#22
玄関を開けると、甘い匂いと揚げ物の匂いが拮抗している。狭い三和土に自分の靴を収める場所を探して、他の靴を踏みながら家の中に上がる。何も悪いことなどしていないのに、何故だか親の顔を見るのが後ろめたい。真っ直ぐ部屋に向かうつもりだったが、たかちゃんおかえり、と姪が走ってきて捕まってしまった。
「おかえり、今ケーキ焼いてるからね」
姪を連れて台所に顔を出すと、母と次姉が所狭しと材料や調理器具を並べて、今夜の食事の準備をしている。オーブンの中では、庫内ギリギリの大きさの角型で黄色いスポンジが膨らんでいる。丸より四角の方が量が多く作れるから。そういう理由で、光村家では誕生日とクリスマスのケーキはいつも真四角の大きなスポンジが焼かれる。苺とバナナと缶詰の黄桃とパイナップルがトッピングされるのが定番。そしてメニューは決まってちらし寿司と大皿に山盛りの唐揚げ。それからゆで卵とコーンの入ったポテトサラダ。どれもこれも、大人数の家族だから仕方ないのだ。毎日毎日、大きな鍋で大量に作られ、大きな座卓いっぱいに広げられる食事。家族が減ったり増えたりする内に、少しずつ量やメニューも様変わりしている。この四角いケーキを食べるのは、あと何回もないかもしれない。そう思うと、疎ましかった四角いケーキも有難く感じる。
「先にお風呂入ってきちゃって」
ああ、と崇史はいつも通りの生返事をする。台所の中は忙しそうで、今日何してたの、などとは聞かれずに済みそうで安心した。
風呂から上がって居間へ行くと、扇風機の前で三きょうだい達が、寿司桶に入った酢飯をうちわで扇いでいる。その様子を写真に撮ると、何で撮るの、変なの、と小さな身体をいっぱいに使って笑う。
「だって、大人になったら忘れちゃうかもしれないじゃん。だから写真に撮っておくんだよ」
しゃもじを小さな手から奪って酢飯を混ぜる崇史の顔を、不思議そうな表情で三きょうだいは覗いていた。
さっきまで崇史が味わっていた緊迫感や浮世離れしたホテルのラウンジのことなど、きっと家族は想像も出来ないだろう。親にも友達にも、誰にも秘密で大人になっていく。
夜になり、家族が集まり誕生会が行われた。いつものメニュー、いつもの味。山盛りの料理はあっという間になくなって、ケーキが登場した。四本のロウソクの火を、姪がテーブルから身を乗り出して一気に吹き消す。崇史は記録係のつもりで写真を撮る。何のお願い事をしたの、と長兄が尋ねると、もじもじとして答えたがらない。
「たかちゃんも、お願い事した?」
「したよ。でも内緒」
崇史が内緒、と人差し指を唇に当てると、姪も笑顔でそれを真似る。
口にしたら叶わなくなるかもしれない願いを、口にするのが憚れるような望みを、崇史はいつも胸に秘めている。それらを閉じ込めている檻を、小谷野の前では簡単に解放してしまう。いやむしろ、彼だけが開ける鍵を持っているのだ。
ポケットの中でスマホが震える度に慌てて確認するが、どれもが友達や同級生からのメッセージ。それも嬉しいんだけどさ。このまま欲しいものは手に入らないのかもしれない。そもそも、手に入ったことなんてあっただろうか。
「ご飯食べてる時はスマホいじらないって約束でしょ」
と母が怒るのを、長兄がもう年頃だから、と取りなす。
「崇史も彼女かなんかいるんだろ。休みの度に珍しくどっか行ってるって言ってたじゃん」
彼女じゃないけど、と小声で否定しながら口を尖らせる。
「そうなの、今日もどっか行っててねえ。親に何処に行くとも言わずに」
母の言葉に「もう子供じゃないんだから」と兄姉が言えば、「まだ子供よ」と覆される。どっちなんだよ、と当事者である崇史にもわからない。親の目には昨日の息子も今日の息子も変わりがないように見えるのだろうが、本当は大きく入れ替わっている。
もう子供じゃないけど、まだ大人でもない。その不自由さから解放されるのが、少しだけ寂しいようにも思える。昼でも夜でもない夕方の空のように、美しい光を放つ時間はすぐに消えてしまう。
夏休みだからって夜更かしするなというけれど。家族がすっかり寝静まった夜更け、特にすることもないけれど眠りたくなくて、崇史はベッドの上でぼんやり天井を眺めたりスマホをいじったりしてやり過ごす。夏休みの宿題やらなきゃ。読書感想文の本なんて、何読んだらいいのかわからない。ベッドに寝転がって考えている内に、いつの間にか眠ってしまっていた。
目覚まし鳴ってる、と寝ぼけながら震えるスマホを見ると、画面には待ち望んでいた名が表記されていた。すぐに飛び起きたが、あまりにも慌てすぎて一回電話を切ってしまった。夢じゃないよね、と履歴で確かめてから急いでコールして、小谷野が出てからまだ肝心の心の準備が出来てなかったと再び慌てた。
「ごめん、寝てた?」
と小谷野は笑いまじりに言う。
「大丈夫。今起きたから。一回切っちゃってごめんなさい」
「……今日は本当に有り難う」
「別にいいですよ、お礼なんて」
ベッドの上で座り直すと、スプリングがギイと鳴る。電話の向こうは静かで、互いが黙ってしまうと聞こえるのは息の音ばかり。
「コウくん今どこにいるの? ホテル?」
「自分の家だけど」
「鴫沢さんと一緒にホテルに泊まってんのかと思ってた」
「普通に帰ってきたよ。光村は俺にどうなって欲しいんだ」
写真は撮ったのか訊くのは野暮かな、と口をつぐむ。もしかしたら、それはあとで鴫沢さんがこっそり見せてくれるかもしれないし。
「だってさ、二人がまた仲良くなったらいいんじゃないかと思って」
妙な間が空いて、同時に何か言いかけて譲り合う。
「なんていうかさ。とっくに終わった恋だってわかってた。それをちゃんと受け入れられなくて……ずっと怖くて逢えなかった。けじめをつけさせてくれて、ありがとう」
「……もういいの?」
「だって今は光村が一番だから。耀とはもうただの友達」
電話の向こうで、少し笑ったような気がした。何かを隠すようなそぶりはなく、はっきりと答えたその言葉なら、全てを信じられる。嬉しい、その気持ちを表すのには「嬉しい」という言葉じゃ足らず、崇史は次の言葉が出てこない。
「教師だとか教え子だとか……そういう立場全部抜きにして、俺が一番撮りたいと思うのは光村なんだ。他の誰よりもいい写真が撮れる。もし生徒じゃなくても、きっとどこかで光村のことを見つけて撮らせてくれって追ったと思う。こんなに写真に対して純粋に向き合わせてくれる相手は、他に見つけられない」
真摯なその言葉を、一字一句忘れたくないから。部屋の空気や今の感情も含めて、真空パックしておければいいと思った。忘れたくない瞬間ほどカメラのフレームには収まりきれない。でも、形に残したい。そんな風に思えるのは、この電話の向こうにいる彼が与えてくれた瞬間のおかげ。
「僕はさ、先生と生徒の時の自分より、コウくんに写真を撮られてる時の自分の方が、ずっと好きになれる奴だと思うんだ」
うん、ありがとう。短い言葉でも、崇史が言いたいことを全て受け止めてもらえたと実感した。
「明日、家に来れる? 出来れば朝早く。午前中の光で撮りたいから」
別にいいけど、と答えながら、小谷野が何を言おうとしているのかわかって、全身に鳥肌が立った。
「約束の写真を撮るよ」
一瞬にして喉が乾いていくのがわかった。崇史はもう頭の中と目の前が真っ白で、自分がそれになんて返事をしたのかもわからない。声が出ているのか出ていないのかすらも曖昧だ。
わかった? と確認する小谷野の声は落ち着いていて、電話越しでは見えないのに頷いてしまう。
「そうだ、誕生日おめでとう。八月一日だろ? もう十二時過ぎちゃったから、一日遅れで申し訳ないけど」
ありがとう、という声がにやけて、何を言っているのかわからない単語になってしまう。
「何か欲しいものとか……食べたいものとかある?」
「じゃあ、丸いケーキ。ホールケーキを丸ごと切らずに食べてみたい」
電話の向こうで小谷野が穏やかに笑っているのがわかる。少し子供っぽい頼みだっただろうか。
「いいよ。用意するね」
それじゃあ、また明日、おやすみなさいと電話を切った。
力が抜けたせいなのか、手が汗でびっしょりなせいなのか、スマホが滑り落ちた。崇史はTシャツで手汗を拭いながら、先ほどの会話を反芻する。約束の写真を撮るって、聞き間違いじゃないよね。早鐘のように打たれる鼓動を抑えようと、胸を抱えてうずくまった。
明日だ。夜が明けるのが待ちきれなくて今にも走り出しそうになるのに、朝が来るのが怖い。心の底で密やかに望んでいたことが、とうとう現実になってしまう。強気で挑発していた自分が怖い。崇史は思わず枕に顔を埋める。でも後悔なんて絶対にしない。自分で言い出したことだろ。顔を上げて、部屋の電気を消したのだが。案の定、自分の鼓動がうるさくて寝付けない。彼への想いが眠りを妨げる。
螺旋階段で目が合った、あの瞬間は運命的だったと思う。でもそこから先は違う。きっかけをくれただけで、あとは崇史自身が選んで考えて行動した結果。自分で起こした革命だ。運命なんて、そんな不確かなものに頼らない。
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