゃない」

 息を詰めて聞いていた慎は、ほう、と息を吐いた。

「賢也も似たような事を言っていた」

 嵐から視線を外し、横の窓を見る。

「家をおれは助けるから、子供は自分で何とかしろと言われた」

「……親みたいだな」

 驚いた様な顔で振り向き、慎は喉を鳴らして笑った。

「何だよ」

「君は聡いね。変な勘が良い」

 どこかで聞いた台詞に閉口する。笑いの止まらない慎を横目に、すっと立ち上がった。

「遅いな、あいつ」

 わざとらしい理由をつけて退室しようとする嵐を慎が呼び止める。

「嵐」

「あ?」

「見舞い品、少しあげるよ。謝礼として」

「俺、何もしてねえよ」

「したよ。十分なくらい」

「……お前がそう言うなら貰っとく」

 嵐の言葉に、慎は小さく笑ってみせた。

「ああ、感謝している」

「わかったよ。すぐ戻る」

 わざとではなく真実気になっていた様で、退室すると嵐の足音は速い調子で遠ざかっていった。

 足音が聞こえなくなったのを確認すると、慎は一息ついて持ったままの桃を見た。

 口いすると甘い。

 鬼と化してからというものの、何を食べても味がせず――血肉の味が抜けなかった。食べる事で生を保つ必要もなくなったのか、と呪った。

 しかし彼等の出す食事は美味かった。

 時には辛く、苦く、そして甘い。

――死ぬなよ。

 犬の口から発せられる賢也の声が蘇る。

――ずっと、守ってきたんだ。こんな所で死ぬなよ。

 どういう事だ。

――生きる事を選んだんだろう。なら、生きるべきだ。

 無言でいると不意に口調は優しいものになる。

――後悔していない。俺達はずっと許していた。

 許す?

――あの時、お前が一番普通だった。俺達の中で一番、普通だった。

 犬はすぅっ、と目を細める。

――二人死んだ時、お前が生きる事を俺は選んだ。

 あの時の驚愕が思い出される。

――だから、死ぬなよ。

 犬の姿が炎のうねりに溶け込み出す。

――お前は、子供を助けて生きるんだ。

 ただ消えるのではない事を、これで本当に消えてしまう事がわかった。

――許していた。

 鬼でも涙は流れるものなのかと、遠い所で考えていた。

――ずっと許していた。

 蘇る声はひどく静かで、怒りも何も超越した雰囲気を持っている。

 そうしてようやく気付いた。

 目を向けた世界はあまりにも広く美しい事を。



「……慎?」

 遅れた明良をこづきつつ滑らせたドアの先は心地よい風が巡っていた。

 開け放たれた窓からはやわらかな陽光が射し込み、白いカーテンが躍って影を落としている。

 陽光に照らされたベッドには、何者の姿もなかった。

「……病室、ここなんだろ」

 後ろで明良が間抜けな質問をする。嵐とて通い慣れた病室を間違えるはずがない。

 歩み寄って触れたベッドは微かに暖かく、枕は人の頭の形にへこんでいた。

――ああ、これは。

「まさか窓から……!」

 血相を変えた明良が乗り出す。

 しかし眼下に広がるコンクリート面には何も見当たらず、安堵する反面新たな心配がよぎる。

「ちょっと看護婦さん呼んでくる!」

 どこかで自殺でもするのでは、と思っているのか、明良は顔を青くして飛び出した。

 涼しい顔で見送り、嵐は枕元にあったそれを手に取った。

「出てこいよ」

 どこへともなく声をかけると、ベッドの向こうから小鬼が現れた。

「随分、時間がかかった」

「俺の所為じゃない」

「気付かぬあんたが、ぬけている」

「仕方ないだろう。そう何度も見た訳じゃない」

 小鬼は目を細める。

「気配でわかるだろうが」

「知るか。あの犬がこれだなんて」

 手の中で遊んでいると小鬼が無言で手を差し出した。

「あんたには無縁だ」

「一応は当事者だが」

「それに関しては、あんたよりも儂に縁がある」

 言葉負けし、放り投げたそれを小鬼は宙で見事に掴む。開いた掌の中には、茶ばんだ歯が一つ異様な存在感を放って転がっていた。

「鬼が欠けると何だ」

「鬼は人の心も持つ。欠ければ心無しとなり、たださ迷うだけの幽鬼と成り果てるのみだ」

「犬は? 何だ、あれは」

「心さ。想いは飛ぶと言うだろう」

 歯を懐にしまいこみ、小鬼はひょこひょことした足取りで窓辺に立つ。

「それはどうする」

「埋めてやるんだよ」

 オウム返しに尋ねると、優し気な笑みを浮かべて答えた。

「土くれと一緒ではあまりにも哀れ。そうと知ってあいつは儂をあんたの元にやったんだ」

「……誰だそりゃあ」

 そんな奇特な真似をする人物は聞いた事がなかった。小鬼は転じて、意地が悪そうな笑みを浮かべて、窓のさんに立つ。

「……あいつは目が良い。あんたの事もよく知っている」

「気味が悪いな」

 かっかっ、と小鬼は喉を見せて笑う。

「あいつに見込まれとるぞ、あんた」

 嵐はかすかに眉をひそめてみせた。

「面白い顔だな」

 不快を露にした顔を面白いと言い、小鬼はにやりと白い歯を見せる。

「いずれ、また」

 のんびりと足を外に踏み出し、まるでそこに見えぬ道でもあるかの如くひょこひょこと歩く。重力を無視した光景に嵐は頭をかき、窓辺に寄った。

「また、ねえ……」

 宙を歩く小鬼の姿は次第に薄くなり、やがて霧散した。

「……また来るのかよ」

 人をくった様な性格から、あの小鬼を使役する程の人間を想像すると泣けてくる。

――出来れば。

 会いたくないのが本音だが、「あちら側」の者達は約束事――いくら一方的であれ、律儀に守るものだ。嘆息し、胸ポケットから煙草を出して火をつける。

――禁煙中だった。

 慎の横顔が浮かぶ。

 至極うまそうに、紫煙をくゆらすその顔が。

「……ちょっと、あなた!」

 後ろから看護婦の咎める声が聞こえるが、それ以上に非常事態なのに気付き、ぽかんとしている明良を残し走り出した。

「……何、寛いでんの」

 嵐の横に並び、目で煙草を促して共に吸う。

 病室で煙草を吸うという大胆極まりない事をしつつも、明良はのんびりとした口調で呟いた。

「慎は?」

 二回程、煙を吐いて返す。

「あれ、やるって」

 振り返らずに見舞い品の山を指す。

「じゃなくて。どうしたか知らねえの」

 空を見ながらぼんやりと煙草を吸う。

 乾いた暑さの中、風が全てを巻き込んで吹き荒れる。強く、しなやかに葉を揺らし、頬を撫で、行く人に道を誘う。

 目に痛い程の空の青さも、今は柔らかい。

 臨めば青は高く、街との際はぼんやりと白く秋の訪れを知らせる。

「死んでねえよ」

 嵐はぽつりと呟いた。共に煙草を吸いながら、横目にその顔を見た。

「旅に出たっつったら、少しはかっこいいだろ」

 へえ、と明良はくすりと笑う。笑って返し、また空を仰いだ。

 もうじき夕暮れだ。

 この美しい空の下また歩き出したならば、もう止まらないだろう。

「……もう秋だなあ」

 季節は、変わろうとしていた。

 あの鬼もまた、変わろうとしているのだろう。



鬼の鐘声 終り

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