#20
明日から夏休みで、もうしばらくは小谷野と顔を合わせる機会がない。学校用の自分を装わなくて済む。嬉しいような寂しいような、そのどちらでもないような。崇史は窓の外の澄み渡る青空をぼんやり眺めながら、この気持ちはたぶんあんな色だと思う。
「はい、プリント全員に行き渡りましたか?」
小谷野先生は相変わらず先生らしいほどに先生で、まだ貰ってない人いませんね、と教室を見渡す。
「誰でも手軽にスマートフォンや携帯電話で写真や動画を撮ったり送ったり出来て、みなさんも利用してると思います。ですが、ここでみなさんに気をつけていただきたい問題があります。友人や交際相手の裸を写真を撮ったり、もしくは相手に撮らせて送ることを強要したりしてはいけません。裸の写真を撮らせないと別れると脅されたり、撮らないと嫌われるかもと思っても、撮ってしまってからでは遅いのです。別れてからその写真をインターネットなどで不特定多数の人にばらまかれる危険性もあります。きちんと断る勇気を持ちましょう。はい、わかった人手を上げて」
教室中にばらばらとやる気なく手が挙がる。既にホームルームを終えたクラスがあるようで、廊下の向こうからざわめきが聞こえてきた。うちの担任話長いよ、とひそひそ話が聞こえる。
「はい、じゃあ次の項目行きますよ。インターネットで知り合った人の誘いに乗って実際に会うなどの行為は避けること。同世代だと思っていたら実は大人の人で、犯罪に巻き込まれるケースがあります。知らない人にはついていかないのが基本です」
小谷野はプリントを読み上げながら、わかりましたかと挙手を促す。知らない人についていかないって子供じゃないんだから、とクスクスと笑い声がする。
自分で裸の写真を撮って欲しいって頼む場合は、どうなのだろうか。それもやっぱりダメなのか。世間は厳しいな。崇史は頬杖をついてプリントを斜め読みしながら、教壇の方を時々見遣る。先生でいるのも大変だろうけど、生徒でいるのもなかなか辛い。
終業のチャイムが鳴り、「高校最後の夏休みなので、いい夏休みを過ごしてください」と定型文でホームルームは締めくくられた。みんな早く制服を脱ぎ捨てたい気持ちを隠せずに、浮かれた様子で教室を足早に後にする。
「光村、ちょっと」
手招きされて小谷野のそばへ寄ると、案の定表情が険しい。
「おまえさあ、何やってんの。耀に会ったの?」
小声ながらも、今にも怒鳴りだしそうな勢い。
「あー、どうですかね」
「またおまえはそういう……あんな写真撮らせてさあ」
「よくわかりましたね、鴫沢さんが撮ったって」
そりゃあわかるよ、と小谷野は口を尖らせる。
「別に、普通の写真でしょう。服も着てますし。それともあれですか、知らない人について行くなと」
「そうじゃなくてさあ、本当に」
小谷野が苛立ちを隠せずに文字どおり頭を抱えていると、横を通る同級生が訝しげな顔をしてこちらを見てる。仕方なしに小谷野は崇史の耳元でため息まじりにささやいた。
「夜、電話するから」
「いいんですか。教師と生徒が必要以上に関わり合いを持って」
「いいから、もう帰れ」
と、あっちへ行けというようなジェスチャーをしながら、小谷野は廊下の向こうへ行ってしまった。
崇史がスクールバッグを取りに席へ戻ると、どうした? と同級生に尋ねられ、なんでもない大丈夫と首を振る。
「だってなんか、顔赤いよ」
そう言われて背中に汗が流れていくのを感じた。今日暑いからなどと言ってごまかしながら、小さくこぶしを握った。ガッツポーズの代わりに。
夜になり、崇史が地元の友達と焼肉食べ放題に行っていると、電話が鳴った。スマホの画面を確認すると、やはり小谷野からだ。「今友達と一緒だから。ごめん」とメッセージを送信する。彼女? と友達に訊かれる。
「だって、顔が嬉しそうだから」
「どうかなあ、まだそういうのじゃないかもしれないけど」
これ焼けてるよ、と話題をそらしながら、誰にも言えない関係であることを心の隅では楽しんでいた。秘密の関係なんて苦しいと思ったこともあったけれど。それ以上に、崇史にとっては他の誰も見たことがない光り輝くものを見つけたような興奮があるのだ。
風呂から上がって自室でスマホを確認すると、小谷野から「今電話しても大丈夫?」というメッセージが届いている。電話をすると、すぐに繋がった。
「えーと、まず、なんで俺に黙って耀に会ってんの」
堰を切ったように早口でまくし立てられる。
「特に言う必要もないかなって思いまして」
「あるだろ。俺には担任として監督責任があるわけだから。変な奴と会って危ない目に遭わないかとか、注意を払うのが役目だし」
「鴫沢さんの身元はコウくんが保証してくれるでしょう。元彼なんだから」
その言葉に小谷野は押し黙った。
「誰にでもああいう顔見せるんじゃないよ」
「なんですか、それ」
崇史が少し呆れたような言い方で返すと、小谷野は聞き取れないような言葉をもぞもぞと繰り返した後、子供みたいな声色を出した。
「……だっておまえ、やらしい顔してた」
その言葉を聞いた瞬間、思わず喉がゴクリと鳴り、崇史はニヤけた顔を抑えられなかった。嬉しい、ただただ嬉しい。それを悟られないように深呼吸をしてなるべく冷静を装う。
「僕が誰にどんな写真を撮らせても、それは僕の勝手じゃないですか」
「それはそうなんだけど。本当にお前は、ああ言えばこう言う……」
「あ、僕の誕生日、八月一日ですから。覚えておいてください」
「えっ、なにそれ」
「十八歳になります。大人になるのなんか、すぐですよ」
それじゃあおやすみなさい、と言ってそのまま電話を一方的に切った。先生が、嫉妬してる。思い通りにいかなくてのたうち回ってる。崇史は嬉しさのあまりベッドの上を転がり、うつ伏せになり足をバタバタさせて子供のように喜んだ。先生の皮を被って見せている余裕を剥いでやった。素の小谷野浩介として向き合わざるをえない。その姿が可愛らしく感じる。とにかく愛おしい。どんな顔してたんだろう。電話じゃなくて目の前にいたら、写真撮りたかったな。
崇史は机の引き出しの奥から、小谷野に作ってもらったアルバムを取り出して、鴫沢が撮った写真と並べた。先生にはこれが「やらしい顔」に見えるのか。確かに鴫沢から受ける視線には、そういう感情を引き出そうとする意図が感じられた。でも崇史は、小谷野に撮られた写真の方がよっぽどそういう表情をしていると思う。先生にだけ撮れる特別な写真。またあの視線を浴びたい。
目を閉じて、小谷野の部屋にいた時の感触を思い出す。ファインダー越しの視線に身体を舐められる、あの感触。隠している部分を暴かれ、愛でられる。思い起こすだけで、身体の中心が熱く昂ぶっていく。
大人になるまで待っていられない。今の僕は今しかない。あれがないと死んでしまう、と渇望するものに向かって走ってるのだと全身で感じてる。この中から選びなさいと差し出されたお下がりや既製品には絶対にない。特別な、僕だけのものだ。きっと今すぐ撮って残しておかないと消えてしまう。
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