#14
「浩介君の家で呑もうなんて珍しいね」
何日かして、鴫沢は浩介の誘いに乗ってアパートへ来てくれた。写真展の感想や何気ない会話に笑いながら宅配ピザとビールを楽しみ、いつも通りの時間が流れる。狭い部屋でベッドを背もたれ代わりに二人で並んで座っていると、互いの腕や足が触れる。浩介が鴫沢の肩にもたれると、酔ってるの? と言いながら鴫沢は浩介の髪を撫でた。その手に深く甘えるように身を委ねると、鴫沢は浩介を抱き寄せ頬を撫でた。いつも通りの時間が止まった。
「やめないで」
浩介のささやきに応じて、鴫沢は耳たぶとまぶたに軽くキスをした。浩介も鴫沢の唇に自身の唇を軽く重ねた。何度も繰り返す内に触れている時間が長くなり、互いの粘膜を舌を絡めあった。酒のせいだけじゃない、上がっていく体温に任せて身体も心も距離を失くしていった。
翌朝、浩介が目覚ましのアラームで目を覚ますと、隣で寝ていた鴫沢は少し先に起きていたようだった。
「昨日のは、嘘じゃない?」
「うん、本気」
「浩介君のこと好きだよ。前から良いなって思ってた」
俺もだよ、と少し掠れた声で浩介は言った。
「……君とずっとこうしたかった。君が俺を知るよりずっと前から、夢見てた」
鴫沢は浩介の言葉に微笑んで、じゃあ運命だねと言った。そうだ、運命だったのかもしれない。
帰っていく鴫沢に浩介はアパートの窓から手を振って、その姿を写真に撮ると。鴫沢も浩介の写真を撮った。
それからの二人は、波が寄せては返すように互いの写真を撮りあった。学業以外の事柄で忙しくなっていく合間を縫っては、海へ植物園へ夜の街へ行き撮影をし、ベッドの上でも写真を撮りあった。焼きたてのトーストにバターを塗るようななめらかさで、鴫沢は浩介の姿を次々とフレームに収めた。言葉にできない感情は、シャッターボタンを押すことで伝え合った。彼の作品はどれも、浩介がこうしたいと願いながら創り上げられなかった写真だった。今はその作品の中に自分が生きている。じゃれあって眠って、レンズの向こうの彼を眺めている。写真を撮る度に、互いの魂の一部を分け与えているような気持ちになった。
鴫沢には日常の様々なやりとりを数え切れないほど撮られた。ファインダーを覗かずに近づいて、何の予告もなくシャッターを押す。そうして気の緩んだ表情を撮られることに、最初の内は軽く反応していたが。いつの間にか慣れ切ってしまい、彼にならどんな瞬間を撮られてもいいと信頼していた。
長い春休みが明ける直前の、ある日の午後。その日はアルバイトも休みで、浩介は鴫沢の部屋で一日を過ごし、ベッドの上でうたたねをしていた。すると、ゆっくり鴫沢が近づいてきて、浩介の上に跨る。その重みは程よく心地よく、写真を撮っていることにも気付いていたが、それも当然のように春の陽にまどろんでいた。
鴫沢が浩介の服の中に手を滑り込ませてきた。するのかな。浩介は目を覚まして、鴫沢の腰に手をかける。
「ヌード、撮らせて」
迷いのない声。突然のことながら、浩介に戸惑いはなかった。いつかこうなると初めからわかっていたのではないか。そう思えるほど、鴫沢の申し出を自然に受け入れられた。
浩介はためらうことなく彼の前で服を脱ぐ。いつも二人でいる時にしているのと同じように。食事中やデート中にふいに撮られるのと変わりなく、日常の一部として瞬間が切り取られる。文字通り一糸纏わぬ姿を晒す。あたたかい水の底に沈んでいくような心地になっていく。彼が望むのなら、いくらでも。鴫沢が押すシャッターの魔法を信じて、その身を委ねた。
その後も、彼の求めに応じて度々肌を晒した。同じように浩介も彼を撮った。鴫沢は相変わらず多数の女の子や、その他ポートレイトばかりを撮っていたが。彼のモデルの中でも、自分だけは特別だと浩介は感じていた。
恋人同士になってからは、コンテストで賞を獲るためだとか人に認められるためだとか、そういった重い念のようなものからはすっかり解放された。浩介はカメラを始めた頃のような純粋な気持ちで撮影を楽しんでいた。
写真というものは光と影で出来ているのに、まぶしさの中では闇のことなど忘れていたのだ。
他の学生たちより出遅れたが、浩介は四年生の冬になんとか私大の付属高校の非常勤講師として採用が決まった。鴫沢は誰より喜んでくれたが、学生ながらプロのカメラマンとして活動している彼との差を感じていないと言えば嘘だった。若手バンドのCDジャケットや広告、サブカルチャー誌のグラビア……鴫沢本人が期待の新人アーティストとしてインタビューを受けた記事もあった。
それでも満たされていたのは、鴫沢に対しての愛情と、それとはまた別の憧れや崇拝をないまぜにした、浩介にも何と呼ぶべきかわからない、抱えきれないほどの感情に支えられていたからだ。服を脱がし、その肌を味わい混ざり合う。何も携えていない裸の彼の肉体を、事後の表情を撮ることが自分だけに許されている。幻だと思っていたものが今この手の中にある。
葦原哲朗の訃報を知ったのは、雪の日の朝だった。
遅れて届いた朝刊の訃報記事を見て、浩介は心臓が止まりそうになった。まだ温かいベッドの中にいる鴫沢を慌てて起こすと、鴫沢は俯いて黙ったままだった。
「叔父さんなんだろ、すぐ実家帰ったほうがいいんじゃないのか。葬式とか色々あるだろ」
鴫沢は深くため息をついて、また布団にもぐった。おい、と揺さぶると、小さな声で構わないでくれと返された。
「昨日、親から連絡があったから知ってるよ。自殺だって……」
行かない、と意思表示するように鴫沢は首を振る。
自殺。あの葦原哲朗が。自分にとって写真を撮ることの理由や目標であった写真家が。動揺のあまり自分の耳に聞こえるくらい、浩介の鼓動は大きくなっていく。
「大事な人なんじゃないのか」
浩介は震えながらもベッドの下に手を伸ばし、一冊の写真集を取り出した。鴫沢が来る日はいつも彼に見つからないように隠していた写真集、「光について」。それを目の前に突きつけられ、鴫沢の表情は一気に凍りついた。今まで築き上げてきたものが目の前で崩落していくのを見たかのように。
「これは、『光』は、君だよね」
「……そうだよ。俺が叔父さんに頼んで撮ってもらったんだ」
鴫沢はゆっくりと写真集をめくる。過去を懐かしんでいるようにも見えるが、地獄の扉を開けているようでもあった。
「俺がまだ子供で……叔父さんが人気カメラマンだった頃、毎年夏休みになると叔父さんの家によく遊びに行っていた。少し山の方にある、小さくて古いけどモダンな造りの家で、すごく気に入ってた。叔父さんがモデルの女の子を連れてきては、部屋や裏庭や山の中で撮影をしていて、それを見るのがいつも楽しかったよ。被写体とカメラマンの関係を越えて密な関係になることもあって……俺はそれが羨ましかった。可愛がられてたけど、あの女の子たちと同じようにもっと愛されたかった」
鴫沢から、「光」自身の口から、写真には写っていない事実が訥々と語られていく。
「女の子しか撮りたくないなら女の子になればいいと思った。カツラを被ってワンピースを着て……叔父さんが求める理想の女の子になった。今まで撮ってきた中で一番の、最高の被写体だって喜んでたよ。ファインダー越しに叔父さんに視線を送られるのは本当に心地良かった。もっと見て撮って愛してと望んでいたし、叔父さんもそれを叶えてくれた。確かに愛し合っていた。……あんなセックスみたいな撮影は、俺には二度と出来ないよ。カメラマンとしても被写体としても」
彼の手の中にある「光」は、幼さの残る顔立ちに似合わずいつも熱っぽい視線を投げかけている。ページの向こうにいる誰かではなく、レンズを通して自分を狙うたった一人の人間に。ただの作品集ではない、二人の愛の記録なのだ。だからこそこんなにも心を揺さぶる。
「結局叔父さんは『光について』を越えるものを創り出せなかった。『光』に囚われて逃げられなかった。あの夏の数日間にしか存在しない少女だったのに。また撮りたいと願っても撮れるわけがない。子供の俺の欲望が叔父さんの首を絞めて苦しめて、写真家としての人生を奪った。俺が殺したんだ」
「それは違うよ」
否定する言葉はもはや何の意味も為さない。
「俺が殺したんだよ」
鴫沢はゆっくりと立ち上がって、荷物をまとめ始める。
「俺が甥だってこと、誰かから聞いて知ってたんだね。浩介には一度も話した覚えはないよ。周りの奴らみたいに偏見持たれたくなかったから」
ごめん、という言葉を吐くのはこんなにも苦しいものだっただろうか。
「俺に近づけば、俺を撮れば、自分も葦原哲朗になれると思った? 『光』を撮れると思った?」
浩介が用意した朝食に手をつけずに出て行く鴫沢を、浩介は冷たい部屋の真ん中にじっと立ったまま見送るしかなかった。
あの少女に、「光」という毒に侵食されているのは、浩介も同じだった。幻の少女を追い求め続けて、ようやく手に入れた。この才能を喉から手が出るほど欲しいと、何度も何度も食い入るように眺めた写真集だった。浩介は鴫沢の言葉を否定できない。でもそれだけじゃない愛情が、鴫沢に対して確かに芽生えているのだ。「光」ではない、鴫沢耀という青年に。
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