詩が帰る場所

(1)

 無音とは何か。


 文字そのままの意味をとれば音が無い。


 ならば音が無いとは何か。


 生活していく上で耳にする音を拾い、一つ一つ消してゆく。


 起きる音、布団を畳む音、歩く音、咀嚼の音、食器の音、衣擦れの音、いってきますの声──。


 車、喧騒、鳥、風が葉をこする音、建物がきしむ音、空調──耳にする音を全て消してみる。


 すると、無音は暗闇であることを知る。


 音を消す。しかしながら目で見る物に記憶の奥底から音を呼び出してみようと試みてしまう。


 だから目を閉じる。


 音は無い。


 しかしごそりごそりと、耳の奥から何かがやってくる。


 目を閉じ、耳を押さえ、顎を動かした。


 ごそりごそり。ごうごう。きちきち。


 音は内側からする──身の内側から。


 そうか、と悟った。


 どんなに音を拒み、消し、無くしても、自身が生きている音までは消せない。


 音の無い暗闇の中で、人は決して自分の光をなくしたりは出来ない。


 完全なる無音とは即ち、自身の生命活動から起きる音すらも消し去るということ。


 ならば無音とは。


──無音とは、人の隠れたもう一つの欲か。


 全ての音を弾き、自身の音も弾き、その先にあるものを求める一方で、やはり音に立ち戻り、世界に帰還する。


 駄目だ、と思う。


 無音は、ありえない。


 無音は、無い。


 私はこんなにも、音に恋しているのだから。



 なぜ自分はこんなところに座って人の足を眺めているのだろうと、嵐はややうんざりした面持ちで考えた。

 賑やかな繁華街の真っ只中にぽつりと存在する神社の階段はおそろしく冷たい。夜という時分の所為もあるだろうが、むしろ聖域独特の静謐さに由来するものに思えた。けらけらと笑いながら通り過ぎる女、顔を赤くしておぼつかない足取りで歩く男、そんな男に声をかける男。見ていて飽きはこないが、その騒々しさに微かに眉をひそめる。

 暗闇を切り裂く光の洪水は目を閉じていても脳裏を刺激し、始めは疎んじて顔を背けていた嵐も、人間の順応性の良さにありがたく乗ることにした。

 ちらりと視線を転じれば繁華街の先には大通を一つ隔てて大きな劇場が門を構え、およそこの風景ににつかわしくない正装の人々がこちらから劇場に向かっていた。本当はあの大通りから劇場に向かうのだろうが、どうもこの繁華街は近道にあたるらしい。しかし使い勝手が良くとも風紀の乱れには臆するところがあるのだろう。逃げるようにして劇場に向かっていた。

 そう、本来ならば嵐もあの流れに乗って劇場へ向かう人間の一人だったはずなのだ。決して正装とは言えぬスーツ姿にしろ、普段の格好からすれば努力賞ものである。

 神社のお賽銭箱の前に座り、嵐はどこか幻めいて見える喧騒に向かって溜め息をついた。

不要となったネクタイはとうに外してある。申し訳程度の電灯の明りもうるさくない。春めいた気温は穏やかに体を包む。

 長話の用意は出来ていた。

「……それで?」

 ちらりと視線を横にやる。隣に座る男はすまなそうに笑った。

「悪いね」

 体格はよく、短く刈り上げた髪と口を囲む髭だけを見ればどこぞの組から来たのかと思いたくなるが、その服装に視線を転じれば人を外見で判断してはいけないという良い例になる。

 嵐よりも正装らしい正装に身を包み、それは一般的にタキシードといわれるものだった。

 そうして全体的に男を眺めると、思いのほかタキシードが似合う男なのだと知る。誤解を与えかねない風貌も品良く見えた。似合う、というよりも着慣れているとの方が正しいかもしれない。

 それが嵐の男に対する第一印象で、嵐を立ち止まらせた要因でもあった。

──あの、すみません。

 のんびりと繁華街を歩く嵐に低い声がかけられる。客の呼び込みかと思っていた嵐は視界の端に映るその姿に思わず足を止めた──止めてしまった。

──チケット、一緒に探してもらえませんか。

足を止めてその顔を直視してしまった手前、無視するわけにもいかない。

 チケット探しに付き合うこと一時間、ここだあそこだと男がつける目星は沢山あれど、一向にチケットは見付からなかった。開演まで時間はあるものの、長時間同じ場所をうろうろして不審者呼ばわりされるのも癪である。

 気晴らしのつもりで男に何のチケットか、と問えば、今まさに自分が向かおうとしているコンサートのチケットだった。

 地域の老人会で祖母が貰ったものを、ぎっくり腰になり、歩くこともままならぬ祖母の代打として嵐が赴いたのである。興味がないと言えば嘘になるが、他人に譲渡することに抵抗もなかった。これ幸い、とばかりに渡そうとするが、男は頑として受け取らない。

 早いところ立ち去りたい気分になっていた嵐が問うも答えは要領を得ず、ああだこうだと言っている間に開場の時間が過ぎた。諦観した顔の男を放って行くのも忍びなく、仕方なしに神社で休息を取りつつ、今に至る。

「観たいんじゃないんですか」

「ああ、うん、いや……観たいとかじゃくてね……」

 要領を得ぬ口ぶりの健在に嵐は軽く溜め息をつく。その様子を見て男はまたすまなそうに謝罪した。

「わたしのことはいいから。行って下さい」

 そう言う顔には焦燥感も見えた。こんな顔をする人間を置いていけば何をするかわからない。

「いいですよ。元々こういう趣味もありませんから」

 半ば本音に近いことを言うが、それが男にはいたく不思議に聞こえたようだ。

 その顔に初めて表情が現れた。

「では一度も行ったことがないんですか? コンサートに?」

「はあ」

「勿体無い」

 初対面の人間に何を惜しまれなければならないのだろうと考えていると、男はぽつぽつと話を続ける。

「……音楽というものを作った人は本当に素晴らしい。きっとこうして座っている間にも、耳にする音を拾って旋律を作り上げたのだろうと思うんですよ。それをどうにかして周囲の人に教えたくて劇場やホールが作られた。現在にまで続くその一環に自分も加われると思うと面白くないですか」

「はあ」

 熱っぽく語られても、と苦笑する。

 音楽に興味がないと言えばそれは嘘になる。元々父親がそういう趣味の持ち主で、ラジオから流れるクラシックや、テレビで放映されるコンサートの様子などを見ながら指揮者の真似事をしていた。

 音楽と共に体を揺らし、腕を振っていると自身がその音楽を奏でているような錯覚に陥るのだという。それは気持ちいいんだぞ、と笑って言った顔を思い出した。

 しかし嵐にとって音楽とは非日常であり、決して生活の主体にくることも表立って趣味にすることでもなかった。

 本を読み、ご飯を食べ、お茶をすするその側で流れていればいい代物である。

 決して嫌いではないのだが、という意味も込めて曖昧に返答すると、男は苦笑した。

「やっぱり駄目なのかなあ、若い人にクラシックは」

「……嫌いってわけじゃないですけどね」

 思わず呟いた嵐に男は、あはは、と笑って返す。

「いやいや。おれのかみさんもそんな感じでしてね、クラシックって言ったらベートーベンしか出てこないような奴なんです」

 砕けた口調には諦めたような感がある反面、親しみやすさがにじみ出ていた。話せばかなり面白い人間なのかもしれない。

「バッハ、シューベルト、チャイコフスキー、ホルスト、ラヴェル。……彼らはいつも彼らの作る楽曲から語りかけてくれる。その声を聞けた時、その楽曲の演奏は成功するんです。それが出来る奴は本当に幸せですよ」

「声ですか」

「そう」

 男は視線を繁華街に向ける。華やかなネオンが目にしみた。

「声にはもう一つありましてね。そこらかしこに落ちている音楽、例えば人の話し声や車の音、信号機とか風の音……それらはとても小さな声で音楽にしてくれる者に呼びかけている。少し前まではわたしにもその声が聞こえたんですがね」

「音楽か何かに関わることでも?」

「作曲家です。佐東清史って聞いたことないですか」

 あらぬ方向に視線をさ迷わせる嵐に清史は笑ってみせた。

「ないか、やっぱり。……そうだな、最近作ってないものな」

「……すみません」

「……声が聞こえなくなったからな」

 ぼんやりと呟くその声に微かな絶望感が滲み出ている。だがその表情はどこか諦めた風だった。

 何を諦めたのだろう。

「スランプじゃないんですか」

 清史を横目に見ながら言った。ちらつく繁華街の光がぼんやりと歪んでいく。そこに溶け込む往来の人々の輪郭も歪んでいき、笑っているのであろう表情すら見えにくい。ただ笑い声のみが静かな神域になだれ込み、それが不思議な安堵感をもたらした。

 こことあそこは流れる空気が違う。

 ただの静寂は不安しか与えないが、この独特の静寂は気分を穏やかにさせた。

 これが、声というものなのだろうか。

「聞こえなくなって二年以上経つ。スランプじゃない」

 急に飛び込んできた声にやや驚きつつ、そういえばこの問いをかけたのは自分だったと思い出す。

 清史は繁華街から視線を自分の両手に落とす。組んだ手はわずかに汗ばんで繁華街の光を反射した。しかし大部分に影を抱く手には、今は見えずとも沢山のたこがあることを清史は知っている。

 声を聞こうと──詩にしようと、足掻いた痕跡が。

「見放されたんですよ」

 一体何が悪かったのか、何がきっかけだったのか。

 五線譜に曲をおこそうとしても指が動かなくなったのは二年と半年くらい前の初夏になる。当時の彼には沢山の声が聞こえていた。鳥や水音は勿論、妻の足音やドアの開閉する音ですらそれは声になり、それらを凝縮して集約させたものを──彼は曲と呼ばず詩と呼んだ。

 五線譜を泳ぐおたまじゃくしの乱舞であってはならない。

 それは人の声と等しく耳に馴染む、詩でなくてはならない。

 清史はそうして作り上げた沢山の詩を愛し、そうして奏でられていく詩たちに感謝した。自分が愛した声という名の音たちは、その喜びを様々な形で享受してくれる。

 ところが、いつからかその声が小さくなっていった。

 話し声は煩わしい。車の排気音に腹が立つ。鳥のはばたく音、風が葉をこする音、水がこぼれる音、その全てが煩わしい。

 一つ何かが音をたてるたびに清史は脅迫されているかのような感覚を覚えた。

──だが、何に?

 身の回りを泳ぐ音たちは彼に自らを磨いて詩にしてもらおうと囁いてくれていたはずである。どうしてそれが清史を脅迫などするのだろうか。

 喜びを声にしこそすれ、怨嗟を声にするなど考えられない。

「……見放されたんだ」

 清史は繰り返した。

 段々と小さくなっていく声を逃すまいとペンを握った。

 聞こえなくなっていく声を忘れまいと五線譜に書き殴った。

──本当はわかっている。

 声が聞こえなくなった理由も、詩を作り上げることが出来なくなった理由も。

 声を聞け。

 その声を集約せよ。

 それを詩にせよ。

 だが、清史の頭は既にあらゆる音で一杯だった。

 彼の成功を祝う賞賛の声、期待の声、それらにいつしか取って代わった嫉妬の声、怨嗟の声──そして妻の声。

──もういらない。

 声はもういらない。わたしの頭はもう何も聞き入れない。

 無音を、わたしに。

 声を拒絶したのは清史が先だったのだ。

「どうして見放されたと思うんですか」

 嵐の声にどんよりとした視線を向ける。チケットを探そうと躍起になっていた男とは思えない。

 やや生暖かい風が髪を揺らした。それにあわせて聖域を取り囲む木々も葉を揺らし、一層強くなった風は神社の鈴をも響かせる。弱弱しく、しかしながら腹の底まで響くような音は叫び声めいて聞こえた。

 わあん、わあん、と、しつこく響くこの音があの喧騒の渦中にいる人間達には聞こえるのだろうか。ふと、清史はそんなことを考えた。

 願い事を神に届けるため、ただ力任せに鳴らす昼間の騒がしい音とは違う、この悲壮感に満ちた鈴の音を。

 それは耳や頭から体に響き渡り、腹の奥底で低く地鳴りのように響き続ける。息苦しささえ伴うこの鈴の音を、あの人間たちは──妻は聞くのだろうか。

「……聞いてます?」

 目を見開いて繁華街を見つめだした清史を不審がり、嵐は声をかけた。視線の定まらなかった両眼が嵐に焦点を合わせ、その顔が驚愕から苦笑に変わる。

「……ああ」

 そう聞いている。

 音を、聞いている。

 清史は耳を傾けて、全身全霊で音を聞こうとした。

 叫び続ける鈴、枝を揺らす木、足音、幻のような喧騒。その中に潜んで声を発し続けるそれらに手を伸ばす。蜘蛛の糸よりもはるかに細く、ともすれば断ち切れてしまいそうなほどに脆い、声に。

 だが手を、心をそちらへ伸ばせば声は遠のき、それらはただの雑音へと変化する。指先をかすめた声が雑音の幕の向こうへ行ってしまうのがひどく歯がゆい。ころころと澄んだ美しい声も靄を被ったように濁って聞こえる。

 そうして掴み取ろうとする手をおさめれば声は自ら幕を開けてやってくる。声が近くなり、手を伸ばす。すると声は幕の向こうへ消える。

 繁華街の作り物めいた光彩を眺めながら、清史は顔をしかめた。そこを歩いている人間には聞こえているはずなのに、彼らは決して声に耳を傾けない。遠く聞こえる笑い声が清史を嘲笑しているように聞こえ、それらから顔を背けるようにうつむいて耳を塞ぐ。

 隣でその行為を見ていた嵐は何事かと見やり、繁華街を眺めた。特に何か変わったというところもない。相も変わらず甲高い声や喧騒で充満し、いつその脅威がこの聖域にまで及ばないかとひやひやする。

 そう考え、嵐ははた、と気づいた。

──なるほど。

 独白に近い男の話を嵐はそれなりに楽しんでいたのだ。だからこの空間へ喧騒が及ぶことに嫌悪を抱く。

 作曲家と言った通り、彼の音楽に対する愛情は半端なく、それを語る際の顔つきは生き生きとしていた。

 そう、チケットを探していた時のように。

 ところが、と清史の顔をちらりと見る。未だ耳をおさえたまま清史はうつむいていた。自分で話しながら自身の深いところに落ちたのだろう。顔にあの生気はない。

 このまま話を続けるのも興味深かったが睡魔が首をもたげ始めている。元々が行く気の無かったコンサートなだけに気を抜いていたのが、この出来事で更に気が抜けた。欠伸を一つ噛み殺す。

 その一方で清史は何を望んでいるのか考えを巡らせてみた。本人はスランプではないと言い張っているが、嵐にしてみればどれも同じことである。

 やりたくても上手くやりおおせない。それがどんなことに起因することであれ、スランプに変わりはなかった。

 では清史はスランプから抜け出したいのか。もう一度ちらりと顔を見る。先刻と体勢は何ら変わらない。妙な人間に会ってしまったな、と体を伸ばし、だがふと思いついて苦笑する。

──本当に人間か。

 嵐の目には生者も死者も等しく映る。体が透けていたり一部が欠損していたりと、特徴のある死者もいるが、清史のように生者と何ら変わりなく映る者もいるのは事実だ。ならば自分の運の悪さにうんざりするしかない。

 こんなことは今に始まったことではなかった。

「佐東さんは音が聞こえない方がいいんですか」

 手持ち無沙汰に問う。答えが返ってくることは期待していなかったが、ただ一人座っているような雰囲気に耐えかねての質問だった。

 しかし意外にも清史は言葉を返す。

 ただし耳を塞ぎながら、囁くように言った。

「いや……それは無理だ」

 是でも否でもなく、無理と言い放った言葉の変化におや、と思う。

「……無音はありえないんだ」

 ありえないんだよ、と清史は心の中で復唱した。

 ただがむしゃらに失ったものを取り戻そうとして、そして指先から逃れ行くのを感じた時、清史は真実、声の存在を疎んじた。聞こえることを知っているからこんな思いをするのだ。音楽にせよと、なぜに自分にばかり言う。

 どうして、おればかりに。

 全ての音を──声を遮るべく窓やドアに目張りをし、耳栓をした上で更にヘッドフォンをつけたことがあった。完全なる無音と、それに付随する闇の到来を望んだのである。

 ところが、待てどくらせど一向に無音はこない。大きな川が流れる音がする。

──なんだ、どこから。

 またお前たちは邪魔をするのか。またおれを声の渦に引き込むのか。そんなにおれを苦しめたいのか。

 やめてくれ。

 何も聞きたくない。声を集約して美しい曲を作り上げても、誰の心も洗われない。その口からは罵声が吐き出されるばかりだ。なら、おれはもういい。

 もういいから、無音をくれ。

 心の中で必死に訴える。自分の中にこんなにも弱い部分があったのかと驚く反面、こんなことを訴えてしまう情けなさに思わず嗚咽が漏れた。

 あんなにも音楽を愛し、そんな彼に音への昇華を望む声をかけてくれた周囲を裏切ってしまった、ひどく自己中心的な考え方が情けない。それに応えられない自分が情けない。声を拒絶した自分が情けない。

 逃げようとしている自分が、情けない。

 嗚咽をこらえようと強くかみ締めた唇からぷつりと血が浮き出る。それよりも重圧に押し潰された心の方が悲鳴をあげ、耐え難い痛みを清史に与えていた。

喉の奥が焼けるような痛みと共に涙を堪え、しかし次の瞬間ほろりと涙が頬を伝う。

──私ね。

 はつらつとした声が蘇る。

どんなに清史が声を拒絶しても、決して拒絶しなかった最後の声。

──あなたの作った詩、好きよ。

 声と共に浮かび上がるはずのあの人の顔は影になって見えなかった。

 笑顔を見なくなって、もう久しい。

──曲のことを詩って言うのには抵抗があったけど。

 そう言っていつもくすくす笑っていた。

 何がおかしいんだろう。何に笑っているのだろう。

──おれは、こんなにも真剣に音に恋しているのに。

 思案の淵から現実に突如として呼び戻され、清史は顔をあげた。思わず離した手はその役割を終えたかのようにゆっくりと下ろされ、大河の流れを聞いていた耳には待ってましたとばかりに膨大な量の声たちが戻ってくる。

 人、木、風、石、車、信号、鈴──どれも先刻聞いたものよりずっと鮮やかな色を伴っている。それらはもう雑音ではなかった。

 清史の体の中で響き続ける、声だった。

「……ありえないんだ。……無音は……」

 知っていたのに、と思う。

 どんなに無音を望んでも、自身に流れる命の音までは除けない。

 耳を塞いで聞こえたあの大河の──筋肉の収縮や血流の音。

 命を絶ってまで無音を得ようなどという気はさらさらなかった。

 彼女から離れてまで無音を得ようなどという気は、全くなかったのだ。

 だからチケットを買った。清史が彼女に聞かせるために作曲した詩を演奏する、コンサートのチケットを。

「……なんてことを」

 顔を両手で覆って静かに涙を流す清史の背を、嵐はどうともしがたい表情でさすっていた。数少ない清史の独白から得られる情報など高が知れている。だから何を問いかけ、どんなことを言い、どんな顔をすべきなのか考えあぐねいていた。

 やや冷たくなった風に目を細めながら、けれども、と思う。

 何か取り返しのつかないことになっているのを肌で感じることは出来た。それが何に由来するものなのかは皆目見当がつかないが、チケットがその一端を担っているのは想像に難くない。

 思わずジャケットのポケットの上からチケットを確かめた。かさり、と乾いた音がする。これでは駄目なのだろう。

 清史が彼女のために買ったチケットでなければ、駄目なのだろう。

 そこまで考えが行き着き、嵐は微かに肩の力を落とす。ならば最後まで清史に付き合ってチケットを探すしかあるまい。ここまで話を聞いておいてさようならも気がひける。

 それに、少しばかりこの男は苦しみすぎではないだろうか。

 チケットを見つけて、僅かでもいいから笑ってもいいような気がした。

──仕方ねえな。

 舌打ちまではせずとも自分の気の弱さを恨めしく思いながら、チケットを探そうと立ち上がる。

 その時、こちらをうかがう人影を神社の入り口に確認した。ラフなジャケット姿の人影は短い金髪にネオンを受けながらようやく決意したようにこちらへ向かってくる。

 逆光でよく見えなかった顔も近づくにつれて露になり、人懐こい笑顔で嵐と清史に笑いかけた。

「さっきから見とったんやけどな、落し物したりしてへん?」

 独特のイントネーションで語られる言葉には微かな違和感を覚えたが、その内容には充分すぎるほど心当たりがあった。

 顔をあげた清史は恥ずかしさから急いで涙を拭う。金髪の男はにこりと笑った。

「あんたの方?」

「……ああ」

 男は、よかった、と安堵の溜め息をもらしてジャケットのポケットをまさぐり、くしゃくしゃになった紙切れを二枚、清史に渡した。

 地べたで多くの人間に踏まれたのであろうそれは一見ゴミにしか見えなかったが、広げてみると「コンサート」の五文字が読み取れる。その単語を確認するや、清史は弾かれたように立ち上がり、チケットと男とを何回も見比べた。

「ゴミだまりんとこにあったってな、気になって拾ってみたら今日のやんか。そやさかい、この辺で探したらへんかな思て。そしたら案の定、いてはるし」

 にこにこと喋る男の表情を嵐は窺っていた。自身の耳にどれだけ信頼が置けるか定かではないが、言っている内容におそらく嘘はない。だからと言って全幅の信頼を寄せて感謝を述べる気にもなれず、目を丸くする清史の隣でそれとなく男を観察していた。この男も見えるたちなのだろうか。

 壊れ物のように手のひらに乗せたチケットを見ていた清史は顔をくしゃりと歪め、その両眼から涙を流した。

 堪えることなく、ごく自然に流れた涙だった。

「ありがとう……本当にありがとう」

 チケットが濡れるのにも関わらずその手に顔をうずめ、くぐもった声でしきりに感謝を述べる。そんな清史の丸まった背中を軽く叩きながら、男は穏やかに言った。

「ええねんて。それより、急がんでええの。チケットあるやろ?」

 清史は顔をあげて涙を拭い、やや顔を赤らめて苦笑した。

「ありがとう。君も、本当にありがとう。随分迷惑をかけてしまって」

 嵐に向き直るその顔にあの暗雲はない。清清しく、しかしあまりにも泣きすぎる自分を恥ずかしく思ってか、困ったように笑う。

「すまない、急がないといけないんだ。本当にありがとう」

「いいですよ」

 かに歩きになりながら清史は繁華街に向かって小走り気味に歩き出す。感謝と陳謝の言葉を交互に並べ立てながら小走りに歩くその姿は、いささか滑稽だった。だがどこか幸せそうな顔にけちをつける気にもなれない。

「それじゃあ」

 ようやく踏ん切りがついたように手をあげて挨拶するや、疾風のごとく走り出し、あっという間にその姿は人ごみにまぎれて見えなくなった。

 その手にしっかりと握られていたチケットの様子に思わず苦笑し、また落とさなければいいがと思いながら嵐も男に軽く目礼をする。清史の話に付き合っていただけで、用件が済んだ今、ここにいる必要も感じられない。そのせいか、先刻まで遠慮がちだった繁華街の喧騒が境内に少しずつなだれこんでいるような気がする。

 大きく深呼吸し、体の中の空気を入れ替えた。清史の話を聞いている間、緊張していたのか、呼吸が浅くなっていたらしい。頭が徐々に覚醒してゆく。

 未だ立ち去ろうとしない男に軽く会釈して帰ろうとした時、ふいに男が嵐に向き直る。

「な、あんた」

 そこに先刻までの人懐っこさはない。いくらか厳しい表情で嵐を見据えた。

「戻らんでええの」

「……は?」

 脈絡のない単語に顔をしかめる。しかし男は嵐のその態度にいらついたのか、頭をかきむしって、だから、と言葉を続けた。

「わからんの? ほんまに?」

「だから何が」

 あまり関わってはいけない部類の人間だろうかと嵐が身構えた時、瞬間的に男の指が嵐の眉間をついた。

 その部分から波紋のように衝撃が全身に伝わり、力を失った体はぐらりと後方へ傾く。

──まずい。

 何がまずいのかわからない。ただひたすらに頭の奥で警鐘を鳴らしているのはわかった。

 だがそれだけだった。

 段々と瞼が重くなり、良好だった視界も狭まってゆく。次々と風景が流れていき、頭上の光景のはずだった木々が視界に飛び込んできた時、倒れたら痛いだろう、と思いを巡らせた。

──このやろう。

 悪態の一つでもついてやりたかったが、生憎口も動かない。せめてと思って男の顔を睨んでやろうと頭を軽く動かした時、閉じかけた瞼の間にぼやけた金髪が目に入る。

 その表情は見えない。

 おそろしくスローモーションな一瞬の中、目は口ほどに物を言うを体現した嵐の耳に、あの独特なイントネーションが蘇った。

 霞がかった頭にたった一言、はっきりとした声で投げ入れられる。



「あんた、どんくさいな」



「……なんだとこのやろう…」

 思わず呟いた悪態が声になったことに驚き、その声がやけに弱弱しいのにも驚き、更には風景が一変したことにも驚いて息を飲む。

 目の前には真っ白な天井が広がり、蛍光灯の光を白々しく反射している。あまりいいとは言えない匂いは鼻腔をくすぐり、一定の間隔を保って流れる電子音は煩わしい。徐々に感覚が戻りつつある左腕には違和感を覚え、背中はどうにも固い。顔を動かせば天井と同じく真っ白な枕がお目見えした。

 一連の五感を駆使した情報から得たものは、ただ一つの現実に集約される。

「…………病院?」

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