終章
手を合わせて拝む嵐の後ろから、聞き慣れた声がかけられる。あまり出会いたくない声だったが、この間の一件以来そういった感情は薄れつつあった。
「お参り済んだか」
肩に手をあて、左腕を回しながら槇を振り返る。
「なんとか」
「汰鳥の親父が?」
「明良にそんな力ないですし」
「だろうな。ほら、これ」
ポケットからくしゃくしゃになった新聞の切り抜きを取り出し、嵐に渡す。
受け取りながら槇の姿を眺めた。
「仕事ですか」
くたびれたスーツは相変わらずである。槇はうるさそうに手で払った。
「うるせえ。非番だったのに」
「事件か何か」
「違う。休んだ馬鹿の代わり。……いいから読めって」
どことなく照れくさそうだ。所々省略されている箇所を補うと、この切抜きを取りに行ったところをつかまったのだろう。
本物の頑固だな、と苦笑しつつ切抜きに視線を落とす。
さほど大きくもない記事だった。レタリングで強調された題には「一家惨殺」と書いてあった。
「……殺されたのは佐敷という一家だ。両親、子供……その中にはあの子もいたよ」
覗きこんだ槇がほら、と骨張った指で小さな写真を指差す。
楕円に切り抜かれた写真の中で、彼は楽しそうな笑顔をこちらに向けていた。
どんな時に撮られた写真を使ったのか、満面の笑顔はずきりと心を痛ませる。
「動機は物盗り。逮捕された時、奴の手には包丁と一万円しかなかったそうだ」
やってらんねえな、と槇は嵐から離れる。
たった一万円のために、あの子は暴力的に生を奪われた。
──傘はどこ?
傘を探しているところで絶命したのか、槇から嵐へ移っても彼はそれだけを主張し続けた。
親ではなく──ただ傘を。
親の姿を探す暇もなくただ不意に、凶刃が振り下ろされたのだろう。
「……どうだ」
低く槇が問う。嵐は微かに笑い、切り抜きを返した。
「もう俺の所には戻りませんよ。住職が家族の墓を探してくれるそうです」
寺のネットワークの偉大さを切々と語ってくれた。そうでなくとも責任感のある人である。ネットワークにひっかからずともきっと探し当ててくれるだろう。
「そうか」
嵐から受け取った切り抜きを見つめ、槇はぼそりと呟く。
「数日前に死体が発見された。死因は鋭利な刃物の刺し傷による失血死……てのが表向き」
切り抜きをひらひらとさせる槇を見る。
「実際はよくわからんそうだ。あえて言うなら大型の獣の爪や牙による裂傷に似ているらしいが」
「……」
沈黙を保ち、槇から視線を外した。
「今の日本にはいないだと」
そう言って切り抜きをポケットに突っ込んだ。入れ代わりに煙草を出しながら苦笑する。
「あいつなのか」
嵐はまだ顔を思い出せない。
思い出してはいけない、という本能的な忌避感と察しをつける。
彼は、人であることをやめてしまったのだ。
「……それ、この近くですか」
煙草をくわえて短くいや、と言う。嵐は小さく息を吐き、槇から煙草を一本もらった。火をつけて浅く吸う。
「……ならいいです」
術がない。
嵐にはあの男に大して怒ることが出来ない。怒れるほどの力が備わっていなかった。
それでも静かな怒りを抱く自由はあるだろう。
それが生きる者の権利ではないだろうか。
「──おい、嵐!」
思案を巡らせていると背後から声をかけられる。明良が手に何かを持って来るところだった。
「先輩まだいたんですか」
来るなり無礼な発言をする後輩を一発叩く。なかなかに決まった一発だったようだ。明良は僅かに顔を歪め、持っていたものを掲げた。
「忘れ物。何でガキのなんか使ってんの」
ややくすんだ青い傘である。嵐は明良を睨み付けた。
「供えとけって言っただろ」
「誰に。親父?」
「そう。それに雨なんか降るような天気かよ」
「いや、わからねえぞ」
「降らないって」
すこんと晴れた空は高い。雲一つなかった。
「……わからねえぞ」
あくまで引くつもりのない明良にもう一発見舞ってやろうかと、煙草をくわえた。
するとそれを止めるためかどうかは定かではないが、槇は嵐に質問を繰り出した。
「供え物?」
槇はにやりとする。
からかうつもりだろうか。
嵐は今度は深く吸い、沢山の紫煙をくゆらせた。青空がキャンバスのようで、煙草の煙がそこに一瞬だけの雲を描く。
雨は降りそうにない。
「傘、探していたみたいですから」
──降らなくていい。
あのような暗闇を呼んでしまうような雨ならば、降らなくていい。
誰の肩にも、ただ冷たく突き刺す雨ならば。
「……そうだな」
雨の季節は終わる。
だがあの男はまだ、雨のたびに誰かを訪れているのかもしれない。
亮一は急いでいた。付き合いとはいえ終電までの飲み会には付き合っていられない。
既に電車もなく、タクシーを拾うため大通りを目指す。しかも最悪なことに小さく雨粒まで落ちてきた。嫌なこととは重なるものである。
「ああもう……ったく」
明日を思うと気が滅入る。早々に帰宅したと、付き合いが悪いと散々言われるのは目に見えていた。
だが亮一には帰宅を急ぐ理由がある。
家族もいたし、何よりも先月あたりから囁かれる噂が足を急がせた。
──出る、って。
出る。この場合の意味は、つまりそうなのだろう。亮一には有難くない。
彼は見える方だった。
といっても姿形がはっきりと見えるわけではないが、そこに居る、というのはわかる。
だから急ぐ。わざわざ恐い思いはしたくない。
強くなってきた雨足に閉口し、亮一はカバンを傘代わりに掲げる。雨が降るなんて聞いていない。
ぱしゃん、と水が飛ぶほどに雨がひどくなった時、亮一は人影を見た。
僅かにほっとする。その歩みは普通だが、その人もまた傘を持っていなかった。
仲間だな、と内心ほくそ笑む。ただ歩いているあたり、既に諦めている風でもあった。
──やれやれ。
微かな親近感を抱く。
もう追い越そうというところで、亮一は哀れな同士の顔を見てやろうと、ちらりと振り返った。
古そうなコートと帽子の間。
思わずあげそうになった悲鳴を飲み込み、亮一は足を更に速める。転ばなかったのが奇跡なほど、足や体が震えている。
──なんだ。
なんだ、あれは。
人、という印象は受けなかった。
ただ影が蠢いている。
例の噂のやつだろうか。見てしまったという反面、亮一は自慢出来ると気持ちを奮い立たせた。
出来るじゃないか。霊感があってちょっと嫌なものを見たから気分悪くて──言い訳のネタとしては良い。
亮一は実際見えるのである。言及されても言い返すだけの体験が多々あった。
──早く帰ろう。
恐ろしいと思ったのは久しぶりに見たからだろう。気が付けば体の震えもおさまっている。車が行きかう大通りも近い。
「あー……冷て」
ぶるりと肩を震わせる。雪になるのだろうか。
早く帰ろう。そして家族に面白可笑しく聞かせてやろう。
亮一は足を速め、力強く地面を蹴った。
──何故だか、背中に圧迫感を感じながら。
雨垂れのまろうど 終り
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