WISH LIST

 今日のために新しく敷かれたシーツの感触を、身体中の皮膚で確かめる。いつでもこの白さを汚す覚悟があるから、この部屋にいる。

 見られる、というのは目で見るだけのことではないと、いつも思う。彼は全身で崇史を見る。視線だけではなく、気配や指先、息づかいの全てでこの身体を見ている。崇史もまた同じように彼を、伏せた目で背中で、全身で見て感じ取る。



 風呂上がりに小谷野に借りたルームウェアに着替えながら、いつどのタイミングで部屋に服や私物を置いていいかと訊くべきか、崇史は考えている。この部屋には既に何度も来てるのだけど。泊まるのは今日が初めてなのに、いきなりそれは図々しいかな。でもそういうのやってみたかったし。

 部屋に戻ると、ベッドのシーツは新しいものに取り替えられていた。

 俺も入ってこようかな、とコタツに入っていた小谷野は立ち上がり、まだ少し濡れた崇史の頭をくしゃりと撫でて風呂場へ向かう。あと何回この部屋に来れば、一緒に入ろうと言えるだろうか。コタツに入り、小谷野のマグカップに残った飲みかけのお茶を飲み干す。太腿の内側を視線でなぞられた感触がまだ身体に残っている。シャワーでは洗い流せないそれを、再び感じたくて目を閉じる。

 視線を感じるなんて単純な言葉では足らないほどに、太腿の内側に爪痕を残すようにゆっくりと線が引かれる。レンズ越しの視線に身体を弄られる、その快感にいつも溺れてしまう。簡単に征服されたくないから、何をされても何でもないふりをしたい。けれども肝心の行為に及ぶことはない。本当に触れて欲しい部分には触れてもらえず、触れさせてもくれない。こっちはもう心も身体もその気になっているというのに、ギリギリのところで翻すようにかわされてしまう。まだ子供だから、なんて理由に納得できないのは、本当にまだ子供だからだろうか。

 崇史はコタツに半分潜り込むようにして、目を閉じたまま悶々とする。互いの身体に触れて、もっと気持ちの良いことをしたい。ただそれだけなのに。一人で弄ばれているような寂しさがある。いくなら、一緒に。

 風呂から上がってきた小谷野は崇史の顔を覗き込む。そのまま目を閉じて寝たふりをしていると、そっと頬に触れてから行ってしまった。台所から水音がする。本当に寝ていると思ったのだろうか。起き上がるタイミングを失ったまま、本物の眠りに誘われかけたところで、ゴトリとコタツの上にマグカップを置いたらしい音がした。お茶淹れたけど、飲む? と柔らかい声で促され、のそりと起き上がる。

「今日はなんて言って出てきたの?」

「部活の友達と初詣」

「夜中に出歩くの、親が許してくれないと思った」

「顧問の先生も一緒だって言ったから」

「またそんなことを……」

 言葉は呆れつつも、はにかみながら小谷野は崇史に優しい目を向ける。

「年明けたら俺仕事忙しくなるから、しばらく家に来るのは難しいかな。次は春休みになるかも」

「クリスマスも忘年会だって言って、何もなかったじゃん……」

「崇史もクラスのみんなとカラオケ行ったんだろ? それぞれ付き合いがあるんだからさ。俺のことだけじゃなくて、普段の生活を大事にしないと」

 そうやって小谷野はいつも崇史をたしなめる。子供扱いはされたくないが、都合良くもう大人なんだからなんて、そう簡単には聞き入れられない。大人になったらそんなに簡単に衝動を理性で抑え込ませられる? 違うから、僕が今この部屋にいるんじゃないの? そうやって問い詰めたいけれど、面倒な子供だと思われたくなくて口を噤む。

 家族や友達以外の誰かと初めて過ごす年末だから、特別にしたいと思っているのは自分だけなのかな、と崇史は少し寂しさを感じた。コウくんは大人だからこんなこともう何度も経験してるのだろうけど。僕にとっては誰かと付き合うのも一人暮らしの大人の家に泊まるのも、キスも服の下に触れられるのも、コウくんが初めてなのに。自分ばかりが必死のようで何だか恥ずかしくて、精一杯余裕のあるふりをしている。

 不意にコタツの中で足が触れ、避ける小谷野の足に崇史はわざと自分の足を絡ませた。

「裸足で寒くないの? 靴下履いたほうがいいよ」

 別に平気、と崇史は小谷野にもう一度足で触れる。

「五本指靴下なんか履いて……オッサンだ」

「一応まだ三十路前だから、オッサンじゃないよ」

 こんな軽口ならいくらでも叩けるのに、なんで本当に言いたいことが言えないんだろう。

「足、乗っけていいよ」

 胡座をかいた小谷野の膝の上に足を乗せると、マッサージしてあげるねなんて言いながら、崇史の足の裏を親指でぎゅうぎゅう押してくる。痛いけれどくすぐったくて、少し気持ち良くて。思わず変な声が出る。

「あはは、涙目になってる」

 今度は足の指を一本ずつ丁寧に撫で回してくる。指の裏の柔らかい部分を爪でなぞられ、崇史は耐えきれずに、びくっと身体を震わせる。小谷野が満足そうな顔をしたのは、気のせいではないはず。くるぶしの周りを丁寧に触れた後、足の裏を指の背でゆっくりと撫でられ、くすぐったさと心地好さの間で振り子のように揺れる感覚に耽ってしまう。すぐ弱いとこばかり触りたがるの、本当にずるい。

 崇史は体勢を変えて一旦足を引っ込め、それから小谷野の股をぎゅうと足で押す。

「はしたないことするんじゃないよ」

 だってさ、と口を尖らせると。小谷野はこっちに来なさいと小さな声で手招く。崇史は狭いコタツに潜り込んで、向こう岸にある胡座の上に顔を出した。

「子供みたいなことして」

「まだ子供だよ。いつもそう言うくせに」

 猫を撫でるみたいな仕草で、髪や顔に指が触れる。耳の後ろを撫でる指。もっと触られたい。もっと弄られたい。早く次の段階に進みたいような、その先を見てしまうのが怖いような。

 狭さと暑さに耐えかねて、崇史はコタツから這い出ると、小谷野の肩に腕を回して抱きついた。スウェットの裾から入り込んできた彼の手のひらの形を、温度や皮膚の硬さを背中で感じる。指先で脇腹を軽く押されると、んんっと喉の奥から漏れた。それが面白いのか小谷野はその柔らかな部分を親指と中指で弱くつまむ。声を押し殺しても、身体の一部分が硬くなる前兆からは逃れられない。だったら、その指が入るべき場所はそこじゃない。

「ねえ、コウくん一緒に初詣行こうよ」

「……それはさすがにやばいよ。誰に見られるかわかんないだろ」

「人いっぱいいるから大丈夫だって。去年平井と行った時人凄くて全然動けなかったし」

「ってことは、クラスの奴らもいて見つかるってことだよ。駄目」

「じゃあさ、遠いとこ行けばよくない?」

「何があるかわかんないでしょ。絶対駄目」

 拗ねる崇史に、卒業したらね、と優しくつぶやいて背中を撫でさする。卒業したら。その言葉はもう聞き飽きた。どんなに背伸びをして大人のふりをしても、卒業するまでは崇史に対しての態度を小谷野は変えるつもりはないだろう。学校の中ではどうしたって先生と生徒という間柄はひっくり返らないから。この部屋では下の名前を、噛み締めるように呼び続ける。

 どうせこの部屋の中だけに閉じ込めておかなくてはならない関係なら、もっと凄いことしたい。

 小谷野にしがみつく力を少し強めながら、耳元に唇を寄せる。あのさ、実はコウくんとさ、と崇史が胸の内を言葉にすると。

「おい、ちょっと待った。なに物騒な話してんだ。そういうのどこで覚えてくんの? ネット?」

「うん。動画で見た」

 はあ、と大きく溜息をつきながら、小谷野は脱力した。

「……そういうのはさー、成人してないと見ちゃ駄目ってなってるだろ。情報の授業でやっただろ、危ないサイトがいっぱいあるんだよ」

「いいじゃん、別に。アダルト動画くらいみんな見てるって。十八歳以上ですか? って書いてあったから、『YES』の方を押しただけだよ。煙草吸ったり酒呑んだり万引きしたりしたわけじゃないのに、そんな咎めるほどのことじゃなくない?」

「いやいや、良くない、良くないに決まってるだろ。……いくらお前が同意の元だって主張してもさ、相手が未成年ってだけで捕まるのは俺なんだよ。正直この部屋に泊めるだけでもまずいんだから。勘弁してくれ」

「何びびってんの? 僕が誰かに言う訳ないし」

「頼むからさ、若くて怖いもの知らずでいるのは、俺の前でだけにしてくれないか」

 半分呆れたように言い放ちながら、小谷野は崇史を膝の上から降ろす。

「じゃあ、卒業したらいいんだよね。そしたらコウくんとしたいこと全部やるから。コウ君は僕を見くびってるね」

「……今はいくらでも言えるけど、実際やってみたらがっかりするかもよ。こんなもんか、って」

 悔しいけれど、反論する言葉を持ってない。いつでも彼の方が上。ぴったりとくっついたかと思えば、また突き放される。そんなことの繰り返し。

 言葉でいくら翻弄されたところで、ただ一つ信じられるものがあるから。綱渡りのように不安定な関係が落下してバラバラにならずにいられる。自分を見る、彼の視線。胸を貫くように投げられる視線。

 彼の前では家族に見せる顔も友達に見せる顔も、全て脱ぎ捨てて裸体を晒す。彼もまた、自分にしか見せない顔で目線で、レンズを向ける。何も纏わない肌を熱く湿った舌で舐められるような、あの視線の感触。きっと誰も知らない。生徒としての崇史を、教師としての小谷野を知る人たちの誰も知らない。

 見て、見られる。見せる。互いの欲望が溶けて混ざり合うような瞬間。この真実だけは揺るがない。

 卒業したその先の、教師と教え子という壁が取り払われた、自由に愛せる時間が来ることを待ち遠しく思いながらも。窮屈な制服を脱ぎ捨ててしまうのがどこか寂しいように、もう少しだけ「先生」と呼んでいたい。コウくんと呼ぶのは、卒業したらいくらでも出来るから。子供扱いに拗ねながらも、思いの外この綱渡りのスリルを楽しんでいるのかもしれない。

「紅白始まったら、蕎麦茹でようか」

 小谷野はコタツの温度を下げながら、少し脚を延ばす。これってわざと? それとも無意識? などと疑いつつも。崇史も素知らぬ顔をして足先で小谷野の脚をそっと撫でた。

 存分に二人でいられる時間は暖かくて、テレビの中と同じくらい少し退屈で、だけど終わらないで欲しい。いくら逡巡したところで、意思とは関係なく刻々と大人になってしまうから。



 少し居眠りしてしまったらしい。崇史が目を覚ますと正面にいたはずの小谷野が見当たらず、振り返るとベッドの上で寝ていた。読みかけの本に指を挟んだまま、微かな寝息を立てている。起こさないようにそっと眼鏡を外して、コタツの上に置く。テレビのチャンネルを変えると、もう紅白は半分終わっていた。音を立てないように少しだけ息を止めて。崇史は自分のカメラを取り出し、小谷野の上に立て膝で跨った。先生だとか彼氏だとか。そういう役割分担を忘れてしまったような無防備な寝顔を、写真に撮る。シャッター音で起きませんように、と願いながら。

 彼を起こさないようにこっそり台所へ行き、冷蔵庫の中の蕎麦を茹でる。スーパーの総菜の天ぷらをレンジで温めてると、小谷野がのそのそと起きてきた。

「起こしてくれれば良かったのに」

「もう出来るから、座って待ってて!」

「なんか危なっかしいなあ、大丈夫? ネギは俺が切ろうか?」

「これくらい出来るよ!」

 家庭科で習ったから、これくらい。と、不慣れな手つきで薬味のネギを刻む。思ったよりも細く切れなくて焦る。もう見ないでいて欲しい。

「あれ、なんか背、伸びた? その内追い越されそうだな」

 小谷野は崇史の後頭部にそっと額をくっつけてくる。後ろからギュッてしてもらう時に耳の後ろに唇が触れるのが好きだから、あんまり急に伸びるのも嫌だな、なんて思う。話す言葉と息の湿度や温度が混ざり合って耳に入り込んでくるような、その感覚が好き。

 崇史が鍋の様子を見守っている間に、小谷野がざるやドンブリを用意する様を見て、なんだか同棲しているようで少し機嫌が良くなった。この部屋へ自由に出入りすることが許されたら、茶碗も箸もマグカップも自分用のものを置きたい、なんて考える。

 今度は向かい合わせではなく、隣同士に座る。こっちの方がテレビよく見えるからなんていうのは言い訳で、数十センチでも近くに寄りたい。

「明日の朝は餅もあるよ。雑煮とおしるこ、どっちがいい?」

「えー、迷う……」

「磯辺焼きもあるよ」

「ちょっと待って、選択肢を増やさないで」

「まあ、ゆっくり決めなさい」

 崇史の頭を撫でる手は優しくてあたたかい。これが大人の手なんだな、と触れられる度に思う。この手とは違う、少し長く生きてきて多く物を知っている手。自分はこんな手を持つ大人になれるだろうか。

 みんな今頃どうしてんのかな。崇史がスマホを見ながら蕎麦をすすっていると、小谷野に怒られた。

「食べてからにしな。行儀悪いだろ」

「一緒にいる時くらい、先生みたいなこと言わないで欲しい……」

「一緒にいる時だからこそ、俺との時間を大事にして欲しいんだよ。なかなか二人きりになれないんだからさ。余所見されると寂しいじゃん」

 不意打ちを食らって、一瞬呼吸の仕方を忘れた。耳が熱い。たぶん今、赤い顔してる。恥ずかしくなって崇史が目を逸らすと、赤く染まっているであろう耳に触れてきた。余計に熱くなるから、もうやめて欲しいのに。その指を払いのけることが出来ない。

 小谷野の指先は耳の後ろを辿って、首の後ろを優しく撫でる。その手の仕草は、身構えようとしても崩れ落ちそうなくらい全身に力が入らなくなる。ずるい、ずるい。心の中で何度も唱えながら、その手に全てを委ねる。

「なんでそう、くすぐってくんの」

「もっと凄いことしたいってさっき自分で言ってたじゃん」

 ふふっと笑い混じりに言う。

「そろそろデザートに、崇史が買ってきてくれたアイスクリームでも食べようか」

 小谷野は二人分のドンブリを持って、さっさと台所へ行ってしまった。自分も、と思うのに立ち上がれない。

 さっき触れられたところが、まだ熱い。自分で触れてみても何も感じないのに、彼に触れられた時だけ違う。なんでいつも弱いとこばっかり触るんだろう。悔しいような恥ずかしいような嬉しいような、変な感じ。でも、もっと触れられたい。



 新しい年の新しい朝に、最初に見るのが好きな人というのは、なかなか素晴らしいものじゃないのか。トースターの音で崇史がぼんやりと目を覚ますと、あけましておめでとう、とコタツの天板を台拭きで拭く小谷野が目に入った。

 朝御飯には、雑煮は家で食べるだろうから、と言って焼いた餅の入ったおしるこが出てきた。

「餅は忘年会のビンゴで当てました。いっぱいあるからお代わりして良いよ。むしろ積極的に食べて減らして欲しい」

「なにそれ。先生たちってそんなことやってんの」

「先生だってみんなで呑みに行ったりとか、学校以外の場所では普通の生活をしてるんですよ」

 なかなか冷めないおしるこを、二人して熱い息を吐きながらほおばる。

「……いつもは実家帰ってる時じゃないとちゃんとお正月らしいことなんてしないんだけどね」

「僕がいるから特別?」

「うん、特別」

 生徒とか先生とか、大人とか子供とか。そういうカテゴライズから離れたところにある、ただ普通の生活。好きな人と一緒に時間をもっと長く過ごしたい。同じテーブルで食事をして、同じ部屋で眠る。愛とか恋とか運命とか、心拍数を上昇させるもの達の先にきっとそれはある。そんな穏やかさを早く手に入れたい。

「今年は雪降ると良いね」

「あー、雪景色撮りたいねえ」

 口に残るつぶあんの甘さを梅昆布茶で流しながら。コタツの中で足が触れ合って、目が合って。彼から顔を背けている間も、視線を感じている。濡れた視線が肌の上を舐めていく、その感触のせいで吐く息の温度が上がる。特別な時間の甘さを味わっている。


 時間が流れる速度に逆らうように、崇史はわざとゆっくり靴を履いた。玄関先でぐずぐずしている姿を見守る小谷野を横目で見ながら、帰りたくないなあ、と溜め息混じりに呟いた。

「ちゃんと帰んなきゃ駄目だよ。親御さんが心配してるだろうから」

「僕一人くらいいなくても、どうせ気付かないよ。家にいるとうるさくて嫌だ。ただでさえ家族多いのに、姉ちゃんたちが帰ってきてるし。本当にうるさい。とにかく家に居たくない。未だに小さい子供と同じ扱いだし……」

 だから、コウくんだけには子供扱いされたくないんだ。その言葉を呑み込んでしまう。こんな愚痴を吐いている時点で、自分は充分に子供で、それを覆すことが出来ない。

「送っていけなくて悪いね」

「……いいよ、別に。誰かに見られるかもしれないから」

 小谷野は崇史の頭を撫でると、耳の後ろと襟足に触れながら、軽くキスをした。

 くすぐったい? と問われて崇史が頷くと。

「くすぐられてる時にね、ちょっといやらしい顔してるよ」

 吐息交じりの声が、耳の奥をくすぐる。熱い。たぶん今、凄くいやらしい顔をしているんだ。背中に、首に、じわりと汗が滲む。

 それから。はい、どうぞ、と薄い封筒を手渡された。

「お年玉」

「まじで?」

 崇史が中を開けようとすると、帰ってからにしなさいと制された。

「寄り道しないで真っ直ぐ帰るんだよ」

 また先生みたいなこと言って。だけどこの部屋から一歩出たら、もう恋人同士ではない。年相応に何も知らない高校生に戻らなくてはいけない。二人でいる時間は全部何よりも本物だと思えるのに、それが今の自分の普段の生活に負けてしまうのが、ただただ悔しくて。信号を待っている間、アスファルトをスニーカーの底で蹴っていた。

 一緒に冬眠したい。春になるまでぎゅっと抱き合ったまま眠り続けたい。それで目が覚めたら、何もかも許される世界になっていて欲しい。



 玄関のドアを開けると、脱ぐ場所もないくらい靴が散らばっている。居間を覗くとコタツにぎゅうぎゅうに家族が詰まっていて、甥姪たちがおかえりと駆け寄ってくる。お餅食べる? みかん食べる? と親も兄弟も次から次へとやかましい。

「ねえ、お年玉は?」

 崇史の一言で静かになり、皆微妙な表情をしながら財布から札を出して、直接手渡された。言わなきゃ忘れたふりをされてたな。

 自室で小谷野に渡された封筒を開けると、年賀状が入っていた。去年写真雑誌に掲載された入賞作の写真。網膜に焼き付けるほど見た写真なのに、口元が緩む。この写真に写っている、彼への想いをまだ持て余していた頃の自分は、今の自分を想像出来なかった。

『君と一緒にお酒が呑める日を楽しみにしてます』

 まだ二年はあるだろ、と書き添えられた言葉にツッコミを入れたくなるけれど。それまで待っていてくれるということなのだろう。

 そういえばコウくんが酒呑んでるとこ見たことない、と崇史は気付かされた。一緒にいる時は我慢してるのかな。別に呑んだって構わないのに。まだ子供だから、大人の彼に気を遣わせてしまう。困らせたくないと思いながらも、困らせるようなことばかりが口をついて出てしまう。まだまだ子供だなあ、と自分に少し呆れる。

「ねえ、年賀はがき余ってる? 年賀状出したいんだけど」

 居間の家族に尋ねると、サイドボードの上にあるよ、と母親が指差す。探すと宛名の書かれていない年賀状が数枚あった。富士山と初日の出というオーソドックスな絵の下に刷られた住所と一緒に、家族全員分の名前が書かれている。

「こういうのじゃなくてさ、名前が入ってないやつないの」

「あんたの名前も入ってんだからいいじゃない。嫌なら白いやつが余ってるでしょ」

「大体なんで僕の名前も入れるんだよ。恥ずかしいだろ、もう高校生なのに……」

「タカちゃんゲームやろうよー」

 甥たちが足元にまとわりついてくる。

「今忙しいから、あとで。あっち行ってな」

「あんたちょっとくらい遊んであげなさいよ。大体ねえ、高校生が夜出歩くなんて」

「崇史、コンビニ行くけどあんたも行く?」

「行かない。今、忙しいから」

 なんでいつもうちの家族はこうなんだろう、と溜息をつきながら、足の踏み場もないような居間から抜け出て。ノイズに耳を塞ぐように、崇史は自室のドアを閉めた。真っ白なハガキを前に、何を書くか考えあぐねる。

 黒板の板書や学級日誌やテストの採点で何度も目にしているはずなのに。自分の為だけに書かれた字。年賀状に書かれた手書きの文字はいつもと違って見えて、何度も指でその上を撫でる。

 小谷野に触れられた部分を、自分の指で触れてみても何も感じない。だけどあの指の感触は皮膚の下で記憶している。目で触れられるだけで熱くなって、アイスクリームが溶けるよりも速く崩れていく。あの感覚を、今すぐにでも欲しい。

 早く大人になりたい。自分ばっかり子供で苛々するのはもう嫌だ。夜遅く帰ってきても朝帰りしても怒られないような大人に、早くなりたい。こんな家出てコウくんと一緒に暮らしたいって書いたら、きっとまた怒るんだろうな。先生みたいに。

 散々悩んだ挙句、年賀ハガキには「僕も楽しみにしています」とだけ書いた。これだけではあまりにも寂しすぎるので、自分の願い事でも書いたほうが良いのだろうかと思い巡らせる。

 次に部屋に泊まれるのは学校が春休みになってから。その前に入試休み、それから卒業式と崇史は暇を持て余す予定しかないのだが。小谷野が多忙で逢う時間が作れない。短いはずの三学期がとても長く感じる。

 早く春が来ればいいのに。春が来たら、またコウくんより少し早く起きて寝顔を見るんだ。髭が伸びた顎をさすって、おはようなんて言うのを想像する。

 スマートフォンのメモ帳を開いて、リストの一番上の「お泊まり」「何か作ってあげる」の文字を消す。

 枕はきっといるな。それから歯ブラシ。客用じゃないカップ、箸も。コウくんのを借りるのも良いけど、着替えも何枚か置きたい。一緒に買いに行ってくれるかな。二人でレンタカーを借りてどこかに行く。それと夏休みになったら旅行。バイトをして何かプレゼントをしよう。ネクタイとかが良いのかな。あとは泊った次の日に行ってきますなんて言いながら、二人で部屋を出たい。彼の生活に混ざりたい。溢れ出す願い事をひたすら書き連ねていく。

 誕生日のロウソクを吹き消すように、パズルのピースを当てはめていくように、このリストの願い事が全て消えて行く日が待ち遠しい。

 もう一度ペンをとって、願い事を年賀状に書き加える。

「来年の年賀状にも僕の写真を使ってくれたら嬉しいです」

 春を待つ蕾のように、この気持ちは膨らんでいく。

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運命なんて、明日には消える 小林小鳩 @kobato_kobayashi

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