#06

 そろそろ梅雨入りの時期のはずだが晴れの続く日曜日。写真部一同は撮影会のために上野駅のパンダ橋口に集合した。駅構内の賑わいとは変わり、少し落ち着いた人の流れを見守るように、巨大なパンダ像がそびえ立っている。

「かなり離れないとジャイアントパンダが全部入らないんだけど」

「無理に全身入れなくてもアップで撮ればいいじゃん」

 せっかく来たんだから全身撮りたいのに、とカメラを構えた崇史は構図に悩んでいる。近寄ってアップで撮ろうとしても、ガラスケースに自分の姿が映りこんでしまって思うように撮れない。色の濃い服を着ると防げるよ、とアドバイスしてくれた三好も椎野も黒に近い色の服を着ている。

「反射を抑える偏光フィルターもあるんだよ」

 と、三好がレンズに付けたフィルターを外して見せてくれた。試し撮りしたパンダをモニタで見せてもらうと、崇史が撮ったものとは違ってくっきりと写っている。

「俺、シロナガスクジラ撮るつもりで来たんだけど、どの角度から入れようかな」

「なにそれ」

「科学博物館に実物大の模型があるんだよ。モノクロで重厚感ある感じに撮りたくってさ」

 椎野が言うには博物館は十八歳未満は無料なので何度も来ているらしく、無料の内に通ってたくさん撮っておきたいということだった。

 スポーツ特待生の人たちだけが特別な人種だと思っていた。彼らもまた、写真という競技の選手なのだ。崇史には見えていないだけで、こんな風に未来をまっすぐ見れている人たちがもっといるのだろう。今まで何やってたんだろう、と少しだけ恥ずかしくなる。違う世界の話だと切り離してしまうのではなく、少し挑戦してみようという気になった。彼らのようになれば、小谷野がどんな気持ちで崇史にレンズを向けたのかを知れそうだから。霧の向こうにあるぼんやりした言葉ばかりの未来は、待っていれば時が経って必ず訪れるものだと思っていた。今は、見えなくても進まなくてはいけない気がしている。

 待ち合わせ時間の十時になっても小谷野は来ない。とりあえず一年女子と三年女子は動物園、二年生は上野検車区、椎野は建物が撮りたいと各々撮影計画を話し合う。来る途中で考えておけば良かったな、と崇史がスマホで上野恩賜公園と検索し始めると、椎野が駅で貰ってきたパンフレットをくれた。それから十分ほど遅れてようやく小谷野がやってきた。

「先生遅いよ! 顧問でしょ!」

 怒る三好に、申し訳ないと手を合わせる。

「ごめん、悪かった。ちょうど出かけようとしたら宅配便が来てさあ。で、みんなどの辺回るか決まった?」

「グループに分かれてこの辺を散策しながら撮影ということで。例年通り昼過ぎに一旦集合で良いですよね」

 椎野は部長らしく皆をまとめて、じゃあ行きましょうと歩き出す。他の部員たちが抱えているカメラは立派で重たそうだ。崇史は自分の手の中のコンパクトカメラと見比べる。先生のカメラも立派だったよな、と横を歩く小谷野を見遣る。ポロシャツとパンツで教壇に立つ姿ではなく、ボーダーのTシャツにジーンズ。いつもより緩んだ雰囲気で、先生のはずなのに先生じゃないようだ。小谷野は崇史の視線に気付き、目が合ってはにかんだ。

「先生もボーダーとか着るんだって思って」

「そら着るよ。先生にもね、学校じゃない場所で君らの先生ではない時間がありますからね」

 小谷野はなぜか得意げに言う。

「今は先生率は何パーセントくらいですか」

「えー? 半分くらい?」

 急いで来たのだろう、こめかみに汗が滲んでいる。先生が先生らしくない、普段着の部分をもっと見てみたい。

 公園に到着し、各自決めていた場所へ移動を始めた。

「一緒に回る? それとも自分で考える?」

 椎野にそう尋ねられ、崇史は公園の地図を広げて、もうちょっと考えると返した。椎野と回ればきっと同じ場所で同じものを撮ってしまうだろう。それは出来を比べられそうなので避けたかった。いつもその場しのぎで決めてきたけれど、自分の意思でこういう理由で決めました、と答えられるようにしたい。そうでないといつまでも一回り下の甥姪たちと同列に子供扱いされてしまう。

 一人残された崇史は、もう目を瞑って指差した場所に行こうという気になりかけていたのだが。それを見かねたのか、小谷野は一緒に回ろうかと助け船を出してくれた。

「とりあえず上野東照宮のぼたん園に行ってみようか」

 小谷野に誘われ、大きな石灯籠がいくつも立ち並ぶ参道を歩く。薄暗い中に木漏れ日が差して、重厚な石灯籠に淡く煌めく光がハイライトのように当たっている。

「三脚持って来れば良かったな。失敗した」

 と独り言ちながら、小谷野はカメラを構えて露出を調整し始める。へえ、と最初は完全に傍観してしまっていて、途中で気付いて慌てて崇史もカメラを出した。

 それからぼたん園へ向かったのだが。残念ながらぼたんの旬は過ぎていて閉園していた。ごめんね、と謝られるのも逆に申し訳ないくらいだ。別のところ行きましょうと、たっぷりの新緑に囲まれた中を歩く。薄曇りで蒸し暑いが、やや強い風が吹いていて気持ちが良い。小谷野が立ち止まって木漏れ日を撮影しているので、崇史もそれに倣って撮った。日曜日だからか、同じようにカメラを抱えた人たちと何人もすれ違う。カメラをやってる人がいっぱいいるのだと、崇史は自分が写真を撮るようになってから初めて気が付いた。本格的に三脚を立てて撮影している中高年や、ちょこまかと走る子供を撮影する若い父親。僕らの関係性はどう映るんだろうと、崇史は小谷野の顔を見上げる。不意にまた目が合って、なに? と笑いかけられる。

 不忍池に着くと、大きな池一面を隙間なく蓮の葉が覆っていた。つぼみらしきものは見えるけれども、咲くまでにはもう少しかかりそうだ。

「蓮の花の見頃は来月だから、まだ早かったね」

 海のように広がる緑の葉の向こうに銀色に鈍く光るビル群が見えて、少し面白いなと思い崇史はシャッターを切った。思ったようにはうまく撮れないけれど、撮りたいというものを見つけて撮ったという達成感はある。まるで探していたものを捕まえたような。

 せっかく来たんだからと弁天堂でお参りをして、おみくじをひいた。

「先生なんだった?」

 と崇史が尋ねても、小谷野は無言で首を振って結び所に結び付けていたので、おそらく凶だったのだろう。ほら、ほら、と崇史が自分の大吉のおみくじを自慢げに見せる。

「学問は、『安心して勉学せよ』だって。おみくじもこう言ってるんだから、しっかり勉強しないと」

「してますよ。それなりに。争事は『思いのまヽに勝つ』って書いてあるし」

 恋愛の項を見ると「一線を越えるな」と書かれている。越えなきゃしょうがないじゃん、と崇史は口を尖らせた。教師と教え子という境界線を飛び越えなければ、この人は手に入らない。おみくじに書かれている運勢よりも、螺旋階段で感じた運命を信じる。

 ボート池の端には手漕ぎボートたちが整列して静かに出番を待ち構えている。白だけではなく黄色やピンクのカラフルな白鳥のボートたちが優雅に池を泳ぐ。

「代金くらい出してやるよ。乗る?」

「先生ボート漕げるの?」

「漕いだことないからスワンボートだよ」

 絶対嫌だ、と半笑いで受け流す。風に揺れる柳の葉、陽の光が当たってきらめく水面。結構絵になるね、と池の周りを歩きながら何枚も撮れた。崇史がスワンボートにズームインさせると、若いカップルが笑い合いながらボートを漕いでいる。デートだろうか。乗りたいって言えば良かったかな、と今更ながら思う。

 弁天池の対岸まで来ると、弁天堂の六角形のお堂が良く見える。ベンチで休憩がてら、次はどこへ行こうかと地図を広げた。見せて、と崇史の手の中の地図を小谷野が覗き込む。髪が頬に触れそうな近さで、少し緊張してしまう。教室の一番前の席よりもずっと近い。その気になればこんな距離も手に入れられるし、偶然を装って触れることも出来る。そう思ったら心拍数が上がるのを感じた。

「公園の反対側になっちゃうけど東京国立博物館に行ってみようか。ここなら色んな建物があるし屋外展示もあるから……」

「えっ、ああ、それで良いと思います」

 うわの空だったことをごまかすように、ペットボトルの炭酸水を一気に飲んだ。飲んでも飲んでも喉が乾くのは、蒸し暑さのせいだけではない。ふと気付くとさっきよりも重い雲がかかっている。

「なんとなく降りそうですね」

 ぽつぽつと雨粒が当たった気がして崇史が空を見上げると、雨が目に入った。途端、大きな雨粒がばらばらと音を立てて降り始めた。

「やばい、カメラ濡れた。早く戻ろう」

 急かされるように、小谷野に腕を引かれる。周囲に雨宿りできるような建物を見つけられず、二人は慌てて弁天堂まで走り階段を駆け上った。一息つく間もなく小谷野は急いでカメラからバッテリーとメモリーカードを抜き、レンズを取り外し、タオルでカメラを細い溝まで必死に拭いている。先生濡れたままだよ、と崇史が自分のタオルで小谷野の頭や腕を拭いてやると、ハッとしたように顔を上げた。

「眼鏡までびしょ濡れですよ」

 その指摘に小谷野は照れ隠しのように変な笑い方をしながら、眼鏡を外した。濡れたTシャツを乾かそうと気休めに扇いだり、髪から垂れる雨しずくを拭いたり。見え隠れする素の部分を、生徒の前では先生であろうとする部分が押し殺そうとしていて、崇史にはそれがもどかしい。

 椎野に連絡すると、折りたたみ傘を持っているからここまで来てくれるとのことだった。女子たちもカフェで雨宿り中、二年男子も無事らしい。とりあえず今日は解散して、後日部活で作品発表するということになった。

「みんな大丈夫かな」

「まあ、もう大人だから大丈夫だろ。そう信じてなきゃ生徒に自由行動なんか任せられませんよ」

 私服で二人きりで学校じゃなくても。生徒と先生であるのは何だか寂しい。先生、と呼びかけるのは心地好いが、そう呼んでいるうちはそれ以外の関係はありえないのだろう。

「空から雨が降ってくるところって撮れないんですかね。カメラが濡れちゃうからダメかな」

「なかなか難しいね。背景が暗くないと雨は写らないから、空に向けるのは……逆に高いところから雨が落ちていく様子を撮るとか。あとは何かが雨に濡れて雫が垂れている様子とか、道や水面に雨が当たって飛沫が跳ねてる様子を撮るのも、雨の表現としてわかりやすいかな」

「あー、なるほど。直接そのものを撮るんじゃなくてもいいんですね」

 あれもいいんじゃない、と小谷野が指した先には、軒先から滴る雨粒が見える。崇史が自分のカメラで撮ろうとすると、シャッター速度を遅くしたほうがいいよと設定してくれた。

 カメラのことになると少し前のめりになる。教室の教壇に立っている時とは違う顔。さらにもう少し先の顔を見たい。そのためのタイミングを、シャッターチャンスを崇史は待ち構えている。

 しばらくして、売店で買ったビニール傘を手にした椎野がやってきた。すっかり濡れた崇史たちの姿を見て、着替えも必要だったねと。

「売り切れちゃってて、一本しか買えなかった。今朝の天気予報で、ゲリラ豪雨に注意って言ってたのに」

 少し呆れたような顔をする椎野に、悪いね、と小谷野は傘代を払う。少し多かったようで、椎野が返そうとすると、お駄賃にとっておきなさいと制した。

「おつかいしてくれたからね。ジュースでも買いなさい。他の生徒には内緒だよ」

 そのやりとりを見て崇史の胸は雲で陰った。自分だけをえこひいきして欲しいのではなく、他の生徒にも同じように優しい先生でいて欲しいのだけど。嫉妬するようなことでもないのに感情を抑えられない自分に腹が立つ。

 椎野はもう少し博物館を見て回りたいらしく、そこで別れた。

「光村って家どこだっけ?」

 小谷野に訊かれて駅名を答えると、結構遠いねと難しい顔をされた。こんなに濡れててタクシーもなあ……、と小谷野は頭を捻る。

「とりあえずうちに来なさい。着替え貸してあげるから。そのままじゃ風邪ひくだろ」

 駅までビニール傘に身を寄せあって歩く。片手でカメラバッグを抱きかかえ、片手で傘を持つ小谷野の手から、僕が持ちますと崇史は傘を奪う。俺の方が年上だからと傘を取ろうとする小谷野の手をかわし、傘の柄をぎゅっと握った。庇護されるだけの立場ではなく、背伸びをしてでも対等になりたい。先生にとってはたくさんいる受け持ちの生徒の内の一人に過ぎないとわかっている。でも今は生徒じゃなくて、ただ一人の人間として見て欲しいのだ。

 崇史が電車のドアにもたれかかり、雨粒が打ちつける窓の外をぼんやり眺めていると、視線を感じた。こっち見てるって、ガラスに映ってますよ。そう言って振り返るのは容易いが、今はこの瞬間を楽しみたかった。見てる。撮りたがってる。その視線を感じるのが心地好い。

「残念だったね。写真、あんまり撮れなくて」

「また来ます。次は蓮の季節にでも」

「蓮の花は朝早くじゃないと撮れないよ。光村に早起きが出来るかなあ」

「出来ますよ。僕、遅刻したことなんか一度もないですよ」

 そうだったね、と小谷野が笑う。電車の冷房が寒くて崇史はくしゃみをした。

 乗り換え駅のホームでちょっと待ってて、と小谷野が売店へ向かう。買ってきたのは折り畳み傘と温かいお茶。払います、と言ったがやはりお金は受け取ってもらえなかった。大人ってずるい。早く大人になりたい。崇史は手渡されたペットボトルをぎゅっと握りしめた。


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