#19
夏休み直前の休日。崇史は学校へ行く日よりもずっと早起きをして上野恩賜公園へ向かう。バッグの中には使い捨てのフィルムカメラ。待ち合わせ場所の弁天堂へ着くと、先に来ていた三好と山井が手を振っている。前回ここへ来た時とは打って変わって、空一面が雲のない水色だ。
椎野と二年生達がSLを撮りに行くというのも面白そうだと思っていたのだが。やはりなんとなく、もう一度ここへ来たかった。
さすが夏の風物詩、朝だというのにすでに不忍池には蓮の花を見に来た人々が集まっている。カメラを提げた人たちも多く、三脚や大きなレンズを備えた本格的な人たちも珍しくない。丸い蓮の葉に落ちる水滴や、緑の海の中に顔を出して咲く鮮やかなピンクの花弁。夏の朝にだけ現れる特別な景色。撮りたいと感じる場面が多くあり、なるほど人が集まるのがわかる。一眼レフの本格的な装備の人たちに囲まれると肩身は狭いが、崇史も使い捨てカメラで撮影する。現像するまでどんな写真かわからない緊張感。失敗しててもやり直しはきかない。二十七枚しかないと思うと、世界の見え方が変わる。永遠に続くはずの退屈が、生まれては消えていく瞬間の連続であるとわかる。
一度シャッターを押したら撮り直しがきかないように、一度口にした言葉は取り消せない。学校用や友達用、家族用の自分はそれぞれ微妙に違うけれど、言ってはいけないことを口にしない程度の礼儀はわきまえている。なのにどうして、小谷野浩介用の自分だけはあんなにも思ったことばかり溢れ出してしまうのだろう。何度もフラッシュバックするあの瞬間を掻き消したくて、シャッターを押そうとしても、ボタンが降りない。フィルムを巻き忘れていた。
目の前にあるのは、今この時にしか撮れない儚いもの。真昼になれば消えてしまう。だから撮らなければと皆思うのに。崇史は蓮の花を画面の中央に合わせて、シャッターを押した。
山井は銀と黒の真四角なボディに大きな丸いレンズが目立つ、変わった形のカメラを首から下げている。
「山井さんのカメラかわいいね」
いいでしょう、と山井が崇史にカメラを向けると、上部からカードのようなものが出てきた。
「インスタントカメラだよ」
と差し出されたカードからじんわりと写真が浮かび上がってくる。
「こういうの知ってはいたけど、生まれて初めて見た!」
「よかったねえ。記念にあげるよ」
興奮気味の崇史に、山井は幼子を見るように微笑む。山井が撮ってくれた写真は、崇史の姿に蓮の花が残像のように重なり合っている。
「これって多重露光?」
「そう。今練習してるんだ」
一方、三好のカメラには望遠レンズが付いている。撮ったものをモニタで見せてもらうと、空や花の色が目が覚めるような色彩に強調されている。天を仰ぐようにすくっと立ち上がる蓮の花びらに、水滴が光る。目の前の景色よりもずっと鮮烈的だ。
「やっぱりいいカメラで撮ると全然違うね!」
「それもあるけど、絞りと露出の設定が違うんだよ。これは絞りを開けて、蓮の花だけピントが合ってて背景がふんわりした感じになるようにしてるの」
凄いねカッコいいね、と崇史が褒めると、
「光村は何でも新鮮に驚いてくれるから有難いけど、とりあえず何でも褒めてくれるからねえ……」
と、喜んでいるのかそうでないような顔をした。
「光村ってさ、撮り方も凄い素直なんだよね。わー、きれいだなー、ってそれをそのまま撮れる」
「それだけじゃ、やっぱりだめかな」
「悪くはないけど、ちゃんとした作品を撮ろうと思ったら、それをより良く見せるための技術や演出も必要じゃない?」
向こう側行ってくるね、と三好は池の反対側へ向かう。
「今日は山井さんをモデルに撮らないの?」
「光村が来る前に少し撮ったよ」
三好が二人から離れているのを確認して、聞いてもいい? と山井に小声で尋ねた。
「……もしさ、もしもの話だよ。三好が山井さんをモデルにしなくなったら、他の人をモデルにしたらどうする?」
その質問に山井は少し苦笑いをした。
「考えなくはないよ。いつかそういう時は来るんじゃないかって。舞衣に彼氏が出来るよりも、私を撮らなくなる方が嫌だな。ずっと嫌」
「三好以外には撮られたくない?」
「うん。だって、舞衣は私が他の人に写真を撮らせてたら、きっと嫌だと思う……そう思っててほしいな」
「そうだね。きっと嫌だよ。絶対そう」
気温が上がる前でまだ空気は爽やかだが、日差しは痛い。二人の間に少しだけ静かな風が通り、山井の明るいブルーのワンピースが揺れる。
「変なこと訊いてごめんね」
ううん、いいの。と首を振る山井は笑ってはいるが、どこか寂しそうだった。
カメラマンと被写体の関係が崩れたら、彼女たちは親友でなくなってしまうのだろうか。カメラだけが二人を繋いでいるわけじゃない、と信じていたいのは、自身のわがままと願望が入っているから。まだ残っている生徒と先生の関係も、半年経てば嫌が応にも失くなってしまう。
「でもねえ、舞衣には夢を叶えて欲しいから、その時は私の写真じゃなくてもいいって思うんだ」
山井の気持ちを知ってか知らずか、三好は蓮の観察用デッキからこちらへ向かってはしゃぐように手を振って、カメラを構える。そんな彼女に山井は笑って手を振り返す。
使い捨てカメラにはズーム機能など当然ないので、崇史は池のフェンスから出来るだけ手を伸ばして撮りたい対象に近づける。ファインダーを覗けないから、撮れた写真はほとんど偶然の産物だろう。そういう偶然や運命は歓迎だ。
しばらくして、一通り撮れたかな、と引き上げることにした。弁天様は芸術の神様だから、と三人で弁天堂にお参りをする。賽銭を入れて手を合わせた後、なんとお願い事をしたらいいのかうまく思いつかない。先生と結ばれますように、というのは縁結びじゃないから場違いか。今更勉強とか進路というのもな。やっぱり先生のことしかないんだけど。悩んでいる内に二人とも済んでしまったようなので、崇史も慌てて一礼をした。三好と山井はおみくじを引いて見せ合って、きゃっきゃと騒いでいる。その様子を崇史は写真に撮った。
「光村はおみくじ引かないの」
「僕はいいよ。前に来た時引いたんだけど、良いこと書いてなかったんだよね」
「おみくじに書いてある運勢なんて、教訓やアドバイス程度に思っておけばいいんじゃないの。こんな運勢、すぐに変わるよ」
三好ははっきりとした口調で言う。
「占いとか好きだけどさ、遊びだよ。それにいちいち惑わされてたら、何も出来なくなっちゃう。神様の言うことより私がやりたいことのほうが絶対に大事」
そう言われると、なんだかすうっと心の隅に溜まっていた澱が消えていくような感じがした。
「ウチらこれから浅草行くけどどうする? 光村も来る?」
「僕もこれから行くとこあるから」
二人とは別れ、家族へのお土産にパンダ焼きを買い、家へ帰る前に途中下車をした。崇史が向かったのは、小谷野のアパート。
ドアの前まで行くのはやはり怖いので、集合ポストの部屋番号を探す。封筒を半分まで挿し入れたところで、迷って手を止めて。逡巡したものの、思い切って投函し、逃げるように駅へ急いだ。
運命だからそう簡単には壊れるはずないと、どんな風に扱ってもいいわけがなかった。運命だからってまたすぐに元通りの関係になれるとは思えない。でも運命なんてきっと、まばたきの間に消えてしまうほど脆い。
一線を越えるな、というおみくじに背いたからこうなったわけではなく。自分の空洞の中にちょうどぴったりはまる運命がそこにあったから、とりあえずその運命に従っているわけでもなく。大吉でも凶でも。喜びの時も悲しみのときも、病める時も健やかなる時も。胸のフレームに収めたい相手は変わらず一人だけ。自分の運命くらい、自分で決められる。
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