#08

 崇史が帰った後、小谷野はパソコンの中の写真を眺め続けていた。明日の授業の準備をしなくては。頭ではわかっているのに、どうしてもその気になれない。画面の中で熱っぽい目線を投げかける彼に触れたいという欲望を、ゆっくりゆっくり潰していく。

 写真を撮っている間、熱に浮かされているような高揚感に取り憑かれていた。こんな気分になるのはいつくらいぶりだろう。いや、初めてかもしれない。生まれて初めてカメラを手にした時の興奮。これを持って何処へ何を撮りに行こうか胸を躍らせていた、あの頃とは違った手応え。早くあの感情にまた浸りたい。

 訴求力のあるアーモンド型の瞳と、少し赤みがかった涙袋。繊細そうな顔立ちと佇まいは冷たさを感じさせつつも、野性的な何かを全身から発している。その何かが、鋭い爪で胸に小さな引っかき傷を作っていくので、彼に目を留めずにはいられない。写真に撮りたい、作品として残したい。そんな気持ちが離れず、崇史が今目の前にいないのがもどかしい。撮影プランがどんどん頭に湧いてくる。これが業というものだろうか。

 ただ、軽率なことをしてしまったと小谷野は思う。こんな写真を撮り、世間一般のルールを犯すような約束までしてしまった。自分は教師なのだ。生徒である彼との間には線を引かなければならない。しかし高校生はいつまでも子供じゃない。大人になるための階段を必死で駆け上がってる最中で、この子は更に一段飛ばしで上がってこようとしてる。同じ教師の中には、いつまでも子供でいてくれた方が思い通りに扱いやすいと言う人もいる。子供のままで良いわけない。生徒を正しい大人に導くのが教師の務めだ。建前ではそう思うのだけど、正しい大人って一体なんだ? 自分はちっとも正しい大人なんかじゃないのに。

 しかしファインダーを覗いた向こうに見える世界には、そんなルールは不要に思えてしまう。シャッターを押している間は、自身を取り巻く規範や倫理から全て解放されている。小谷野自身が認めたくない、隠していた欲望をカメラが勝手に捕らえてしまう。

 少年らしい無垢さを見せたかと思えば、男の色気を滲ませる。大人の和やかさの中に子供の苛立ちを漂わせる。淡いグラデーションの中に佇む、あまりにも儚い存在。この全てを見届け、残しておかなくては。

 螺旋階段で目が合った時から小谷野は感じていた。この子は計らずも、自分を良い方にも悪い方にも連れて行ってしまうのではないだろうか。自分の運命を動かされないように、必死で踏ん張らなくてはならない。なのに彼が発する引力に逆らえない。あってはならない感情が自分の中に湧き上がってくるのだ。




 崇史は自室のドアに鍵がかからないのが恨めしかった。同じ家に暮らす家族だからって、どんな領域も侵していいわけではないだろうに。家族がみんな下の階にいることを確認して、こっそり持ってきた写真集を慎重に開いた。

 緑に囲まれた古い洋風建築の家で撮られた一人の少女の写真集。少女の歳は崇史より少し下くらいだろうか。「光について」というその写真集はタイトル通り、どの写真も幻想的な光に包まれている。写真の中の少女「光」は少し不機嫌そうな顔を見せている。でも怒っているわけではなく、この人の前では感情をそのまま曝け出しても受け入れてくれるという、安心感からの不機嫌さだ。雑然とした部屋に置かれた鏡台に映る、ワンピースのファスナーを下ろした背中。ソファに腰掛け片足を膝立て、太腿を露わにしている。ベッドに寝そべり投げ出された脚は大きく開かれ、今にも下着が見えそうだ。鏡台の上に座り込んで、鏡に映る自分の姿に頬を添える。その仕草のあどけなさとは裏腹な、匂い立つような色気。挑発的なポーズと蠱惑的な瞳。どの写真も彼女を愛おしく包み込むような目線でとらえている。この写真を撮った相手と彼女が、ただならぬ関係であったことが容易に想像出来る。

 視線によって肢体を触れられ舐められることを、彼女もおそらく知っている。そしてそれを愉しんでいる。彼女は心の奥に凶器を隠し持っていて、写真を見る者にファインダーを覗く者に、ふとした拍子に襲い掛かりそうだ。しかしそれを受け止めようとする愛情を感じる。

 ページをめくる手が止められないが、先に進んでしまうのも惜しい。何ページか進んではまた戻っての繰り返し。写真の中に身体をのめり込ませんとするように、隅から隅まで覗きこむ。身体を貫くような閃光がここにある。自分の部屋にいるはずなのに、今どこにいるのかわからなくなってしまいそうなほど、崇史はその世界に引き込まれた。

 奥付を見ると十年以上前に出版されたとある。でも大切にされてきたのだろう。確かに古いが、中のページも端に手垢が多少ついているものの概ね綺麗で日焼けもなく、表紙にはビニールカバーが掛けられている。本棚の他の写真集とは別格の扱いだ。小谷野はどんな思いでこの写真集を眺めていたのだろうか。ページを捲るごとに、彼女の持つ魔力が心を掴んで離さない。こんな写真を撮って欲しい。彼女のように撮られたい。崇史はそう強く願った。




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