一章
長袖のシャツで外を歩いても、最近は暑いと感じることがなくなった。
頬を撫でる風はうっすらと冷たく、青々としている葉の中には早くも衣替えを済ませた葉も見掛けた。雑鬼らも、まとう衣の色を変え、土産を手にしながらそこいらを横行している。
電柱の陰に居ようと、木の下で、店の間で酒盛りをしていようと、見えない者には見えない。だから連中は平気で出歩き、たまに見える者に会うとからかって暇を潰す。
「あんた見えるだろう」
野太い声にひやりとする。
――遊ばれて堪るか。
「黙ってないで。ほれ」
髭面の小鬼はくん、と嵐の服の袖を引っ張った。だが、引っ張られたところで止まるつもりもない嵐は家路を急ぐ。
「聞こえるんだろう」
古本屋の包みを抱えて角を曲がり、足早に家の門をくぐる。近所内でも古いと評判の家は、自慢ではないが広い。門から家の玄関までは少しあり、その小道をほうきで掃いていた女性が顔をあげる。
「あら、おかえりなさい。また本屋?」
和服の似合うその女性は、嵐の母だった。黒髪を短目に切った母は六十も近い年頃だが、見た目にはそうと見えぬという特技を持つ。
「古本屋だよ」
「どっちも同じでしょう。本ばかりためて。そういうところはお父さんに似てるのねえ」
「はいはい……奥で本読んでるから」
「ああ、待って。お友達が来てるわよ」
「……俺の?」
友達の少なさにかけてはひけをとらない。母は困った様に返す。
「馬鹿言ってないで。待たせてるんだから」
頭をかいて家にあがり、廊下を歩きながら考える――友達?
そう言ってあがりこみそうな奴なら一人心当たりがある。折角の楽しみを奪われた苛立ちから乱暴に襖を開けた。
部屋に、明良の姿はなかった。代わりに――先刻の小鬼がちょこんと、机の前に座していた。
「お、お前っ!?」
かくん、と膝の力が抜け、その場にしゃがみこむ。いくら友達がいないといえど、雑鬼まで友達にした覚えはない。
小鬼は嵐に向き直り、大きな目をぎょろりとさせた。
「……嘘はいかんぞ」
「俺はお前なんか友達にした覚えはねえ!」
「あんたの母はいい人だ。儂に茶まで振舞ってくれた」
「どんな姿で入り込んだ」
「靴を一足失敬しただけだが」
玄関に見知らぬ靴があれば客か。
我が母ながら、その間抜けぶりには泣けてくる。小鬼の策略勝ちというわけか。
「……わかった。用件言ってみろ」
ここまでされると、断る理由を考える気も失せてくる。うなだれる嵐に対し、小鬼は居住まいを正した。
「されこうべを探してくれんかね」
「……墓荒しは専門外だ」
「人のされこうべなんぞいらん。火葬やらで皆割れてしまっておる」
「じゃあ何だ……」
あぐらをかいた膝の上で頬杖をつく。どうも話を聞いてやるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「儂が欲しいのは、鬼のされこうべぞ」
「……だから墓荒しは」
人の墓荒しも望まないが、人外の者の墓荒しはそれ以上に望まない。むしろ、やりたくないのが本音だ。やった者も共に墓へ、など極力避けたい展開である。
だが、小鬼はしゃがれた声を張り上げた。
「誰もやれとは言うておらん。儂が欲しいのは沢山の血を吸うた鬼のされこうべだ」
「……それで?」
言い返したところで、禅問答の繰り返しになるだけだ。嵐は半ばやけになって問うた。
「墓をあばかないでどうやる」
小鬼は大きな目玉が半分になるほどに、目を細める。
「生きている鬼からいただく」
飽き始めていた嵐は、顔をあげた。
「……殺すのか」
「あんたは、はやとちりの気があるな。いくら儂らとて、食う以外に殺すことはせん」
たしなめられ、嵐は言葉に詰まる。
「されこうべ自体は儂が持っている」
「……話の意味がわからねえ」
「最後まで聞け。……しかし儂が持っているのは欠けている。歯が一本足りん」
「……それでどうなる」
「欠けては、されこうべでなくなる」
「それで」
「……いかんのだ。一つでも欠ければ鬼も欠ける」
「生きてる鬼から頂くってのは?何だ」
「そいつが歯を持っている。持ってきてくれ」
「盗みもやらん主義なんだがな」
「いや」
小鬼はにやりとしてみせた。
「奴は自分からあんたに差し出すだろうよ」
「どうし……」
「て」まで言うのを待たず、小鬼の姿はかき消えた。否、消えたと言うのは語弊があるかもしれない。
「隠れるなんてずるいぞ」
嵐にはわかった。――わかることを疎ましくも思うが。部屋の隅を見据えて言い放つと、どこからともなく、くつくつと喉を鳴らす笑い方が聞こえた。
「……良い目をしておる。では、されこうべを頂いた頃にまた来ようぞ」
「……歯だろうが」
毒づくも既に小鬼の気配はない。小さく息を吐いて、嵐は手のつけられてない茶に触れた。
「雑鬼に茶……あの人そんなに目ぇ悪くないぞ」
仮に小鬼が見えなかったたとして、そこに理由――トイレに行ったなどと考え、茶だけ置いていく人ではない。客の顔をしっかり見て、もてなす人だ。
では、何を見て茶を差し出したのか。
母の視力はあらゆる意味で良い方だ。ささやかながら、母にも人外の者をおぼろ気に感じ取る力はある。嵐ほどはっきりでは無いにせよ、見たとしたなら小鬼の正体ぐらいはわかるはずだ。
――ならば。
変化をしたと考えるのが妥当か。
「……ただの小鬼じゃねえな」
下等な者であれば、多少の力がある人間には容易く見破られる。本人に自覚はないが、母にも可能なはずだ。
しかし、机上には冷めた茶がある。
「高等な奴が何の気まぐれで……」
足を伸ばし、机に寄りかかった。
「生きてる鬼か……」
気まぐれで頼むにしては真実めいている。信じたら信じたで、まんまと小鬼の計算通りになるようで癪に障る。だがやらなければそれで、あの小鬼にはそれに報いを与えるだけの力がありそうに見えた。
「悩んでるの?」
縁側から、細い声がする。姿は無くとも声でそれと知る。
「……参考までに聞くが」
「やれば?」
間髪入れずの返答に誠意はない。ただ真実のみを告げる。
「あの小鬼、変だ。あいつが来て雑鬼が皆散っちゃった」
「俺に寄ってきた雑鬼か」
「お陰でここら一帯すっきりさ。餌もありゃしない」
声には憤りがこもっている。
来ただけであれだけの量を一掃とは――引くに引けない状況になってきた。
「何でこうなるんだ……俺は避けるだけなのに」
そもそも、進んで災厄や面倒事に首を突っ込む方ではない。避けれる事ならば喜んで回避する。
声は高らかに笑い、続けた。
「そういう性なのさ。性は曲げられない」
「……本当かよ」
「嘘をついてからかえる内容なら迷わずそうするね」
一章 終り
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