#15
数日後、鴫沢が突然連絡もなく浩介のアパートを訪ねてきた。その顔を見て浩介は、もう元には戻れないことを悟った。テーブルを挟んで向かい合ったまま、何を話すべきか迷い続けた。その沈黙を先に破ったのは鴫沢だった。
「いつから気付いてた? 俺が『光』だって」
「……初めてキスした日の、少し前くらい。でもその前からなんとなく誰かの面影を感じてた」
「そっか……。まさか男だとは思わないだろうしね」
目の前に置かれたふたつのマグカップはどちらも口をつけられることなく、永い間の中へコーヒーの湯気が消えていく。
「浩介が好きなのは、過去の『光』? それとも今の俺?」
「……どちらも愛してるんだ。でも耀のことは本当に好きなんだ、それだけはわかって欲しい」
「俺が『光』だって気付いてなくても、俺を誘った?」
浩介はぐっと喉を詰まらせて、決まってるだろ、とすがりつくような弱々しい声を出す。鴫沢の言葉の一つ一つが冷たく胸に刺さる。
「叔父さんと同じだな。俺は浩介だけを見てるのに、浩介が見てるのは俺じゃなくて『光』だろ。あの子はもうどこにもいないよ。みんなおまえらの心の中で勝手に創った幻で、それを俺に投影してるだけ」
「俺には、耀が必要なんだよ……」
頭を抱え涙を浮かべて懺悔し、苦悶する。その心の動きを表情の全てを、鴫沢は写真に撮った。浩介が手を伸ばせばカメラを払い落とせる、だけどしなかった。これが撮らずにいられない瞬間なことは、浩介にもわかっていた。二人はそうやって繋がってきたのだから。恋人同士として、カメラマンと被写体として過ごす最後の瞬間を、鴫沢に撮ってもらいたかった。惨めさも醜い欲望も全て、どんな一瞬も逃さずに。静かな部屋でただシャッター音だけが響いていた。
それから浩介と鴫沢は、一度も会うことはなかった。
浩介は写真を辞めた。
もう撮るべきものがどこにも無くなってしまった世界で、カメラを構える意味などない。二人で撮り合った写真も一眼レフカメラも、視界に入らないようにベッドの下に押し込んだ。ファインダーを覗けばいつでも色が溢れる世界が見えていたはずなのに。カメラを通さない世界はこんなにも褪せて見えるものだろうか。
空虚さを埋めるように仕事に専念し、一年後には正式に専任教員として採用された。カメラなんかなくっても自分は充分に生きていける。社会人として果たすべき責務を果たしている。浩介は、新たな人生を順調に歩んでいるつもりだった。
「小谷野先生はカメラがお好きなんですってね」
高齢の教師に言われるまで、履歴書の趣味の欄に「カメラ・写真撮影」と書いたことをすっかり忘れていた。
「私ももう定年間近で、写真部の新しい顧問になってくれる人が欲しかったんですよ。ちょうど良かった。若い先生なら体力がおありでしょうから撮影旅行の引率も任せられますし」
突然降って湧いた話に、断る言葉も了承する返事も口から出てこない。当然引き受けてくれるだろうという圧を滲ませながら、にこにこと話す相手を目の前にして。浩介は馬鹿みたいに口を半分開け、ただただ頷くしかなかった。
またこの世界に足を踏み入れることになろうとは。再び手にしたカメラは重たかったが、不思議と違和感はなかった。構図の取り方やライティングなどを生徒に指導している内に、自身の勘も取り戻せた。やはり写真家ではなく教師が自分に似合う職業なのであろう。離れていたおかげだろうか。写真と自分との間に、適切な距離を取れるようになっていた。
ただ、必死で喰らいつくようにシャッターチャンスを求めていた感覚は、二度と取り戻せないのだと感じていた。より美しい世界を捕らえたくて足掻いていた、あの頃の方がずっと良いものを撮っていたのではないか。時折そんな考えがよぎる。それ故に苦しんだはずなのに。
鴫沢からは、会わなくなってからも時折個展の招待状などが送られてきていた。リストから名前を消すのを忘れているのか、大人としての社交辞令か。長いこと放置していたそれに、浩介は写真で返事をした。旅先で撮られた写真に、校舎の裏庭で撮った写真で返した。何の言葉も添えなくても、今はこんな気持ちで過ごしていると一番わかりやすく伝えられる。だって彼と自分はそうやって愛し合っていた。鴫沢とはきっともう会うことはないだろう。しかし写真を撮り続ける限り、彼との繋がりを失わないで済む。これからは趣味として純粋に自分の好きなものを美しいと思うものを撮っていこう。そんな穏やかな願いは、自身の抱える業によって覆されるとは知らずにいた。
螺旋階段で光村崇史と目が合いシャッターを押した瞬間、不思議な手応えがあった。入賞した時の写真を撮った日に感じた確信に似た、だけどもっと力強いもの。まるで「光」に出会った日のような。
教師いう鎧で身を守っていれば安全だと思っていた。それ以上踏み込ませなければ、理性を保っていられる。なのに暴力に近い無垢さで光村はその鎧を脱がそうとする。教師であるとか大人であるとか、そんな建前は彼には関係ないのだ。彼が欲しいのはその下の、何も身に付けていない小谷野浩介だけ。そこに触れられることを恐ろしく感じながらも、見せてしまえればきっと楽になれるような気もしている。だけどそれは許されない。被写体を被写体以上の存在にしてしまってはならないと、適切な距離を保つべきだとわかっているのに。
そして今、もう何年も開いていなかった写真集を眺めている。「光」が再び浩介に写真を撮れと命令している。葦原哲朗のようにはなれないって、とっくの昔に悟ったはずだろう。それでも湧き上がってくる衝動から目を逸らし続けるのは苦しい。
撮るべきものがいる世界に戻って来れたことは、果たして幸福なのだろうか?
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