#17
路地の奥にある、事務所だというアパートの一室。壁一面を覆う大きな棚には、ファイルやケースがぎっしりと詰まっている。おそらく写真やフィルムを管理しているのであろう。冷蔵庫のような立派なガラス張りのキャビネットにもカメラやレンズが何台も詰まっている。先生が防湿庫というのを欲しがっていたけれど、おそらくこれのことなのだろう。失礼だとわかっていながら、崇史は物珍しさについあちこち覗き込んでしまう。狭くてごめんね、と通されたテーブルにもファイルや封筒が山積みにされている。
崇史はスクールバッグからアルバムを取り出し、突き出すようにして渡す。鴫沢は頭の数枚だけを見て、一旦閉じた。
「君はいいの? これは随分プライベートな写真だと思うけど」
「これが外に出ても、それで誰かに何か言われても、僕は全然構わないです。悪いことなんかしてないし」
「……もし、彼と別れた後、この写真がずっと残ることも?」
「全然構いません。だって先生は、あなたの写真を今も大事にしてる人だし。あなたが撮った先生の写真も見たから、信用してます」
鴫沢がアルバムを見ている間、出されたアイスティーを飲みながら、崇史は判決を待つような気持ちでいた。一緒に出された高級そうな焼き菓子は、差し入れか何かだろうか。今日会えるとわかっていたら、手土産くらい持って来るべきだった。観て良いよ、と鴫沢の作品集も渡されたがどうしても集中出来ない。崇史がページをめくる半分以下の速さで、鴫沢はじっくりと写真を見ている。だんだんと気恥ずかしさを感じて、間を持たせようと口を開いた。
「鴫沢さんの作品って、人の写真が多いですね」
「浩介みたいに待ってられないから、じっくり取り組むような風景や静物って、俺は苦手。短期決戦向き。時間かけて何枚も撮る人もいるけどね。その方がお互いの距離が近くなって雰囲気が良くなるけど、いい表情が出るまで粘りすぎるとモデルさんが疲れちゃって駄目な場合もあるし」
「先生は人物もじっくり撮る派かもしれません」
「いつも先生って呼んでるの?」
「違うけど、教えたくないです」
「そうだね。教えたら魔法が解けちゃうからね」
子供だって馬鹿にして。という悔しさに小さく唇を噛みながらも。この人には気持ちをわかってもらえるような気もした。
「全部絞り開放かな。この質感が、浩介の写真って感じだよな。カーテンのシリーズは面白いね」
その評価は友達としてなのかプロとしてなのか。身近な人間の撮った物を見て、これ好きこれ綺麗だねって軽く言うのとは違う。決して割れないガラスの向こうから言っているようだった。
「いい写真だね。……写真、辞めてなくて良かった」
彼の穏やかな笑顔に、なんとなくほっとした。
「浩介が撮った写真はたくさん見てきたけど、こんな写真を見るのは初めてかも知れない。君は昔の俺を見ているようだね。情熱的で真っ直ぐで……今は君が彼のミューズなんだね」
そう言われるとなんだか照れてしまう。自分が発する撮って欲しいという気持ちが小谷野を駆り立てていたのだと、崇史は一人で勝手に解釈していたのだが。他人にそう言ってもらうと自信が持てる。
「もっと自然な写真も見てみたいな。その方が、君達がどんな関係かが伝わりやすいと思う」
「うーん……。今見せているような写真の関係なんです。これで全部」
そういう写真は見せたくなかった。もしかしたらこの人と先生との関係には敵わないかもしれないと思ったのだ。他の生徒よりも先生のことをよく知っていると自負しているけれど。崇史がまだ知らない姿を見てきた、まだ踏み込めない場所に触れてきた人だ。
「今年の年賀状はね、君の写真だったんだよ。螺旋階段の……だから君のこと、わかった。いつも風景や静物の写真だったのに、人物の写真なんて珍しかったから」
「先生とは今も仲がいいんですか?」
「いやー……個展の招待状を送れば来てくれてるようだけど。何年も会ってないからね。むしろ、会ってくれないんじゃないかな」
「あんなに親密そうだったのに」
「一度友達以上の関係になってしまうと、元の友達には簡単には戻れないもんだよ。ただ、年賀状のやり取りは続いてるから……年賀状に印刷されてる写真を見て、浩介はまだ写真を辞めていないんだって安心する。この歳になるとね、衝動だけでは生きていけないから。作り込んで撮影した自信作を印刷してた年賀状が、子供や家族のスナップに変わるのはよくあることで……。写真ですらなくなって既製のイラストの年賀状を貰うとさ。こいつはもう辞めちゃったんだなって。皆が皆、好きなことを続けていられるわけじゃないって、頭ではわかってるけど。やっぱり悔しいっていうか残念っていうか。なんで自分は続けてるんだろうって考えちゃうもんだよ。だから、自分の作品を送ってきてくれることが、俺にとっても命綱なんだ」
プロの人なのにそんなことを言うんだ、と崇史は驚いたが。小谷野と同い年の大人から聞くその言葉に、崇史は今の感情をいつか忘れてしまうと小谷野が思うのは無理もないなと納得できた。
「あいつの写真、好きだからさ。見たいっていうのも一番にあるけど……俺のせいで浩介は一度写真を辞めてるんだ。そういう罪悪感があるせいかもね」
崇史には計り知れない二人だけの時間を感じて、すうっと指先から血の気が引く感じがした。入り込めない場所に無理に入るつもりはないのだけれど。ベッドの下に隠していた写真を見つけた時の動悸がよみがえる。でも知らなければ良かったとは思わない。だったら、こんなところにはいない。小谷野が部屋に写真を飾っていることを知ったら、この人はどんな顔をするだろう。絶対教えてやらないでおこう。
アイスティーはもう飲み終わってしまった。グラスの水滴が硬いフェルトのコースターに染み込んでいく。静かな間を持たせるように崇史は写真を見る速度を落とす。
鴫沢の写真の中に、俄然引き込まれる作品があった。ホテルの一室らしき場所で過ごす女性のモノクロ写真。タバコを吸ったり、水を飲んだり、窓辺で外を眺めたり。しかしその女性は何の衣服も纏っていない。裸体でいることを何の気にも留めない様子でくつろいでいる。身体のどんな部分を撮られても、自分は自分であるというかのような堂々とした表情。はしたなさや淫靡さとは一線を画した作品。人間の身体というものは全てが艶めかしい曲線で構成された芸術作品だと感じさせられる。
小谷野のカメラの前でなら、崇史は裸になることには何の恐れも感じない。こんな写真を撮ってもらいたいだけなのに。だけど肝心の小谷野はそうでないのだ。
「こういうのって、ヌードになってくださいって事前に頼むんですよね。この人のヌードが撮りたい、って思って撮るんですか?」
「まずこういう写真を撮りたいってコンセプトが先にあって、ヌードを撮らせてくれるモデルさんを頼んで、あとは彼女の個性に合わせながら……。この人を撮りたい、ってとこから色々場所や衣装を決める場合もあるけど。俺は前者が多いかな」
これは後者だよね、と手元のアルバムの写真を見ながら、鴫沢はニヤリと笑う。ありがとう、と返してもらったアルバムを、崇史は人目に触れないようにスクールバッグの奥底へ押し込む。
「君は写真を撮らないの?」
「先生に習って、少し。でも今は撮るよりも撮られる方が楽しいかもしれません」
それは好きな人に撮ってもらってるからじゃないの、と鴫沢はからかうように笑う。
「そういう気持ち、知ってるよ。俺もそうだったから。ファム・ファタールってわかる?」
わかりません、と崇史が首を振ると、「運命の人」のことだと言う。
「写真家の運命を変えてしまうようなミューズは今まで何人もいて、有名な作品もいくつも残ってる。でも運命を変えるって良いことばかりじゃないよ。二人で茨の道に行かないようにね。迷い込んでもすぐ戻れると思ったら、間違いだから」
穏やかな顔つきの奥に、鈍く光る刃物を隠し持っているような匂いを感じる。
この人と先生は付き合ってたんだよなあ。この人とセックスしてたんだなあ。こういう人が好きなのかなあ。裸を撮ったり撮らせたりする仲だったんだよなあ。鴫沢の顔を観察するようにじっと見ていると、崇史はあることに気付いた。小谷野の撮った写真は、粒子が粗く淡い色遣いだった為よくわからなかった。向かって右のまぶたと、耳たぶに小さなほくろがある。黒目が美しい瞳。笑顔の中に感じる微かな影。この顔、知ってる。爪先から頭のてっぺんまで、さざ波のように衝撃が走った。知ってる、というより知らないわけがない。何度も何度も繰り返し観たあの写真の中の、あの子だ。
「……もしかして、『光』はあなたですか」
「そうだよ」
鴫沢は一瞬のためらいもなく答える。
「気付くの早いねえ。浩介はもっとかかったのに」
「……だって、あの子になりたいって思ってたから。あんな風に愛されたいって思ってたから」
喉の身体のずっと奥底から重たいものを吐き出すように、感情が漏れた。鴫沢は投げつけられたその塊を静かに受け止め、落ち着いた様子で口を開く。
「そうだね、愛されてた。表に出てない、というか倫理的に出せなかった写真もたくさんあるよ。あれが撮影中の高揚感から自然に出てきたものなのか、互いに愛していたから出てきたものなのか、今でもわからない」
俯いたその顔に、前髪がはらりと落ちる。
「写真家とモデルの関係は、大きく分けて二種類あると思うんだ。一つは写真家がモデルに対して自分の撮りたいイメージを押し付ける、写真家が主人でモデルが隷従する関係。もう一つは、モデルの意思や内面のイメージを写真家が出来る限り美しい形で掬いとろうとする、モデルが主人で写真家が隷従する関係。後者の場合は、モデルが写真家に撮らせるという面もあるけど。『光』はそういう子だった」
先生と僕は、どっちだろうなあ。崇史は少し斜め上を見ながら考える。後者のつもりでいたけれど、本当は前者のような気もする。小谷野の中の欲望を、体現してみせているような。
さて、と場の空気を断ち切るように立ち上がった鴫沢は、棚の隅からまた別のファイルを取り出した。
「若い頃の浩介の写真見る?」
もうさっきまでとは違う明るい笑顔だ。出してくれたアルバムの中の小谷野はどの写真でも、崇史の前では見せてくれないような無防備な表情をしていた。たとえどんな瞬間を切り取られても、相手が撮影する作品に全信頼を預けているような。少し悔しいけれど、こういう表情を撮ってやる、という気持ちも湧いてくる。
「二人で写ってる写真ってないんですか」
「あんまりないねー。どうしてもお互いをモデルとして撮っちゃうね」
そのアルバムの最後に収められていた写真は、道路のカーブミラーに映る二人を小谷野が撮っているものだった。この写真だけは先生から貰ったんだな。入り込むような隙が見当たらない二人。だけどこの後別れてしまう。一つボタンを掛け違えただけで、どうして上手くいかなくなってしまうのだろう。
「小谷野先生は、いい先生?」
「うーん……先生としては普通ですかね。よくいる、学校の先生っぽい先生です」
崇史の返事に鴫沢は歯を見せて笑う。
「まあ、大体想像つくよ。ちょっと優等生ぶるようなとこあるからね。そんなんじゃないくせにねえ」
そうだ、本当は真面目な優等生なんかじゃないくせに。先生っていう社会的な立場とかそういうの全部忘れて僕のこと撮りたいって欲望でのたうち回ればいい。崇史は鴫沢と一緒に笑いながら、その思いを強めていた。
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