運命なんて、明日には消える

小林小鳩

#01

 春の教室は未来の話で埋め尽くされている。

 目の前で繰り広げられる興味を持てない話を入れるスペースが、頭の中に残っていない。面倒や退屈が増殖し続ける頭の中に、ストロボライトのように明滅する光。それが何かを思い出せそうで思い出せず、光村崇史はシャツの袖のボタンを親指でいじりながら時間を潰している。

「十代の時に好きだったものは、一生好きなものです。これだと思える、自分を前へ走らせてくれるような大好きなものを見つけて下さい」

 この四月、二年生の時と同じく担任になった小谷野先生は、最初のホームルームの挨拶でそんな話をした。

「学校は勉強だけをする場所ではありません。君達は受験がない分、好きなことをのびのびやれるチャンスです。最後の一年を最高の一年にしましょう」

 大人の在り来たりの言葉はもう聞き飽きている。先生が思ってるほど、ここにいるみんなは純粋じゃないだろう。親や先生の言うことが全部真実で、その真偽を確かめずに全てを信じて抗わないなんて、ありえない。もうそんな年でもないのに、大人はまだ自分の影響力を信じてる。馬鹿みたいだ。崇史の目にはそんな風に写っている。

 その小谷野先生と他に誰もいない放課後の教室で、机二つ分を挟んで向かい合わせに座っている。こうやって二人きりで話すチャンスを、崇史はずっと待っていた。彼の眼鏡のレンズには自分の姿が映っているが、彼の目には本当に自分が映っているのだろうか。

「うん、去年までの成績は問題ないし、このまま頑張れば進路調査票の希望通りの学部に進めるよ」

 小谷野は、数日前に提出した進路調査票やファイルに目を落としたまま話を進めていて、なかなか崇史を真正面から見ようとしない。どうしたらあの時のように、振り向かせられるのだろう。こういった畏まった雰囲気は苦手なので、早く終わって欲しくてそわそわと落ち着かない。窓の外では強い風がわずかに残った桜の花を奪い去るように散らしている。遠くから聞こえる吹奏楽部や運動部の練習の音。何もかもがまぶしすぎて、今の自分には不相応だと思う。

 進路希望票のプリントを埋めるのは、そう難しいことではない。だけどそこに書かれている言葉は全て「こう書けば親や教師が文句を言わない平均点の回答」で、何の意味も持たない記号で埋めているのと同じだ。そこに本心は一つもない。書くべき本心を持っていないのだから。夢や希望なんて綺麗事に騙されるほど、もう子供じゃないのに。しかし自分と同じだと思っていた同級生たちが、今まで一言も口にしていなかったような将来の展望を語り、空欄を鮮やかに埋めていく。その様子を見て、崇史だって何も感じていないわけではないのだ。

「第一志望が経済学部、第二志望が商学部、第三志望が文学部だね。あと、これは大事なことなんで聞いておきたいんだけど。光村は将来的にこういう方向に進みたい、こういう仕事をしたいっていうのはあるのかな」

「……会社員になれればいいかと」

 小谷野は少し呆れたような半笑いのような表情を浮かべる。そのリアクションは予想通りだ。

「なんとなく決めたとか友達と同じとこでいいやとか、それで入った学部がやっぱり自分に合ってなかったって、中退する学生が毎年いますから。自分の将来なんだから、自分でよく考えて決めないと。重要ですよ」

 そんなことくらい、わかってるんだけど。崇史は正しい答えを取り繕う気力もなく、はい、と単純な返事をして頷く。

「好きなものは、なにかな?」

 崇史は膝の上に乗せた手を、ぎゅうと握る。こういう質問は嫌いなんだ。

「将来就きたい仕事に就けるかどうかなんて、まだわからないじゃないですか。大体何が自分に向いてるのかとか、そんなの……」

 そんなのわからない。好きなものなんて、まだこの年齢で決められるはずない。そう言いかけて、口をつぐんだ。

 崇史が通うこの高校は私立大学の付属高校で、問題が無ければ八割の生徒が大学部へそのまま進学出来る。大学受験をしなくて済むし、同じ中学の友達が行きたいと言うから。そういう理由で選んだ。

 それなりの進学校でもあるがスポーツ強豪校として有名で、それを目当てに全国からスポーツ推薦で生徒が集まる。今も同じクラスの友達の平井は中学の頃から吹奏楽部で、ここの吹奏楽部は強いからとずっと進学を目標にしていた。運動部と同じくかなり厳しいらしく、いつも部活ばかりで、あまり遊べなくなってしまった。全国制覇したいとかプロになりたいとか、好きなものや目標がはっきりしている同い年の人間が、ここにはたくさんいる。言い訳にはならない。

 とりあえず良い学校に進学しておけば、選択肢が広がって、自分にもその内何か見つかるんじゃないかと思っていた。何も変わらないまま三年生になってしまった。取るに足らない人間であることは、とても心地が良かった。誰も自分に注目しないことは、面倒事に巻き込まれず苦労も困難も知らずに生きられるから。そんな呑気な時間はもう終わりだと急に言われても困る。何も持っていない、でもそれを見抜かれたくない。

 息を整えてから、崇史は小谷野をまっすぐ見据えて口を開いた。

「好きなことをしなさいって大人はみんな言いますけど。本当に好きなことをやったら大人は怒りますよね。子供だ甘えだって、妥協して他の大人の望むことを選べば、大人の仲間として認めてやるみたいな……。それでは、大人の言うことに従う以外、何にも選べません」

 いつもは大人しい崇史には珍しく厳しい言葉に少々面食らったのか、小谷野は思わず顔を上げる。ようやく目が合った。

「そうだね。光村の言うことにも一理あると思うよ。だけど、自分の将来の選択に責任を持たなくていいわけじゃないです。自分が選んだ人生の方が、後悔はないはずです」

 今したいのはそういう話じゃないんですよ。そう苛つきながらも、崇史は小谷野から目を離さない。丸まっていた背筋がだんだんと伸びていく。ぶらつかせていた足元を、しっかりと床につける。

「じゃあ先生の好きなものって、なんですか?」

 こういう質問って、大人は嫌いだろう。揚げ足取りとかへりくつとか、なんでも言えばいい。怒られる覚悟は出来てる。

「だって、好きなものがあってそれに向かって頑張れとか言うなら、先生はどうだったんですか。高校生の頃から今の未来を予測してたんですか」

 小谷野はちらりと壁の時計を見てから口を開いた。

「先生はねえ……高校生の時は写真をやっていて、コンテストの学生部門で入賞したし、写真の雑誌にも載りました。でも大学に入ってから思うように撮れなくなってしまって。もっと上手い人に出会ったり……その人は今はプロとして活躍してます。先生には写真で食べていく技量も覚悟もないなと。写真は今も好きですし、写真部の顧問もしてます。好きなものは心を豊かにしてくれます」

 予想外に正直すぎる答えに崇史は一瞬怯んだ。なんだよ、もっと打ち返しやすい球を投げて来いよ。

「好きなものが見つからなかったら、どうしてくれるんですか。先生だって努力しても駄目だったわけでしょう。見つかってもどうせ叶わないで無駄に終わるんですよ。将来に期待だけさせておいて、夢を掴めとか煽って。そんなの無責任じゃないですか」

 こんな風な言い方しなくても。頭ではわかっているのに、なんだかいらいらしておさまらなくて。この舌はいつも正しくない言葉ばかりを吐き出していく。言いたいはずの言葉はずっと喉に引っかかったまま。

「無駄じゃないよ」

 小谷野はいつもより少し低い声で言い放つ。

「俺には、無駄じゃなかった。あの時出来ることは全てやったつもりだから、後悔はないよ」

 その言葉に、頭が急に醒めた。子供を諭すような言い方じゃない。先生という衣を脱ぎ捨てた、素の小谷野を垣間見たような気がした。

「学校だけが君の人生じゃありませんから。学校が全てだと、卒業した時に何もなくなっちゃいますよ。大学生活を、自分の芯となるものを探すための時間と考えてもいいですね。その為にこれから一緒に考えていきましょう。迷う時間はまだあります」

 また先生に戻ってしまった。さっきまで正面から向き合っていた顔も逸らされた。

「あ、十五分経ちましたね。じゃあ、進路指導はこれで終わりにしましょう。帰る時に次の人に声をかけてくださいね」

 崇史はスクールバッグを持って立ち上がると、ずっと小谷野に言えないでいた言葉を、ついに口にした。頭の中で明滅する光の正体を掴むための言葉。

「……先生、僕の写真撮ってましたよね」

 今度は小谷野が口ごもる番だった。

「去年の文化祭の日、旧校舎の螺旋階段のとこで。あの写真、どうしましたか」

 撮ってないなんて言わせない。だって、目が合った。

 小谷野は一呼吸おいてから、いつも通りの表情いつも通りの口調で言う。

「写真部と先生が文化祭期間中に撮った写真は、終わった後に全て展示して販売するって、ホームルームでお知らせしましたよ」

「それ、頂けますか」

「いいですよ、モデル料としてタダであげます。明後日の木曜、写真部の部室へ来てください。毎週木曜日が写真部の活動日ですから」

 捕らえようと待ち構えていた瞬間が、ようやく来た。崇史はその手応えを感じながら、教室を後にした。




 旧校舎の螺旋階段を上がっている最中に、ふと顔を上げた瞬間、ファインダー越しに目が合った。世界の全てを変えてしまうスイッチのように、シャッターボタンを押されて、魂が抜かれてしまったんだと思った。

 あれは去年の秋の文化祭の日、崇史は友達に呼ばれて待ち合わせ場所へ向かう途中だった。階段を降りてくる揃いの衣装を着て風船を持った女の子たちの人波に押されながら、視線を感じて顔を上げると、写真を撮られていることに気づいた。階段を上りきったところでカメラを構えていたのは担任の小谷野で、お互い特に話すこともなくそのまますれ違ってしまった。

 あの時は、何かがわかりそうだった。靄のように自分を包み込む気怠さの中で一瞬光った稲妻。そんな瞬間。ゆるがない何か。それを早く手に入れたいと願いながらも、何を見てもこんなんじゃないと思う。自分の身体を貫くようなそれまでの人生を粉々にしてしまうような、身が震えるような強い力を持つ何かに出会うのを待っている。




 進路指導を終えて社会科教員室へ戻ると、小谷野浩介は思わずネクタイを緩めた。変に喉が渇いている。子供は子供にしかない鮮やかな嗅覚で、大人の嘘や欺瞞を見破るから怖い。自分も持っていたはずのその感覚は、岩が川を下る過程で削られるごとく丸くなって、使い物にならなくなってしまった。エスカレーター校なのだから進路指導もさほど大変ではないはずなのだが、初めての三年生の担任で勝手がよく分からない。そこへきて、あれだ。光村が写真のことを覚えていたことに、背筋が凍った。しかしいずれこんな日が来ることを、わかっていたようにも思う。自ら押したシャッターが全ての引き金となっているのだから。

 思春期特有の溌剌さとも物憂いとも無縁な生徒は、別に珍しくない。だけど少し臆してしまう。淡い赤に染まった涙袋が白い肌に対比されて目立つ、アーモンド型の目。大人の言うことの裏側を見破ってやろうと凝らすような目。案外本人は無自覚だったりするのだけれど。あまりじっと見ないで欲しい、と思いながらもその視線が嫌いでもない。担任するクラス四十人の、受け持ちの生徒ならもっと大勢の中の一人。光村崇史は、去年の文化祭の日までは特に気に留めるような生徒ではなかったはずだった。

 だけどあの瞬間、シャッターを切らずにはいられなかった。撮らなければならない光景だと直感が押させた。そんな衝動はあまりにも遠く、小谷野が自身の才能を見限った頃から長らく離れていたものだった。小谷野自身、あの感覚を再び手にしたいと思っている。これがそのチャンスなのではないか。とはいえ、地獄を見るような気持ちでもあるのだ。おそらく簡単には手に入れさせてもらえない幸福だろう。

 パソコンの中の「文化祭」フォルダから、例の写真を開く。単純に構図として面白いんじゃないかと思い、薄暗い旧校舎の螺旋階段を見下ろす形でカメラを構えていた。俯いたままゆっくり階段を上がってくる一人の少年と、今にも弾けそうな生命力を全身で発しながら駆け下りていく女の子たち。モチーフとしていい対比だとシャッターを連続して切った。振り返って彼女たちを見て、また俯いて、ふと顔を上げる。ファインダー越しに目が合ったその少年の眼差しは、二度と取り戻せないと思っていた感覚を甦らせるのに十分だった。

 小谷野は今の自分が撮る写真が、小手先の技術でそれなりに見栄えのする程度のものだと自覚している。目の前に広がる世界の一瞬も見逃したくない気持ちで撮っていた学生の頃には、もう戻れない。だけど、あの瞬間は違った。裏切られるのではと思いながらも、それに縋りつきたい。

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