#11
期末テストは午前中だけで終わり、帰りに平井とファミレスに寄った。明日もあるテストの勉強をするための時間ではあるが、放課後も土日も部活ばかりで会えない友達と遊べる貴重な時間だ。
「何食べる?」
「うーん、なんでもいいかなあ……とりあえず平井と同じのでいい」
「じゃあ、ハンバーグセットを二つ」
「ハンバーグのソースはデミグラス、チーズ、トマト、和風おろしがございますが、どれになさいますか?」
店員の業務用の笑顔につられて笑いながら、心の中では高速でルーレットを回して止められなくて放り投げていた。
「……同じのでいいです」
こんなにたくさんあっても選べない。ドリンクバーの飲み物も選べなくて、機械の前で立ち往生する。小谷野の前にいる時のように、ああしたいこうしたいが上手く出てこない。好きなものを自分で決めるって、何て面倒なのだろう。これでは子供扱いされても仕方ないのか。ふと頭の中に小谷野とのことが雨雲のように立ち込めて、掻き消すために慌てていつもの自分を装う。
写真見せてー、とせがまれ、この間上野に行った時の写真をまとめたアルバムを見せた。
「ちゃんとしてんじゃん。もう趣味は写真ですって言っていいよ」
履歴書書く時困らないね、と平井は笑った。
高校に入ったばかりの頃、放課後何もすることがないと言う崇史に、平井はアルバイトでもしたらいいと勧めてくれたのだが。履歴書の趣味・特技の欄に書くことが何も思いつかず、志望動機も一語も書けずにそのまま放り出してしまったのだった。書こうと思えばいくらでも相手が気にいるような嘘はつけるのだけど、その嘘を守る努力をするのが面倒なのだ。これからは写真と書けるな、と崇史も満足した。
「平井は趣味訊かれたら、トロンボーンって言ってんの?」
「そうだよー。だって他にないじゃん」
「大学入っても、社会人になっても続ける?」
「たぶん、ていうか出来ればそうしたいかなー」
平井がそう話す言葉が簡単に出てきたものではないと、崇史は知っていた。
ちょうど一年前の今頃、平井は吹奏楽部を辞めた。退部していく他の部員たちと同じような理由、毎日毎日休みなく練習漬けと競争の生活に、疲れてしまったのだという。数ヶ月間は崇史たちと一緒に放課後遊び歩いていたが、ある日突然やっぱり部活に戻ると言い出して坊主頭にした。反省の意を示すためなのだろう。正直、吹奏楽部に髪型は関係ないのではないかと崇史は思ったのだが。顧問と部長に頭を下げに行き、平井は再入部が許可された。その騒動もあって、おそらく卒業までコンクールメンバーには選んでもらえない、と平井は言う。辛いとわかっている場所にわざわざ戻るなんて、崇史には理解できなかった。でも今は少しわかる気がするのだ。どうしても諦められない「好き」のため。それだけが自分に呼吸をさせてくれる。一回手放したくらいで忘れられるものなんて、運命じゃない。諦めたくないから、自らの手で取り戻さなくてはならないのだ。
「テスト終わったら、甲子園の地区予選の応援だよ。出場決まったら夏休み返上」
「いいじゃん、晴れの舞台なんだから。テレビ映るかもしれないし。僕は暇な夏休みを過ごすよ」
「部活ないの?」
「ないよ。各自好きに写真を撮りましょう、みたいな感じで緩いから。みんな遠出して撮影したり、機材買うためにバイトするって」
「じゃあ、崇史もバイトでもすればいいんじゃね?」
と平井が笑う。付け合わせのコーンが上手くフォークで拾えなくて苦戦しながら、そうしようかな、と条件反射のように返す。そうは言っても、やりたいバイトもどんなバイトが向いているのかもわからないのだ。自分は本当にただ漫然と生きてるだけなんだな、と崇史は項垂れる。
写真部にいる目的はもうないのだから、辞めてもいいのかもしれない。だけどそれも違う気がした。その理由で辞めてしまうのは他の部員たちに対してあまりに不誠実だ。それに、あの閃光のような瞬間が手に入らなくても、それを探して写真を撮るのは楽しかった。小谷野に逢いたいからではなく、写真を撮りたいから写真部に残ろう。それでいいじゃん、と崇史は心の中で自分に頷いた。
駅と商業施設を結ぶデッキを歩いていると、片側にだけ人が集まっていて、皆一様にスマホをかざしている。何かあるのか? とその方向を見ると、夕陽を浴びて赤く染まる見事な積乱雲があった。振り向いて反対側を見ると、もう日が落ちて紫から群青色になりつつある。なるほどな、と皆と同じようにデッキから、平井はスマホで崇史はデジカメで写真を撮る。普通に夕日が綺麗だなあと眺めていたら、何やってんのと笑われそうだけれど。写真に撮るという大義名分があれば、美しいものに美しいと素直に反応することが許されるのかもしれない。カメラがあって良かった。
崇史が場所や角度を変えて何枚も撮っていると、本気だねと平井がからかう。
「本気だよ。だって写真部だからね」
口にしたら、この気持ちは本物だと思えた。
崇史が家へ帰ると、冷蔵庫にケーキがあるわよと母親が台所から呼びかけてくる。まだ玄関で靴を脱いでいるのに。
「さっきまで、おねえちゃんが来てたのよ。お友達とハワイに行くんだって、トランク借りに来てたの。お土産にケーキ買ってきてくれたんだけど、それがね……」
目の前の崇史の動向も反応も一切気にしない様子で、母親はおしゃべりを続ける。トランクって、あのピンクのやつか。
数ヶ月前の修学旅行で、崇史は次姉のお下がりのトランクを使うことに抵抗した。男なのにピンク色のトランクなんか使いたくないと必死で粘ったが、やはり新しいものは買ってはもらえなかった。弟がお下がりで使うとわかっているはずなのに、自分の好き勝手にサーモンピンクなんて選びやがって。この世の終わりかのように落胆し、旅行の間なるべく視界に入れないように努め、一生恨んでやるとすら思った。なのに、そんなことすっかり頭から抜け落ちていた。あんなに深刻に悩んでいたはずなのに、ゆで卵の殻をむくが如くつるんと忘れてしまっていた。過ぎ去ってしまえば、どうでもいいことになってしまう。こんな風に簡単に、先生を好きだったってことを半年一年もすれば忘れてしまう?
嘘だ、忘れるわけがない。そう思いたいんだけど、でも。
忘れないために写真に撮って残してるはずなのになあ。お土産のチーズケーキを手掴みで食べながら、母親の話など完全に上の空で考え込んでいた。これなら期末テストの問題のほうが簡単だ、と思ったところで小谷野との約束を思い出した。成績は落とさないこと、というあの約束は、部屋に入れなくなった今でもまだ有効だろうか。とりあえず、やるしかないのだ。小谷野に自分を認めさせるためには。明日は世界史のテストだ。文句を言わせない点数を出してやる。
居間を覗くと、三きょうだいが一枚のタオルケットに身を寄せて昼寝をしている。その横で祖父も居眠りをしている。畳に広げられた読みかけの新聞。首を振る扇風機。庭の百日紅の花。疎ましかったはずの日常が、今ではどれもが写真に撮りたいモチーフだ。簡単に見逃してしまっていた空の色も、街路樹も車窓の景色も、縁側に映る影も。以前よりも世界が輝いて見える。どのように光が差して、物が配置されているかを気に留めるようになった。同じような一日を繰り返しているだけと思えた日々も、空に浮かぶ雲のように一日として同じものがない。その目に映る一つ一つを、採集するような気持ちでそっと写真に撮る。何ヶ月か前の崇史には考えられなかったことで、それまでの自分はもうどこかへ置いてきてしまった。
でもある日突然変わったわけではないと思う。螺旋階段で目が合ったあの瞬間から、ドミノが倒れていくように今に繋がっているのだ。
先生のせいですよ。声に出さずに、そうつぶやいた。
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