#09
次の日曜日、崇史は昼前に目を覚ました。時間を確認しようと枕元のスマホを見ると、メッセージが届いている。
「どうせヒマだろ? うちにきてゲームしようぜ。みんな来るし」
近所に住む中学からの友達だ。確かに暇だけれども、どうせ暇だと思われているのはなんだか癪だ。自分だって暇を持て余しているくせに。
少し蒸し暑いので麦茶でも飲もうと台所へ向かうが、家の中がいやに静かすぎる。居間を覗いても誰もいない。そして座卓の上に書き置きを見つけた。「天気がいいのでみんなで出かけてきます。お昼は好きに食べてね」というメモと一緒に千円札が置かれていた。起こしてくれたっていいのに。そう思ったが、いつもの崇史は面倒がって一人で留守番をしていることが多いので、この対応はされて当然かもしれない。
「ごめん。たった今、暇じゃなくなった」
そう返信をして、部屋着のTシャツを脱ぎ捨てた。
こうなったら選ぶべき行動は、一つじゃないのか。バッグにカメラを突っ込み、昼食代を財布に入れて外へ出る。なんとなく、というよりも当然そうすべきだという気持ちで電車に乗った。
「先生、これから行ってもいい?」
そうメッセージを送るが、なかなか返事が来なくて何度もスマホの画面を確かめる。小谷野の自宅の最寄駅に着く頃になって、ようやく返事が来た。ぎゅっとスマホを握りしめていたせいで、手のひらがすっかり汗ばんでいた。駅前のコンビニで弁当とメンチカツ、それからアイスクリームを二つ買って、アパートへ向かう。チャイムを鳴らすと、インターホンには出ずにそのままドアが開いた。
「暑かっただろ、冷蔵庫に烏龍茶があるから飲んでいいよ」
食器棚からグラスを用意する小谷野を見ると、腕時計をしている。そういえば服も部屋着ではない。
「もしかして、今日出かける予定だった?」
「……また今度でいいよ。次はもっと早く言えよ。俺研修とか仕事で土日いない時あるから」
次もあるのか。買って来たアイスクリームを冷凍庫へ入れようとすると、中に同じアイスが入っていた。先生の好みは当たったけど、ちょっと失敗した。
小さな冷蔵庫の中には炭酸水のペットボトルや缶ビールが入っている。先生はお酒を飲むんだ。大人だからな。全体的にがらんとしていて、とにかく作り置きや保存食が大量に詰め込まれた崇史の家の冷蔵庫とは大違いだ。先生の生活をもっと知りたい。
崇史が弁当を食べ始めると、小谷野も昼飯まだだったと言って冷凍のチャーハンを持ってきた。ジーンズを脱いでTシャツとトランクスだけの姿の崇史を見て、小谷野は呆れ果てた顔をした。
「おまえ、自分の部屋じゃないんだから。くつろぎすぎ」
「だって暑くて汗かいたから」
しっとりと張り付くTシャツを背中から剥がして扇ぐ。
「ここの家に着替えとか歯ブラシとか置いて良い?」
「それはいくらなんでもずうずうしいな」
「だって、また雨に降られて濡れるかもしれないじゃん」
「折りたたみ傘を持ち歩きなさい」
テーブルの下で伸ばした足が小谷野の足に当たって、崇史は慌てて引っ込める。小谷野はテーブルの下を覗き込んで、ふふっと笑った。
「待ち合わせて外で食べてもよかったね」
「絶対だめ。誰が見てるかわからないだろ。こうやって部屋に上げるのも本当は問題になるんだからな。教師と生徒は必要以上に関わり合いを持ってはならないって、決まりがあるんだから」
小谷野は先生の顔つきになる。
「言ってくれれば、コウくんの分も昼飯買ってきたのに」
「生徒にそんな使いっ走りなんてさせられないだろ」
「ここでは生徒じゃないから、半分あげる」
と崇史は紙包みの中のメンチカツを箸で割って、小谷野の皿の上に乗せた。
「どこ行くつもりだったの」
「スーパーに買い出しに行って、ついでに昼飯も……。まあ、スーパーは夜中までやってるし」
先生の生活を邪魔してしまった。崇史が悪いことをした、という顔をしていると。小谷野はテーブルの下の膝を膝で突いて、「気にしなくていいから」と言ってくれた。
後片付けくらい手伝うよ、と崇史は申し出たのだが、お客様だからと断られてしまった。小谷野が後片付けをしている間、バッグの中から写真集を取り出して、元の位置に戻す。適当に二冊ほど抜き、さて見ようかとベッドに座ると部屋の景色が変わっているのに気付いた。パソコンデスクの上の写真立てだ。モノクロ写真に変わっている。百合の花々に顔を覆われた裸の女性。一瞬息を呑むような怖さと美しさ。鋭い刃物でゆっくりとなぞられているような感覚。この間の送り主と同じだろうか? と裏返して見ると、写真展の招待状のようだった。
「鴫沢耀写真展『Everything Flows』於:ギャラリー・キャスタリア」
見過ごしていいものではない気がして、開催日などが書かれた部分をこっそりスマホで撮った。何の確証もないけれど、この人だと直感した。先生の心の中にこの人は棲んでいる。おそらく単なる友達ではない。この部屋に写真立て一つ分のスペースを占領できる存在だ。
いたずらに胸をざわつかせながら、崇史はベッドの上に座った。写真集を開くもきちんと頭の中に入ってこない。モノクロームのファッションフォトや真っ赤な口紅の外国人モデルが続き、退屈になりかけたところで現れたヌード写真に惹きつけられた。濡れた布を纏った女性のヌード写真は、全くいやらしさを感じさせない。人間の肉体というものは、こんなにも美しい造形だったかと思わされる。なめらかな皮膚の質感と曲線によって形作られた彫刻のようだ。美しいものは、ただ単純に美しい。
ジーンズを脱いだのは暑かったからではない。身体の隅々まで見て欲しかった。視線が服の下を皮膚の下を通るのを感じたかった。こんなにも誰かに自分を見て欲しい知って欲しいと思ったのは初めてで、だけど崇史にはその感情に対する戸惑いはない。隠してもきっと写真には写ってしまう。
神々しく、それでいて愛らしい。「光」をまぶたの向こうに思い浮かべながら横たわる。写真を撮られることと愛情を受け取ることを同価値のように扱う、あの少女。彼女のように撮ってもらいたい。時に優しいまなざしで、だけど性的なものも孕んでいる。
彼女はどんなポーズを取っていただろうか。頭の中に散らばったイメージの欠片をそっと拾い集めながら、真似してみる。たしかこんな風に。そうしている間に、小谷野がカメラを用意している。勿論撮っていいよ。崇史は手招きするように目線を投げかけた。
まるで呼吸するように写真が撮られていく。じっと細部まで見つめられて、時折手足の位置や髪を直される。少し骨張って血管の浮いた手。小谷野の手は大人の男の人の手で、まだ大人になりかけの崇史のものとは全然違っている。小谷野の頭のイメージ通りに、自分の身体が動かされていく。そう意識すると、じわっと身体中の血が熱くなって、太腿の付け根に緊張を覚える。
撮られる度に、自分の身体は自分のものではなくなっていく気がしてる。この身体は自分の意志で思うように動かせるものだったけれど、シャッターを切られる度に少しずつ心が離れていく。まるで魂が抜かれるみたいに。この身体は、撮られるための身体。彼の欲望を充たすためにある身体。崇史自身がどうしたいかなんてもう関係なく、小谷野が求める画を成す存在になることが望みだ。
この体勢ちょっときついな。もう少し撮るのかな。視線だけで服の下まで潜り込んで弄られているような感覚。服を着てるのに、裸にされてるみたい。裸を撮られてるみたい。
小谷野が撮影に集中すればするほど、崇史に対しての壁が、先生と生徒という壁が取り払われていく。カメラマンと被写体でいれば、教え子なら許されないことも許されそうだ。
他の人ならば、こんなことして欲しいなんて思わなかった。崇史の中に元からそういう秘密の部屋があったのだとすれば、その扉を開けて欲しいと鍵を渡しても良いと思えるのは、やはり小谷野だけなのだ。
そろそろ終わりにしよう、という合図で少し醒めた。まだあの感覚に耽っていたいのに。体勢を戻し服を整え、現実に帰る支度をする。先生はどうして簡単に切り替えられるんだろう、と崇史はなんだか寂しくなった。
冷たいレモネードを飲みながら、まだ身体に残る余韻に浸っていると、崇史の目の前に一冊のアルバムが差し出された。
「これ、こないだ撮った写真。色々自己満足って感じで恥ずかしいんだけど……出来上がったものをモデルに渡すのは礼儀だし」
小谷野が渡してくれたアルバムは、彼が特別に作ってくれたのだろう。崇史が持っているような、安っぽいポケットアルバムに乱雑にまとめられたものではない。焦茶色の布張りの表紙で、一ページに一枚ずつ。普通の艶やかな印画紙ではなく、柔らかな質感の紙に印刷されている。順番も考え抜かれていて、きちんと写真集としての体裁を保っている。これを作るために小谷野が時間を割いてくれたことがよくわかり、それが崇史を尚更喜ばせた。
小谷野が撮ってくれた写真の中の自分は、何度見ても現実感がない。友達がスマホで撮った写真で見慣れた顔とは違う。これは自分で作った表情ではない。引き出された表情だ。愛しい人間の視線を受けて、意図せず溢れた表情。モデルの魅力を引き出すってきっと、こういう写真のことを言うのだろう。小谷野が表現したい世界を構成するものの一つになっている。自分の意識が及ばないところで美しいものとして扱われている。みんなの前で見せているキャラクターとは全く違う自分の姿が存在すると見せつけられる。あんなキャラクターは全部嘘で、写真を撮られて興奮してるこれが真実の姿だと突きつけられてる。今ここで起きている現実が晒されていく。
鏡には映せない、自分では見えない角度からの写真。これは本当に自分なのだろうか。自分だけが知らないけれど、他の人は知っている自分がここにいる。見たことのない部分が白日に晒されていく。ここに写っているのは友達や家族が思っている自分ではなく、僕も知らない僕、小谷野の心の中だけにいる光村崇史だ。でもこれも自分自身が気付いてないだけで、今の自分と同じ人間なのだ。
この身体は先生のもの。先生にはどう見えているのかもっと知りたい。先生の中で永遠に留まりたい。自分でも触れたことがない部分に、もっと触れて欲しい。
「すごい嬉しい。ありがとうございます」
アルバム一冊分しかなかった写真は、小谷野に写真を撮ってもらう度に増える。
「コウ君が撮る写真、凄く好きです。もっと見せてください」
そう頼んで、過去の作品を見せてもらった。光の粒子がフレームいっぱいに溢れる幻想的な眼で写された日常。見ている内に身体の奥に浮力を得たような心地になる。この世界に入り込むことが許されていると思うと、崇史は自分を少し特別な存在に感じる。ふとアルバムに書き添えられた撮影年月日を見ると、ここ数年のものばかり。もっと古いものは恥ずかしいのだろうか。自分と同い年の頃に撮った写真も見たいのに、と思いつつも口に出すのは控えた。
夏が始まる前の気怠さのせいだろうか。崇史はベッドの上に寝転んで写真集の続きを見ている内に、居眠りをしていた。うっすらと浅い眠りから覚めかけていると、シャッターの音が聞こえる。爪先からゆっくりと辿って、太腿の付け根の辺りを撮られているのが気配でわかる。肌を撫でる視線がくすぐったい。目を開けられるほどには覚めてないから、そのままでいた。知らないふりしてるから、もっと撮りたいもの撮っていいよ。撮るだけじゃなく、触ってもいいよ。ゆっくりとまた眠りの淵に沈んでいく。
目が覚めた時に先生がいると、なんていうか幸せ。崇史は夢と現の境から、パソコンデスクに座る小谷野の後ろ姿を眺める。
「あ、起きた?」
小谷野はパソコンで今日撮った写真を見ていて、それを崇史も後ろから覗き込む。前回撮ってもらった時よりも、今日の方が調子が良いような気がする。リラックス出来たせいか、表情が柔らかく甘えている。先生が好き。どの瞬間どのショットにもその想いが滲む。写っているのは崇史だけなのに、どこか小谷野の匂いや体温を感じる。被写体を通してカメラマン自身が写りこんでいる。
ベッドの端で身体を壁に埋めるようにして寝ている写真があった。おそらく先程眠っている間に撮られた写真だろう。Tシャツがめくれ上がって、背中が半分見えている。ひどく愛されていると思った。
こうやって写真で確認すると、光村崇史がどんな人間なのか、どういう視線で小谷野から観られてるのかがよくわかる。今まで気遣ってきた「他人からどう見られているのか」とは全然違う。自分でコントロール出来ない。選べない。いや、ある意味自分で選んでるのか。この気持ち良さに抵抗出来ない。
今まで自分が飢えていることにも気付かなかった。欲しいだなんて思ってなかったのに、この世界があると知った瞬間に、これこそが自分が求めていたものだと崇史は悟った。
「またアルバム作ってくれますか」
小谷野は崇史の顔を見上げて、ふふっと少し笑ってから。いいよ、と頷いた。
日が落ちるのが遅くなってきたせいで時間に気付かず、時計を見て慌てた。遅くなる前に帰る約束だった。崇史は急いで服を着てバッグを抱える。家族はもう帰ってきているのかもしれない。焦っているせいでスニーカーが上手く履けなくて手こずる。ちょっと落ち着きなさい、と小谷野に頭を撫でられ、余計冷静ではなくなる。
「あっ、忘れてた」
「どうした?」
「アイス食べてなかった。コウくん、食べていいよ」
「次来るまでとっておくよ」
次もあるのか。ドアの前で手を振って別れてから、さっきの小谷野の言葉を何度も何度も胸の中で繰り返していた。「次来るまで」。その言葉を鳴らす度に、数グラムずつ身体が軽くなっていくような気がする。「先生」の時間は他の生徒と平等にしか与えられないから、「コウくん」の時間をもっと下さい。ふわふわとした足取りのまま、コンビニで下着と歯磨きセットを買った。
黒板の上を、アイススケートのようにチョークがするすると滑る。
「今日の授業の範囲まで、期末に出すからな」
学校用の声色と、自宅で崇史に話しかける時の声色が少し違うことは、この教室にいる四十人の中では崇史しか知りえない秘密。小谷野の指が自身の身体の上を滑っていくのを想像する。二人以外誰もいない場所では独り占めしている視線が、教室の中では全く向けられない。まるでわざと避けているかのよう。こっち向け、と崇史は念を送りながら教壇に立つ小谷野を見つめていると。その強い視線に気づいたのか、少し不機嫌そうに口を歪める。はっと気づくと周りの生徒は皆懸命に板書をノートに書き写していた。ぼんやり頬杖をついていたのは崇史だけで、慌ててノートを書き殴る。
学校では何も知らないふり。あの部屋の外にはどんな小さな欠片も漏らさない。約束したことだけれど、少しつまらない。でもそれを守れば、休日にまた小谷野の視線を思う存分浴びられる。あの、見られている感覚。他のどんな楽しいことでも味わえない、特別な感覚。
崇史は小谷野に作ってもらったアルバムを毎晩見返している。ここではない少しだけ違う場所にあるパラレルワールドを、写真のフレームという窓から覗いでいるよう。僕だけど僕じゃない、でも僕だ。親も友達も自分自身でさえも知らずにいた姿が、ここに写されている。小谷野にしか見えていなかった世界を、カメラという目を借りて分け与えてもらっている。
粒子の粗いぼんやりしたトーンのモノクロの写真が、突然コントラストの強いヴィヴィッドカラーの写真に変身してしまったような。そんな衝撃を味わわせてくれるのは、小谷野以外にはいないと確信している。激動、改革、めざめ。支配、独立、変容。教科書に並ぶ単語の数々が、自身の中で起こっているようだ。
これはもう、運命だ。崇史にはそれ以外考えられなくなっていた。
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