#12
彼に出会っていなければ、何にも絶望することなく今の人生を選んでいない、なんて言わせない。
小谷野浩介が、写真雑誌が主催するコンテストの学生部門で大賞を獲ったのは、高校三年生の時だった。誌面の中央に大きく自分の写真と名前が印刷されていたのを覚えている。雨粒に濡れた通学バスの窓から撮った、色とりどりの傘の行列。重たい画面の中に配置された鮮やかなコントラストが評価された。通学バスからの風景をそれまで何枚も撮っていたが、あの写真が撮れた時は他とは違う確信があった。
その後も雑誌やコンテストへ作品を送り続けたが、載ってもせいぜい佳作や下位止まり。一次二次審査の通過者として名前だけしか載らない事も珍しくない。大学で入った写真サークルの同期たちとグループ展を開くなど、熱心に活動してはいたが、ただ焦りと苛立ちが募るばかりだった。もう二度と高校生の頃のような勢いと瑞々しさのある写真は撮れないのではないか。そんなの認めたくない、撮り続けていれば変われるはずだ。そう信じていた。
写真を始めたばかりの初期衝動を呼び起こすために、何度も開いた写真集があった。葦原哲朗という写真家の作品集「光について」。広告写真などで旬のモデルや女優を撮ることに長けていた写真家が出した、全く無名の一人の少女「光」だけを追った写真集。褪せたような淡い色調の中で、憂いと色気を帯びた視線を送る少女。挑発的なポーズをとりながらも、おそらく本当に触れようとすれば拒否されてしまうような。危うげな雰囲気をベールのように美しく纏った正体不明の少女に、一瞬で引き込まれてしまう。写真家とモデルの蜜月と呼ぶにふさわしい写真の数々だった。
中学生の浩介は、地元の書店の棚に佇む「光」の姿を見て、一瞬で恋に落ちた。買って家に帰るまでの間、ずっとその写真集を胸に抱えていた。まるで悪いことをしているような、でも胸がはやる。彼女のことを誰にも知られずに自分だけのものにしたい。
こんな写真を自分も撮りたい。そう願ったが、撮りたいものと撮れるものは違う。行き詰まる度に写真集を開いたが、「光」は手の届かない少女。理想と現実の剥離も小谷野の心を乱す要因の一つだった。
そして「光について」は葦原自身の最高傑作だったのであろう。その後多くの女性をモデルにした写真集を出版し、有名女優やアイドルたちも「光」のように撮られることを望んだが。どれもこれも上辺のそれっぽさだけをトレースしただけのように見え、あの熱量は感じられなかった。自己模倣を繰り返した後、葦原哲朗はそれまでの華やかな世界から遠ざかってしまった。「光」は良くも悪くも彼の人生を変えてしまった、運命の女だったのだろう。
まさかその運命の女に、自分の人生を狂わせられることになるとは。
大学三年の夏、就職先について真剣に考えなければならない時期だった。働きながら写真を撮り続けるであろう。浩介はそう漠然と考えており、なんとか在学中に写真家になるためのとっかかりが欲しかった。
「浩介くんって人は撮らないの?」
ある日、大学で同じゼミの女子生徒、河野サヤカにそう尋ねられた。
「前に写真見せてくれたけどさ、風景とか静物とかばっかだったよね。ポートレイトは撮らないの」
「人物写真はあんまり……自分が撮りたいと思ってるものじゃないかな、今は」
「こないださ、バイト先の友達の紹介でモデルやったんだ。大学で写真やってる子らしいんだけど、今度個展をやるんだって。一緒に観に行こうよ」
浩介自身は、学生の写真展というものに正直そんなに気乗りしなかったのだが。サヤカの手前断るわけにはいかなかった。モデルを口実に色々な女の子に声をかけて回る男は珍しくない。浩介はそういう輩を軽蔑していた。大抵下心をすぐに見透かされて忌み嫌われるのだが、調子良くやっている奴も中にはいる。そういった女の子専門のカメラマン志望男子、とは自分は違うというプライドがあった。
写真展は、繁華街の奥にある取り壊される予定の古いビルを丸ごと使ったイベントの一部だという。各階の部屋でライブペインティングやDJ、自主製作の映画上映などが行なわれている。会場のビルに着くと金曜日の夜のせいか、既にアルコールが入ったゾンビのような人たちが踊って騒いでいる。低音が激しい音楽と、不規則に上がる笑っているのか叫んでいるのかわからない、けたたましい声が混ざる。非日常を楽しむ人々を横目に、エレベーターのないビルを四階まで上った。
息を整えながら会場になっている一室へ入ると、床や天井までも真っ白なペンキで塗られて目が眩みそうな部屋に、大きく引き伸ばされたモノクロームの写真が所狭しと飾られている。学生の作品展なんて、もっと凡庸なものだと思っていた。浩介が在籍するサークルで隔月行っている展示とは段違いだ。複数人の女性をモデルに撮っているが、彼女の写真は浩介の知っている彼女ではなかった。雨の日にビニール傘をさしてイヤホンをした女の子が交差点で信号待ちをしている。そんな何気ない風景が、美しい映画のシーンを切り取ったかのように見えた。どの写真の女性もささやかな魔法をかけられたかの如く、生まれ持った容姿以上に魅力的に見える。なるほど彼の写真なら、多くの女の子がモデルになりたがるだろう。
個展の開催者、鴫沢耀という名前には覚えがあった。たしかモノクロのポートレイトで、写真雑誌の月例賞の常連だった。しばらく投稿をしていないと思ったら、もう別の段階へ進んでいたのか。会場でもらったチラシを見ると、同い年だという。……悔しい。悔しいけれど。こいつを越えてやるという気力は湧かず、浩介はただただ打ちのめされた。頑張れば勝てるとか、そういう話じゃない。自分には持ち得ない圧倒的なセンス。そういうものの存在を思い知らされた。
サヤカに彼女が写った作品の感想を求められたが、当たり障りのない褒め言葉しか返せなかった。浩介にとってはもうそんなことはどうでもよかった。床や天井を隔てた向こうから聞こえて来る騒ぎの音を全て吸い込んでしまうような、この白黒の世界からもう目が離せなかった。
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