#03
一日四枚撮ればいいなら楽勝だ、と思ったのは間違いだった。崇史は早速後悔している。何を撮ってもいいと言われたけれど、何でもいいが一番困る。先生の後ろ姿、駅のホームに入ってくる電車。さっきシャッターを押したそれらは正解だったのだろうか。いざ写真を撮ろうと思うと、撮るべきものが一体何なのかがわからない。どれが大事でどれが無意味なのか、目に入るもの全てをジャッジし続ける。
家に帰ってとりあえず冷蔵庫の中を見ていると、甥っ子たちが「たかちゃん、あそんでー」と崇史にまとわりついてきた。ポケットから使い捨てカメラを取り出し、五歳児を筆頭とした長兄の子供たち三人に向けると、全員が笑顔でピースサインをした。
「そういう写真を撮りたいんじゃないの」
崇史の言葉に、えーなんでーと甥っ子たちは不満を漏らす。絵になるようなものなんて、撮るべきものなんてここにはないのかも。崇史は遊んでの声を無視して、麦茶を注いだコップを持って自室へ向かった。
居間の床に散乱した玩具、点けっぱなしで誰も見ていないテレビ。部屋の隅で畳まれるのを待っている洗濯物の山。冷蔵庫には安売りのジュースで作ったゼリー。崇史は自分の家族と生活環境が、子供の頃からあまり好きではない。四人きょうだいの歳の離れた末っ子で、祖父母と同居している。崇史が高校に上がる頃に二世帯住宅に建て替え、今は長兄一家の子供たちの面倒も見ている。ただでさえ人数が多いのに、その中での自分のポジションは常に限りなく低い。長兄長姉の子供の頃の写真は充実していて、一歳のお誕生日で一冊目を終えているのに対し、崇史のアルバムは一冊目にして小学校の卒業式まで迎えている。その上、二冊目が見つからない。甥っ子たちが生まれてからは、子供たちというくくりに一回り違う崇史も含まれている。なかなかプライドが許しがたい。朝から晩まで騒々しくてなかなか気が休まらない家。二階の自室だけが大事なテリトリーだ。
ベッドに寝転んだままスクールバッグに手を伸ばし、小谷野に貰った写真を取り出す。退屈や気怠さを一瞬にして燃やし尽くすような、何か。あの瞬間に感じたものをもう一度手に入れられるんじゃないかと思ったのだけれど、結局思い出せそうで思い出せないままだった。
いつもお下がりばかりで玩具も洋服も何かを選ぶ余地などなかった。何でも与えられてきたけど、本当に欲しいものじゃなかった。何があっても絶対に誰にも渡したくない、他のものじゃ代わりがきかないもの。小谷野に写真を撮られて、目が合ったあの瞬間。崇史は、ずっと望んでいたものに出会えたという手応えがあった。
窓の外を見ると、隣の家の二階の窓辺で猫が寝ている。その姿を収めて、まだあと一枚ノルマが残ってると溜息をついた。このフィルムが一本終わる頃には、あの衝動を手に入れるための手段が見つかるのだろうか。
連休もあるしなんとかなるだろうと思っていたが、依然フィルムの減り方は遅々としている。もう火曜日なのにまだ三分の一残っている。やっぱり休みの日にどこかへ行って撮るべきだった、と崇史は後悔している。面倒がって寝て過ごすんじゃなかった。庭で遊ぶ子供達も撮った、公園にある金属のモニュメントも撮った、義姉が子供達を喜ばそうと作った段重ねのパンケーキも撮った。平井がトロンボーンを吹く姿も撮らせてもらった。崇史にはもう撮るべき瞬間が見つけられない。悔しい。子供の頃から大抵のことは平均以上に出来たから、誰かに自分の存在を脅かされる恐怖や劣等感をあまり感じたことはなかった。写真部の人たちにこんなことも出来ないのと思われるだろうか。それ以上に小谷野に会わせる顔がなくなる。
重い足取りで崇史が学校から帰ると、ベランダで義姉がこいのぼりをポールから外そうとしている。まだ撮っていなかったな、とカメラを構えシャッターを押すタイミングを探していると、さっきから吹いていた強風が義姉の手からこいのぼりを奪っていった。あっ、と驚く声は音にならず、崇史はただ夢中でシャッターを何度も切った。フィルムを巻く間が勿体無い。この瞬間にも逃げて行ってしまう。澄んだ青空にふよふよと舞い上がる真っ赤なこいのぼり。住宅街の家々を避けるようにくるりと身を翻す。もっと、もっと大きく寄せて撮らなきゃ。こいのぼりを追いかけながらポケットの中のスマホを取り出し、ズームを最大にして撮った。カメラなんかいらない、もどかしい。まばたきでシャッターが押せればいいのに。
こいのぼりは家から少し先の路地に不時着していた。もっと長い距離を走っていたつもりだったのに。なんだよこれ、と笑いながらカメラを構えると、もうシャッターは押せなかった。気が付けばフィルムは全部終わっていた。
こいのぼりを小脇に抱えて家に向かいながら、先生はこういう気持ちで僕を撮ったのだろうかと崇史は考えていた。
そして木曜日。街の写真屋で現像してもらった写真を、写真部の部員たちに見せる日がとうとう来た。まず新入部員の一年女子たちが発表した写真は、サッカー部の練習風景を撮ったものばかりだった。どうやら彼女たちは強豪サッカー部のファンのようだ。何人かの特定の部員に追っかけのような女子が付いているのは、周知の事実だ。なるほど写真部の撮影だという理由があれば、正々堂々と写真が撮れる。事実彼女たちが被写体にしているのも、女子に人気がある部員たちだけだ。
「スポーツ写真はシャッターチャンスに恵まれているからね。動きが多いから難しいけど、取り続けている内に慣れてくると思うから。逆光の方が被写体が綺麗に写るんだけど、レンズに光が入らないよう撮る方は日陰に入って」
小谷野は彼女たちの動機は問わず、一人一人に光の向きや構図についてアドバイスを与える。
そして崇史の番。撮った何枚かは手ブレを起こしていて、肝心のこいのぼりの写真もほとんどピンボケしていた。
「現像するまでどんな風に映ってるのかわからないのが、フィルムの欠点だけど魅力だから」
部員たちは崇史の失敗を予想外にあたたかく受け入れてくれた。
「でも凄いシャッターチャンスだったね」
椎野がこいのぼりの写真を指して言い、他のみんなも口々にピンボケして勿体なかったねと慰めてくれた。実は、と崇史はもう一つ写真が入った袋をみんなの前に差し出した。
「こっちはスマホで撮った方。フィルムじゃないから、反則かと思って」
屋根を越えて空を漂うこいのぼりを画面の真ん中に配置した写真は、みんなに好評だった。
「絶対撮るべきだったよ。機転が利いたね」
小谷野からそう言ってもらえたのが、崇史は何よりも嬉しかった。身の回りを撮った写真も、こんなもの撮って意味がないと言うものはおらず、ほっとした。
「特別な日は写真に撮らなくても覚えてるけど、なんでもない日のことは忘れちゃうから。残しておけば、あとで自分はこんな毎日を過ごしてたんだな、こういうものに心を動かされてたんだなって思い出せる。自分を作っているそういう瞬間のために写真はあるんだよ」
いかにも先生というような、もっともらしいことを言うなあ。先生の素の部分を引き出したい、と崇史は思う。またあの先生に、先生じゃない小谷野浩介の部分に会いたい。
「こんなのいつの間に撮ったの」
自身の後ろ姿を捕らえた写真を見て、小谷野は苦笑いしていた。
仕返しだよ、と崇史は心の中でつぶやいた。
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