#13

 呑みに行かない? とサヤカから誘いがあったのは、例のイベントの翌週のことだった。彼女のバイトが終わる時間を見計らって、バイト先のカフェを訪ねると。サヤカとその友達はカウンター席の客と談笑している。目深に被ったキャップ、流行りのストリートブランドの服とスニーカー。今風の身綺麗なその青年が鴫沢耀であることは、彼の傍に置かれたカメラバッグですぐに気付いた。

「こないだの個展に来てくれたんだって? ありがとう。君も写真やってるんだよね」

 余計なこと喋りやがって。そんな思いは愛想笑いで隠しつつ、「ちょっと今これしか持ってないんだ」と言い訳しながら、浩介は彼に自身の作品ファイルを渡した。高校生の頃にコンテストで大賞を獲った写真を筆頭に、雑誌に載った作品だけを集めてある。人に見せるにはこれが一番安全だ。色が綺麗だね、と写真を見た誰もが言うのと同じ褒め方をされた。もっと他に何か言って欲しい気もあったが、言われたらそれはそれで白々しいお世辞だと思ってしまいそうだった。

 四人で軽く食事をした後、近所の鴫沢のアパートで呑もうということになった。車のライトに時折照らされながら夜道を歩く姿や、酒を買いに入ったディスカウントショップの陳列棚を、彼は楽しそうに撮影する。浩介はカメラをバッグの中から出すことが出来ず、ただポケットに手を突っ込んで三人の後ろをついていくばかりだった。

 鴫沢の作品を見せてもらったり、深夜のバラエティ番組を見て笑いあっている内に夜も更けて、女の子たちは疲れたのか折り重なるようにクッションを抱いて眠ってしまっていた。彼女たちにタオルケットをかけ、隣の部屋で寝ようと鴫沢に促された。古い1DKのアパートの寝室には、撮影機材や小道具が入ったケースや写真集が床を埋めるように積まれている。その中には、一般の学生の身分ではなかなか手が出せないような専門書や洋書なども。サークルの友人たちの部屋を訪れた時との温度差を、浩介は感じた。新しいレンズを買ったことを自慢しあったり、撮影旅行と称して出かけても、旅先では遊んでいる時間が長かったり。男女関係や批評という名目の罵り合いで揉めて退部し、そのままカメラを辞める者も。生温いとわかっていても、一度浸かったら抜け出せなかった。いつでも本気になれると思っていたし、自分だけは他の奴らと違うという変なプライドも浩介にはあった。

「現像は自宅でしてる?」

「学校のラボの方が設備がいいから、そっちでやっちゃうな。浩介君は?」

「俺も学校のサークル室で……。見せてもらった作品、モノクロが多いね。個展もそうだったけど、こだわりがあるの?」

「こだわりってほどじゃないけど。色がない写真の方が見せたいものをはっきり見せられる気がする。写真ってやっぱり光と影だけで出来てるんだって感じるから。これはカラーの方が映えると思えばそうするよ。浩介君の写真は色遣いが綺麗で印象的だね」

「……ありがとう」

 自分だって真剣にやっていなかったわけではないのに。口を開けば開くほど自分が惨めになりそうで、浩介は目を閉じた。

 しばらくして浩介が目を覚ますと、小窓のカーテンの隙間から朝焼けが見えた。バッグから自分のカメラを出し、数枚撮ってみる。その音のせいか、鴫沢も目を覚ました。

「外に出て撮ろうよ。ついでにコンビニで朝食も買おう」

 女の子たちを起こさないようにこっそりと、二人でカメラを持って外へ出た。夜中に少し雨が降ったのか、街路樹や道路が濡れている。自分たち以外はみんな滅亡してしまったかのように静かな住宅街を、言葉を交わさず写真を撮りながら歩いた。こういうものが好きだよ、と指差す代わりにカメラを構える。ただそれだけのことが、よそよそしい会話を重ねるよりもずっと居心地が良かった。浩介が昨日感じた劣等感は、ゆっくりと砂時計のように胸から落ちていった。ちょっと見せて、と鴫沢に言われて浩介がカメラを渡すと、顔を接写された。浩介が鴫沢からカメラを奪うと、今度は鴫沢は自分のカメラで浩介を撮る。浩介も仕返しのつもりで鴫沢を撮ると、一瞬立ち止まり、またすぐに笑いながら歩き始めた。

「現像したら見せろよ」

 あどけない顔で笑う鴫沢を見ていると、電波の悪いラジオのようなノイズが、浩介の頭の中にざわざわと鳴った。こういう気持ちは知っている、前にも感じたことがある。だけど正体不明のそれは、その内にすぐ忘れてしまった。

 鴫沢から呼び出されたのは、それから半月後のことだった。

「この間会った時、趣味の良い時計してたからさ。洋服嫌いじゃないでしょ」

 出版社でアルバイトをしているという鴫沢に頼まれ、浩介はストリートスナップのモデルをすることになった。あまり気負わずに自然体で、とスタッフに声をかけられたが、どうにも落ち着かない。専ら撮るばかりで、他人の写真のモデルになるなんて初めてだった。レンズを向けられると嫌が応にも緊張感が走る。撮られるのって気力と体力がいる。ほんの数枚の撮影だったのに、異様に長い時間に感じられた。

「またなんかあったら呼んでいい?」

「ああ、勿論」

 笑顔で別れたが、浩介は地下鉄の駅のベンチに座り込んだ途端、立ち上がれなくなってしまった。薄れたはずの劣等感が再び澱んで、自分を取り込んでいく。向こうはプロになるための足掛かりを着々と得ている。自分はほぼ内輪の人間ばかりのグループ展で満足して、何もしていないのと同じだ。最近は投稿するための写真を選ぶのもどれを選んだらいいのかわからない。そろそろ就職に向けて真面目に考えなければいけない。もうどこへも行きたくなくなってしまって、そのままホームで何本も電車を見送った。

 雑誌に掲載されたストリートスナップは、個展で観た彼の作品とはまた違っていた。「ダークトーンでまとめたコーディネートにスニーカーで赤を差した印象的なスタイル/大学生・二十一歳」というキャプションが付いたその写真は、雰囲気があるものの誌面に上手く溶け込んでいて、自分の個性や技術を目立たせようというわがままさを感じさせない。こういう写真も撮れるんだよ、と見せつけられた気がした。

 正体不明のノイズが、彼に会えと命令しているのかもしれない。浩介はそんな風に感じていた。「時間空いてたら飯食わない?」「サヤカちゃんたちと呑むからおいでよ」などと、鴫沢から時々呼ばれるようになった。友達の一人としてカウントされているのだろうけれど、彼が浩介を見るのと同じ重さでは、浩介は彼のことを見れない。それでもメールや呼び出しを無視出来ないのだ。

 鴫沢の自宅で二人で呑みながら、最近撮った写真を見せてもらうと、どれもこれも違う女の子の写真ばかりだった。

「これだけたくさん女の子撮ってたら、奪い合いになってるんじゃない? モテるだろ」

 そんなことないよ、と鴫沢に受け流された。

「たしかにカメラマンとモデルは密な関係になりやすいし、互いの感情に迫らないと良い写真は撮れないと思うけど……被写体との距離が近づきすぎるのも問題だと思うよ。俺はモデルとは一定の距離を置きたい」

 はっきりとした口調に何の反論も出来ない。浩介にも写真を撮る上での主義主張は少なからずある。けれども人物写真は苦手だった。正面から友達を撮るのは気恥ずかしく、かといってあまり知らない人もどう接したらいいのか戸惑ってしまうのだ。ファインダーを覗き込んだ瞬間に、シャッターを押すたびに、自覚させられる。被写体と自分との関係を問い詰められる。それに上手く答えることが出来ない。

「浩介ってサヤカちゃんと付き合ってんの?」

 その言葉が社交辞令なのか牽制なのかを浩介は上手く察せず、

「……いやー、どうかなあ」

 などと言葉を濁した。確かにサヤカとは親密な仲なのだが、彼女が他に彼氏がいると言い出しても、すんなり引き下がれるような気がしていた。モデルとの適切な距離を測りかねるように、他人に対して上手く踏み込めないのは自覚があった。

 そして鴫沢は浩介が最近撮った写真をまとめたアルバムを見て、考え込むような顔をしていた。

「浩介君の撮る写真はやっぱり、カラーの方がずっと綺麗だと思うよ。前に見せてもらったような、粒子が粗い感じの……。あの個性を殺すのはもったいないよ」

 わかってる、それは痛いほどわかってるけれど。その言葉を喉の奥で押さえつけた。浩介は最近作風を大きく変え、ハイコントラストのモノクロ写真に挑戦していた。街の気配をリアルに撮るという意気込みで挑んだ作品たちは、サークルの仲間たちの反応も芳しくなかった。プロの作風をなぞっているだけだと自分でも感じていた。今までと同じではダメだと思って必死であがいたつもりだったのに。結局は自分の表現から逃げたのだ。力量の無さが恥ずかしくて耐え難く、だからと言ってなんの評価も欲しくないわけではない。時々自分には何も成し遂げられないんじゃないかという不安に襲われる。それでもカメラを捨てた人生なんて受け入れられなかった。ファインダーを覗いて、撮るべきものを探す。それが既に義務となり自分の首を絞めていることはわかっていた。だけど写真以外のものを見つけることなんて出来ないのだ。

 すっかり温くなって気が抜けた缶チューハイは何の味もしない。でも何か呑まないとこの場にいられないような気がして、缶の残りを一気に飲み干し、もう一本缶を開けた。

 そんな折、鴫沢が企業が主催するコンテストの優秀賞に選出されたというニュースが飛び込んできた。しかし鴫沢本人からではなく、カフェに遊びに行った時にサヤカからそれを聞かされた。プロの登竜門として名高いそのコンテストで入賞するというのは、高校時代からの浩介の目標でもあった。だが今年は、それに見合う作品が撮れなかった、と自分自身に言い訳をして応募を見送っていた。鴫沢は応募したなんて一言も言ってなかったのに……いや、プロを目指すなら応募していても何ら不自然ではない。目の前に置かれたアイスカフェラテの入ったグラスからは、結露が流れ出してテーブルに小さな水溜りを作っていく。

「叔父さんがなんとかっていう写真家らしいよ」

 という話をサヤカから教えられたおかげで、なんとかその場では焦燥感が暴れださずに済んだ。なんだ、最初から自分とは違うじゃないか。出版社のバイトもどうせコネなんだろ。彼に勝てない理由として十分な情報だ。浩介はそうやって自分を納得させようとした。

 それから鴫沢が優秀賞受賞者の中から選ばれるグランプリを獲得した頃には、もう秋も終わろうとしていた。美術館で行われた受賞者の作品展で彼の受賞作を観て、浩介の中にあった重たい石のようなものが、ゆっくり崖を転がり落ちて粉々になっていくような気がした。彼がいつも見せていたモノクロのポートレイトとは全く違う世界。目が眩みそうなほどの光に溢れたニュータウンの風景は、フレームから幸福や憧憬がこぼれ落ちてきそうで一歩後退りした。その中に潜むひっそりとした寂しさの淡い影。こんな写真が撮りたいと泣きたくなるほど焦がれていたものが、現実のものとなって今ここにある。足元が泥濘になってしまったかのように重く、浩介は写真の前から動く事が出来なくなってしまった。

 塾講師のアルバイトをしている理由も、時給がいいからと答えていた。教職課程を履修しているのもとりあえず保険のつもりで、と周囲には本気でない姿勢を見せていたけれど。浩介は真面目に就職活動をし教員資格を取ることを、すんなりと受け入れられそうだった。

 帰りにミュージアムショップで写真集を物色していると、隣で商品を見ていたグループの会話から信じがたい言葉が飛び出した。

「グランプリの鴫沢耀って、葦原哲朗の甥なんだってー」

 ゼミの先生から聞いたんだけど、と言うので彼の同級生たちなのだろうか。恵まれてる奴はこういうとこへ出てこないで欲しいよな、という嫉妬にまみれた会話のそばで、浩介の足は震えていた。全身の血が循環を止めてしまったように、身体が冷えていくのを感じた。浩介は急いで自宅へ戻り、本棚から写真集を取り出す。どんな写真がどの順番で並べられているかを完全に暗記してしまうほど、何度となく眺めた写真集。頭の中で鳴っていたラジオが電波を正しくキャッチして、ノイズがさっと消え去っていくのを感じた。

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