#07
最寄駅についてもまだ雨足は強いままだった。電車に乗る前のような斜め降りではないのだが、ざあざあと音を立てていることには変わりない。横断歩道に大きな水たまりができていて、一歩踏むごとにキャンバス地のスニーカーに雨が染み込んでくるのがわかる。
ようやく小谷野の自宅アパートに辿り着いた。
「今、足拭く雑巾用意するから」
と慌てる小谷野を、大丈夫ですよと制して、崇史は自分のタオルを取り出して濡れた足を拭く。
一人暮らしの人の家って、初めて来た。姉二人が同居しているアパートへ遊びに行ったことはあるが、雰囲気が違う。華やかさがなく簡素な、大人の男の人の一人暮らしの部屋。崇史が部屋を見回していると、
「風邪ひいちゃうから早くシャワー浴びて着替えなさい。さっきくしゃみしてただろ」
と小谷野に促される。冷えた身体には熱く感じるシャワーを浴びながら、他の生徒をこの部屋に上げたことがあるんだろうか? という疑問が頭をもたげた。崇史が入学する前から小谷野は教師をやっていたのだ。写真部員や他のクラスの生徒を連れてきたことがあってもおかしくない。今のこの扱いは特別でも何でもなく、教え子の面倒を見るのは当たり前という前提で成り立っているのかもしれない。少し気を落としつつ、バスルームのドアを開けると着替えが用意されていたが、タオルがない。
「先生、バスタオル貸してください」
「待って待って、今用意するから」
風呂場の扉の向こうにばたばたと動く影が見える。それが何だか愛おしい。崇史がTシャツとハーフパンツに着替えて部屋の中を見渡すと、小谷野は玄関で靴の中に詰める新聞紙を丸めていた。かいがいしく世話を焼いてくれるのは、きっと生徒だからだろう。
「それくらい僕がやっておきます。先生もシャワー浴びてきてください。風邪ひきますから」
崇史は肩にかけていたバスタオルを小谷野に差し出した。
小谷野がシャワーを浴びている間、こっそり部屋の隅々を覗いてみる。いけないことをしているのだが、少し楽しい。ダイニングの小さなテーブルの上に置かれたチャック付きポリ袋の中には、カメラと乾燥剤が入れられている。濡れたカメラを乾かしているのだろう。奥のリビングの本棚は受け持ちの授業、世界史に関する本が多いのだが。下段にはぎっしりと写真集が詰め込まれている。小谷野先生と先生じゃない時の小谷野がきっとここには全部ある。
部屋の隅のパソコンデスクには、アクリル板で挟む形式の写真立てが置かれていた。アーチ状の柱と天球型の天井を見上げた写真。青と白を基調とした細かい模様が入った壁と、建物内に差し込む光が美しい。派手な置物がないシックな部屋の中で、これだけが明るい色を放っている。写真立てを裏返してみるとポストカードになっており、切手が貼られているので誰かから送られてきたものだろう。しかし小谷野の住所と名前だけで、何のメッセージも書かれていない。
「写真、気に入った?」
背後からいきなり声をかけられ、崇史は驚き慌てて写真立てを元に戻そうとしたが、デスクの上で倒してしまいそのまま落下してしまった。ごめんなさい、と謝りながら拾おうとすると、小谷野に先に拾われてしまった。
「これはイスタンブールのスルタンアフメット・ジャミィだよ。イスタンブールがどこの国かはさすがにわかるよね」
「トルコでしょう。オスマン帝国ですよね」
「そうそう、ちゃんと授業聞いてんじゃん。これが建てられたのもオスマン帝国時代で、世界で一番美しいモスクって言われてるんだって」
お腹空いちゃったね、そろそろお昼食べようか、と小谷野は何事もなかったように写真立てをそっとデスクに戻す。
「なんか買ってくれば良かったね」
「別に何でもいいですよ」
崇史は返事をしながらも、写真のことがまだ気になっていた。送り主であろう人物のサインもあったが、ローマ字で荒々しく書かれたそれは、一瞬では読み取れなかった。わざわざ飾るということは、よっぽど親しい間柄なのだろうか。プロになった知り合いがいると以前話していたのは、この人なのかもしれない。先生じゃない素の部分の、さらに知らない部分。容易には触れされてもらえないことはわかっている。近づくための方法よりも、授業の問答の方がよっぽど簡単かもしれない。
窓の外からさあさあと雨音が聞こえる。二人が外にいた時より雨足はだいぶ弱まったようで、少しだけ空が明るくなってきた。日曜日なのに静かで、窓から漏れる弱い光は時間の感覚を失わせる。
「まだ雨止まないですね」
崇史が窓際に置かれたベッドの上に乗って外の様子を眺めてると、背後に気配と視線を感じた。見ている、見られている。何度も感じたこの視線の先にある感情が、一体何か知っている。このまま放っておいたらいけない。
「……撮っていいですよ」
驚くほどなめらかに、舌の上からこぼれた。
「撮らずにはいられない瞬間なら、いくらでも撮って構わないですから。僕はそういう先生の写真が見たいんです」
放課後の教室で好きだと言ってしまった時とは違う、はっきりと自覚した言葉を吐いた。これこそが彼の、そして自分自身の望みなのだ。互いに隠してきたものに光を当てる時が来た。
少しの沈黙の後、小谷野はゆっくりと口を開いた。
「今カメラ用意するから、そのままでいて」
あっちのカメラのレンズ方が、と乾燥中のカメラを気にしつつも。ぐずぐずしていたらこの瞬間を逃してしまう。小谷野はベッド下に仕舞ったケースからサブのカメラを急いで取り出し、撮影機材の準備を始めた。
それを待つ間、崇史の身体は緊張のせいか突然強張り始めた。なんでもないふりしないと。恥ずかしいとか怖いとか、そんなそぶりを見せちゃ駄目だ。落ち着こうと思い息を整えたいのだけれど、上手く出来ない。今までどうやって自然に呼吸をしてたのか思い出せない。首の後ろにじわりと汗が滲む。
カメラのセッティングが終わったのか、小谷野が近づいてきて思わず息を止めた。身体を覆うレースのカーテンを少し直して、撮影が始まった。シャッターの音がする度に、緊張の糸はするすると解れていく。意識がだんだんと平坦になって、身体から離れていくような感じがした。写真を撮られて、魂を抜かれている。なのに感覚だけが研ぎ澄まされていく。視線が身体のどこを這っているのかわかる。
「身体、もうちょっとだけこっち向けて。そう、そのくらい」
小谷野は感情を察せない声で、指示を出してくる。もう少し伏し目がちにして。首を四十五度くらい傾けて。授業の時みたいに淡々と、こうしてああしてと言うから、崇史はそれに従ってしまう。縛られてもいないのに、身体が締め付けられる感じがする。触れられてもいないのに、柔らかく撫でられているような気がする。体験したことのない感覚。必要以上の言葉は何も交わさないまま、シャッターボタンだけが押されていく。一枚一枚、写真におさまる度に感情が溶けていく。
雨の音も外を走る車の音も、もう何も聞こえない。シャッターの音以外は。この身体は、彼に撮られるために存在している。
何でもいい誰でもいい、じゃない。この人がいい。この人のためにこれをしたい。それがはっきりとわかった瞬間に、さっきまでの自分とは違う生き物に変化したように思えた。放っておいたらだらだらとどこかへ流れ出してしまうような、形の定まらなかったものが、この一瞬であるべき形に固まった。そんな気がした。
「もうお昼にしよう」
不意に終わりを告げられ、なんだか物足りない。置いてけぼりにされて行き場を失った感情を、どこにぶつけたら良いのかわからず、崇史は不貞腐れた。本棚に並んだ写真集が目について、台所に立つ小谷野に見てもいいか呼びかけると、こちらを振り向かずに返事をされた。さっきまで上がっていた体温が、ゆっくりと下がっていく。
ハードカバーの写真集は手に重く、ページをめくる度に指紋がつかないように慎重にならざるをえない。いわゆる写真家の作品集というものを初めて見る崇史にとっては、名前やタイトルだけを見ても全くピンとこない。だが、その中に広がる世界には引力を感じる。自分の家族にポーズをとらせて作り上げた写真。モデルの妻との日常を閉じ込めた写真。亡き妻と愛猫との最後の日々を追った写真。どれも被写体への惜しみない愛情が伝わって来る。女性のヌードを、性を感じる肉体ではなくオブジェのように撮る作品には、芸術としての美しさとはこういうものだと教えられる。
そして、パートナーのヌードを撮った作品が何作もあり、崇史は驚く。恋人や妻とはいえ、カメラの前に裸体を晒し、それを作品として公開されるのはどんな気分なのだろうか。それとも写真家を愛したからにはどんな姿でも撮られて構わない、という覚悟の上で成り立つ信頼関係か。……さっきまでの自分の感情は、どういうものだっただろうか。それこそどんな姿でも、と感じていた。あの感覚を、と頭の奥の方から引き摺り出そうとするのだけれど、一人ではうまくいかない。
ふと、棚の一番端に目立たぬように背表紙を棚の奥に向けて差し込まれた写真集があるのに気づいた。一体なんだ? と引き抜くと、表紙の写真に一瞬にして目と心を奪われた。ベッドの端に座り顔を背ける白いワンピース姿の少女。それだけなのに強いインパクトを残す。中を開けると、不安定さと強さがないまぜになったような視線をこちらに投げかけてくる。何故だかいけないものを見てしまったような気がして、そっと元に戻した。
「光村、ご飯できたよ」
振り返って呼びかける声に驚いて、慌てて何も悪いことなどしていませんという顔を作った。
「コーヒー飲める?」
「カフェオレなら」
じゃあ牛乳入れてやろう、と小谷野は並んだマグカップに牛乳を注ぐ。本当のことを言わずにコーヒーが飲めると言えば良かったと、崇史は少し後悔した。なんだか自分をまだ子供だと認めてしまったような気がした。
小谷野が昼食に作ってくれたナポリタンは、てっぺんに目玉焼きがのっていた。母親が作るそれとは違う、少し出来の悪い黄身が固い目玉焼き。フォークで混ぜほぐしながら食べる。
「美味しいです」
「ありがとう。でも申し訳ないけど、これレトルトのソースだよ」
「作ってくれただけでもありがたいです」
テーブルひとつ分を挟んで向き合う。食べながら上目遣いで見ると目が合って、互いに少しはにかむ。春の面談の時のように逸らされるようなことはない。小谷野の瞳にはたしかに崇史が映っている。
食べ終わって二杯目のカフェオレを飲みながら、ベッドにもたれかかると視線を感じた。その瞬間を待っていた。準備はできている。
「……いい?」
「いいですよ。わざわざ訊かなくても」
ベッドの上に仰向けに寝転んで足を三角に立てる。カーテンの隙間から入り込んだ淡い光がちょうど顔当たって、目を細める。横を向いたり、腕を上げたり。撮られるほどに、頭の中も胸の奥も濾過したように透明になっていくようだ。気持ち良い。もっとこうしていたい。頭の奥から身体の隅々から、じわっと甘いシロップのようなものが滲み出ていく。そんな感じがする。
「足もう少しだけ開ける? ベッドの外の方に」
小谷野の指先がくるぶしに触れて、身体中がざわりと揺れた。恥ずかしくなって崇史は顔を壁際に向けたが、小谷野は気にせず撮り続ける。それから何カットか撮影した後、もう終わりにしようということになった。
デジタルのいいとこって撮ってすぐ見れるとこだよね、と小谷野はパソコンの画面に先程撮ったばかりの写真の一覧を出した。一枚ずつ表示して出来を確かめていく。カーテンレースの向こうに立つ横顔は、逆光で顔がわからない。自分の背中なんて初めて見た。見たことのない部分が白日に晒されていく。どの写真も映っているのは自分なのに自分ではないような気がした。ここに写っているのは周囲が知っている崇史ではない。崇史も知らない、小谷野の心の中だけにいる崇史なのだ。確かにあった現実を写しているはずなのに、そうではない特別なものに感じられた。こんな写真はきっと他の誰も撮れない。誰にも奪わせたくないものを持つのって、こういう気持ちなんだ。崇史はさっき触れられたくるぶしが熱くなるのを感じた。
「嫌だったらすぐ消すからね」
「先生が撮った写真ですから。消したい写真なんか一枚もないです」
もっと撮ってください。何度も言うタイミングを探ったが、その一言はなかなか口に出せずにいた。
いつの間にか雨は上がって、窓の外はまぶしいほどの夕陽が射している。あ、虹。と小谷野が指差した方を見ると、オレンジとピンクの混ざった空に、大きな虹が出ている。崇史は慌てて自分のカメラを取り出し写真を撮った。小谷野もまた、もう消えそうなその虹を真剣にカメラのモニタでチェックしながら撮る。崇史はどうしてもさっき見た写真集が気になって、その隙に本棚からそっと抜き取りリュックに隠した。
帰り道は小谷野が駅まで送ってくれた。裸足で履いたスニーカーはまだきもち湿っぽい。小谷野は時々立ち止まって、雲の端に紫が混ざったオレンジ色の空を撮っている。虹はもう消えちゃったのかな、なんて言いながら。ずっと上を向いたままカメラを構えて歩く小谷野に「先生、後ろから車来てます」と呼びかける。あぶなかった、と車を避けながら子供みたいな顔で照れ笑いをする。ふと目に止まった水たまりに夕暮れの空が映っているのに気付いて、また撮り始める。どの角度がいいか探ったり、崇史にそこに立ってと指示を出して影を写り込ませたり。オレンジ色に染まる横顔。崇史の方を向いてくれていなくても、夢中になっている小谷野を見るのは何だか楽しい。空を撮るふりをして、小谷野の写真を何枚も撮った。
駅の改札で、また明日学校でと別れる際に、崇史は立ち止まった。
「また先生の部屋に、写真集見に来てもいいですか」
崇史は小谷野の目ををじっと見る。
「……生徒と教師が親密になりすぎるのは問題があるよ。校外で私的に会うことは禁止って決まりがあるから」
小谷野は子供をあやすように崇史の頭をぽんと撫でる。さっきまでのカメラを通したやり取りが、まるで存在しなかったようなそぶりで。大人の言い訳で体よく断るなよ。悔しくなってリュックの肩紐をぎゅっと握る。
「先生の下の名前って何だっけ? 浩介だっけ? じゃあ、コウくんって呼んでいい?」
思いもよらない崇史の言葉に小谷野は目を丸くした。
「コウくん、友達になろうよ。先生と生徒じゃなくて、友達としてだったら部屋に上がってもいいでしょう」
崇史自身も酷いこじつけだと思ったのだが、ここで諦めたくない一心で、咄嗟に出たのがそれだった。
「学校ではちゃんと先生と生徒の関係を守ります。先生の部屋だけの秘密にするって約束します」
少しの沈黙の後、小谷野は根負けしたのか、いいよと頷いた。
「絶対に約束を守ること。遅くなる前に帰ること。あと成績は下げないこと。守れる?」
「大丈夫! 絶対守ります」
満足そうな笑顔に、小谷野は一瞬怯えた。すっかりと晴れ渡っているのに、嵐の種が潜んでいる予感がした。
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