#21
「忘れたくないって思って写真を撮るじゃん? でもさ、写真に撮ると記憶が薄れるんだって。写真で記録してあるから覚えなくっていいよって、脳が油断しちゃうのかな。フレームの外にあったものは記憶に残りにくいらしいよ。撮ったものを何度も観返せば、また違うらしいんだけど」
「なんとなく納得がいかない話ですね」
ふと足元に目をやると、靴紐がほどけている。身を屈めて結び直しながら、なんでスニーカーしか持ってないんだろう、と崇史は後悔している。
真夏の日差しと熱気から遮断されたこの空間は、非日常にお金を払っているのだと思う。天井から下がるシャンデリアのきらめきは上品で、足元のカーペットは一歩踏みしめるごとに雲の上を歩いているよう。そして身体が沈み過ぎない、適度な柔らかさの椅子。あまりにも丁寧すぎる空間に、場違いで申し訳なさが募る。何かの間違いかと思った値段のジュースも、一口飲んで、この味ならこの値段だと納得がいった。
「こういうところの部屋って、お高いんでしょう」
「そこまでじゃないから安心して。このエリアならもっと高級でラグジュアリーな外資系ホテルが、いくらでもあるから」
そうは言っても、崇史はこんなにきちんとしたホテルのラウンジなど来るのは初めてだった。そもそもホテルなんて修学旅行くらいでしか泊まったことはない。下ろしたてだからって、Tシャツで来ていい場所じゃなかったな。ラウンジ内を見回すと商談や打ち合わせ中のビジネスマンが多く、襟のない服を着ているのが崇史たちだけのように思われる。進路調査で将来はサラリーマンと適当に答えてしまったが、撤回すべきだな。己のだらしない性格では務まらなさそうだ。崇史はとりあえず椅子に座り直し、よれたTシャツの裾を正した。
「緊張してる?」
そりゃあしますよ、と崇史が不貞腐れたように答えると、向かいに座った鴫沢が声を殺して笑う。
「まあ、どっちにしろもう部屋取っちゃってるからねえ。崇史くんにはまた会ってみたかったし。この機会に有り難く撮らせていただきますよ」
鴫沢は、傍に置かれた機材が入ったトランクをぽんと叩く。
「大人になるまで待ちなさいって、大人は簡単に言うけど、大人になるまで待てないっていう今の気持ちを撮って欲しいんですよね。だって大人になったらそういう焦りとか切実さとか、全部消えちゃうじゃないですか。大人になってもこの感情を忘れたくないし、十七歳っていう時間は人生の中でも特別な時間だと思ったわけですよ」
崇史は何かに急かされるように早口で一気に吐いた。確かにね、と鴫沢は頷く。
「十代の時と同じ気持ちで恋愛なんて出来ないし。自分の表現にはあの頃の繊細さとかひたむきな感じを込めたいと思って、一生懸命召喚してるつもりなんだけど。似てるだけで同じものじゃないって思うわ。昔撮ってた写真見返すと、今の方が断然上手いんだけど、真似出来ない凄みを感じる時あるもん」
「でも鴫沢さんは、ちゃんと撮ってもらえたじゃないですか」
少し拗ねて苛立ちまぎれに、崇史は椅子の肘掛の上で鍵盤を弾くみたいに指をカタカタと動かす。愛されている姿を愛した人に写真に収めてもらう。ただそれだけのことなのに。先生はこの壁は高くて壊せないと思って乗り越える勇気がないんだろうけど、僕は今度こそ乗り越えてみせる。
「……葦原さんとのこと、伺っていいですか?」
いいよ、と鴫沢が答えてから、実際に話し始めるまでかなりの間があった。その間は、二人の関係の深さを表しているようだった。
「芸術家肌っていうか……感情の起伏が激しくて少し鬱気味。彼のそういう脆いところに、撮られるモデルたちみんながとりこになった。私がいないと何もできない、私こそが彼のミューズだって。みんながそう思っていた。でもどの子もただのカメラマンとモデルの関係だったわけじゃないよ。撮っている間は『特別な恋人』。だけど作品が完成してしまったら、もう必要なくなってしまう。それでもいいからみんな彼のミューズになりたがった。……俺もだよ。俺だけはみんなと違う。そういう自信があった」
穏やかな口調ながらも、言葉の一つ一つが重さを持って胸に落ちてくる。鴫沢が残り少なくなったアイスティーをストローで掻き回す度に、氷がカラカラと鳴る。
「幼い頃から叔父のことが好きだった。いつも洗練されたファッションで、部屋にも見たことのない外国の本や雑貨がたくさんあって……叔父の家を訪ねるのは、一種の冒険のようだった。よくくっついてたから、撮影現場にも連れて行ってもらったよ。写真を教えてくれたのも叔父で、中学の入学祝いにカメラを買ってくれたのが始めたきっかけ。充分に愛されていると思ってだけど、それとは別の愛情をモデルたちに注いでいるようで、嫉妬してた。あの女たちと同じように俺を撮って欲しくてたまらなくて……。だから『光』になろうと思ったし、全くためらわなかった」
手持ち無沙汰なのか、緊張を隠すためなのか。くっついた氷同士をストローで突いてばらばらにしては、グラスの中で掻き回している。
「彼のためなら何でも出来るって思ってた。思い上がりだったのかもしれないけど」
「思い上がりなんかじゃなかったって、あの写真を見た人たちはみんな思ってますよ。『光』には敵わない」
「……そうだね。『光』には誰も敵わなかった。俺自身でさえも」
鴫沢はグラスに残っていたアイスティーを飲み終え、大きく息をついた。
「最初は、どうしてもと俺から頼み込んだ。でも次の日からは叔父の方から撮りたいと言ってきた。本当に嬉しかったよ。被写体として俺を撮りたい欲望に駆られている。叔父を自分のものにできたと思ってた。写真集として表に出すのを反対した人もいたけれど、俺は二人の繋がりの証明だと思っていたから、最高に誇らしかった」
その感情は知っている。崇史はテーブルの下でTシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「結局叔父が愛してたのは『光』だけで、『光』じゃなければ俺はただの甥。同じような愛情は注いでもらえない。撮るべき被写体でいなければ意味がない。叔父は撮影が終われば簡単にモデルとの関係を解消してたけど……俺の方が叔父を見捨てた。『光』がいなければ撮れないって縋りつく叔父に幻滅した。二度と『光』は姿を現さないと決めた」
鴫沢の目は向かいに座る崇史ではなく、もっと遠くにある何かを見ているようだ。
「他人の人生を変えてしまったっていう後悔は、一生消えないだろうね。それに、きっと俺には一生『光について』みたいな写真は撮れない。……でも、写真があって良かったなって思うよ。あの写真集さえなければ、とは思わない。むしろ残してもらったからこそ、叔父を亡くしてもちゃんと生きて来れた」
いつも屈託なく笑うこの人の笑顔が、暗い水の底から何とか這い上がってきた人間のものだと思うと、しっかりと受け止めなくてはと思う。
あの写真集は、きっと運命そのもの。誰もが誰かの運命の人になり得るのなら、葦原哲朗の運命の人は間違いなく鴫沢なのだろう。だが、鴫沢にとっての運命の人は?
誰かが来た気配に、鴫沢は振り返ってラウンジの入り口を見遣る。入ってきたのは、腕を組んだ男女。平日の昼間なのに、不倫かな。リゾートファッションだからどっかの金持ちかな。などと、他愛もない話をする。
ポケットの中のスマホが振動して、画面を確認したが、崇史が待ち望んでいたメッセージとは違った。
「俺はさ、ずっと俺とか崇史くんみたいなのが、ファム・ファタール? まあ、相手を破滅させる『運命の人』なんだと思ってたんだけどさ。もしかしたら全く逆で、俺らは浩介に運命を振り回されてるのかもね」
そうかもしれません、と崇史も笑う。
家族の前での自分。学校の友達の前での自分。どちらが本当の自分なのかと問われれば、答えられない。どちらも嘘のように思えていた。先生が写す、写真の中の自分だけが本当。螺旋階段で撮られた写真を見た日から、そう思っている。あの日感じた衝動の正体を確かめに行ったら、運命がそこにあった。何もかもが嫌で退屈だった日々が一変した。一度味わってしまったら、もうこれなしでは生きていけない。そういうものになっているのだ。
勿体なくて一口だけ残してあったジュースは、氷が溶けて薄くなってしまった。崇史がラウンジの入り口を見ていると、早足で入ってくる男と目が合った。小谷野だ。さらに早足で崇史がいるテーブルに近づいてくるが、鴫沢の姿をとらえ、一瞬言葉に詰まった様子を見せた。
「おい、帰るぞ」
いつもより数段低い声。小谷野は崇史の腕を掴んで、連れて行こうとする。崇史は自ら立ち上がり、小谷野に掴まれた腕を振り払った。
「一人で帰れる。コウくんはここに残って」
今度は崇史が小谷野の肩を掴み、押し込むように椅子に座らせた。すぐさま立ち上がろうとする小谷野を、ぐっと力を込めて押し返す。
もう逃げないで。崇史が思わず溢した言葉は吐息に混ざった小さな声だったが。届いたのであろう。小谷野はもう抵抗するのを止めた。それから崇史の手首を弱く掴むと、また離した。
鴫沢に一礼してから、崇史は逃げるようにホテルのラウンジを足早に後にした。
事の発端は今朝のことだ。崇史は小谷野にメッセージを送信した。
「コウくんが撮らなくっても、他の人が撮ってくれるならそうしてもらおうかなと思いました。人生で十八歳は一度きりだから、撮るなら今しかないし。一応話は通しておいた方がいいと言われたので、ご報告します」
鴫沢と待ち合わせをしたホテルに向かう途中、電話がかかってきた。崇史は十数えてから電話に出る。
「今、どこにいんの」
「新宿のホテルのラウンジ。コウくんに止める権利はないと思いますけど」
「あるよ! だっておまえ、俺は保護監督する義務があるって言ってるだろ」
呆れているのか怒っているのかわからない。吐き捨てるような口調。
「だって今夏休みだから、学校とか先生とか関係ないでしょう」
「ちゃんと卒業するまで関係あるに決まってるだろ。俺の仕事は光村を無事に卒業させて大学へ送り出すことだからな」
「僕は先生じゃなくて、コウくんと話したいんですけど」
小谷野は電話口で大きく溜息をついた。あのな、と話しかけたところで崇史がそれを遮った。
「だって、あの部屋で写真を撮ってたのは、先生じゃなくてコウくんだから」
そこで電話は切れた。崇史が切ろうとした瞬間には、小谷野に切られていた。
先生の前ではなんでこんなに強気でいられるんだろう。運命に襟首を掴まれて、動かされているような気がしている。
駅まで歩く道すがら、今頃二人はどうしているのかなと考える。鴫沢がいると知れば、来ない可能性は充分にあった。それでも崇史は賭けに出て、勝った。小谷野はまだ鴫沢のことを好きなのかもしれない。あの写真集を今でも大切にし続けてるくらいなのだから。彼こそが運命の人なのではないか。逢わせたら、また気持ちが戻ってしまうかもしれない。だがその不安よりも、二人を逢わせなきゃという気持ちの方が強かった。
ホテルの部屋で、鴫沢は小谷野の写真を撮るのだろうか。ポートレイトだけではなく、ヌードを撮ることもあり得る。それでも何故だか、まあいいかと思えてしまうのだ。他の人が小谷野の写真を撮ったら許せないのだが、鴫沢になら安心して任せられる。もし撮ったら、見せてくれるだろうか。以前こっそり見てしまった二人の蜜月の写真でさえも、今はもう一度見てみたいと感じている。鴫沢がどんな風に撮られ撮ってきた人物かを知った今では、作品として客観視できると思うのだ。
高層ビル街を早足で抜ける。まぶしさに思わず目を細める。薄暗い照明の場所から外へ出たからでも、夏の日差しが強いからでもなく。胸の中で惑星が爆発したような強い光が身体中から溢れていて、まぶしい。面倒や退屈が靄になって膨らんで頭の中に詰まっていた日々なんて、もう忘れてしまった。今はただただ、見るもの全てがまぶしい。
少し寄り道して、人気の撮影スポットだという場所へ寄る。高層ビルに囲まれた広場にある、現代美術家が作った真っ赤な「LOVE」の文字の巨大なオブジェ。先客がいて、オブジェに寄りかかる女性をカメラを持った男性が撮っている。崇史もカメラを持って、どの角度から撮ろうかとぐるぐる周りながら探る。カメラを持っているから、わざわざここへ来ようと思ったのだ。スマホにだってカメラは付いているけれど、以前の崇史ならまっすぐ家に帰っていたはずだ。そもそも誰かのために何かを取り計らうなんてこと、しただろうか。裏側から逆文字になったオブジェを数枚撮影し、出来を確認する。夏休みが明けてから写真部のみんなに見せるのが楽しみだ。
たとえ小谷野が写すフレームから外れて、ただの生徒の一人になったとしても。崇史は自身の視界のフレームに小谷野を収め続ける覚悟は出来ている。
先生のためなら何だって出来るよ。雑踏に簡単に掻き消されるほどの小さな声で崇史はつぶやいた。
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