#04
薄暗い教室の窓から、雲の流れる様子を見ていた。朝から降っていた弱い雨は五時間目には止んだ。机の隅に置かれたスマホの画面がいやにまぶしい。崇史はメッセージを確認した後、机の脇に掛けてあるスクールバッグにスマホを放り込む。もう教室には他に誰も残っていない。だけど目の前の空欄を埋めるまでは、ここから立ち上がれない。たかが日直の日誌の「今日の感想」を書くだけなのに、何の単語も思いつかなくて嫌になる。いつもなら如何にもそれっぽい言葉を並べてお終いにしてしまうのに。小谷野が読むのを意識してしまうと、どうにも真面目を装うのも本音を吐くのも、恥ずかしい。他の人たちは一体何を書いているんだろうと、ページを遡っていると。背後で小さくシャッター音が聞こえた気がした。崇史が振り返ると、思った通り小谷野がいた。
「……今、撮ったでしょう」
「こないだ盗み撮りされたからな」
小谷野は授業中と同じにこやかな表情で、崇史の席に近づいてきた。
「今日は木曜日だからね。みんなで校内を撮って回ってんの」
それを聞いて崇史は、ああーっと頭を抱えるようにして机に伏せた。そうだった、部活だった。ほとんど大したものは撮れていないけれど、一応出た方が良いとは思っていたのだ。
「用事がある時や気が乗らない時は来なくても大丈夫だよ。撮りたい物がないのに撮らなきゃ、と思うと楽しくないから」
あとで椎野たちになんて言い訳しようかな、と考えるけれど、何か撮ったものを持って行った方が彼らは納得してくれる気がする。その方が誠実だ。彼らはつまらない言葉よりも写真を信じている。
「日誌書けた?」
今日の感想の欄で詰まっているのを見て、小谷野は前の席に腰掛けた。
「何でもいいんだよ、適当に今日あったこと何でも。体育の授業で何やって疲れたー、とか」
何でもって言われても、わからない。大人は自分の問題じゃないからそうやって簡単に言うんだ。
「さっき撮ったの見せてください」
小谷野の手から一眼レフのデジタルカメラを受け取ると予想以上に重い。小さなモニタに映し出される写真に目を凝らす。
頬杖をついて窓の外をぼんやり見ている崇史の後ろ姿。他にも、昇降口で話し合うカップルらしい男女や、教室のカーテンにくるまってひそひそ話をする女の子たち。廊下でジャンプをして、天井に手が届くかチャレンジしている男の子たち。後ろ姿や光の加減でそれぞれの顔を確認することはできないが、校内でよく見る何気ない風景ばかりなのに。水色がだんだんと薄紫に変わっていく淡い色調に包まれて、ここではないどこか別の場所の物語を見ているようだ。自分もその世界の住人になっていることが不思議に思える。今ここにある自分と地続きのはずなのに。
「今度はもっと大きな写真で見たいです」
ありがとう、とにっこり笑う小谷野にカメラを返す。
「さっき、窓の外ずっと見てたじゃん。何見てたの」
「……空。また雨降るのかなって」
「そういうこと書けばいいんじゃない?」
「なんかあまりにもぼんやりしてるから、それを文章にするにしても何にも思いつかないのでやめときます」
「……写真に撮った方が早いかもねえ」
「そうですね」
小谷野は立ち上がって窓辺へ寄り、空の写真を何枚か撮影した。
「空を定点観察して撮るのも面白いよ。毎日違うから。カメラはその瞬間にしかないものを永遠に保存するための機械だからね」
そう言われると、ただぼんやり眺めていた風景も撮るべき被写体のように思えてくるから不思議だ。
「書けたら机の上に置いておいてくれればいいからね。暗くならない内に帰りなさい」
教室を出て行こうとする小谷野の後ろ姿を見て、何かが崇史の胸の奥を突き上げた。小谷野のシャツを掴んで引き留めたい。まばたきするごとに遠ざかってしまうから、早く、早くしないと。
「先生」
崇史が呼ぶ声に、何? と足を止めて振り向いた。
何か言わないと、このまま行ってしまう。何でもいいから。胸の中に転がっている言葉の一つを掴んで放り投げた。
「先生、好きなんですけど」
言ってしまった。自分でも驚くほどにその言葉が簡単に出た。アイスクリーム食べたいとかもう眠いとか言うのと同じくらい滑らかに、舌からこぼれた。
次にどうしたらいいかも思いつかない。教室の中が真空になったような感覚。そんな崇史をよそに、小谷野は表情一つ変えないでいる。
「好きは、そういう意味での好き?」
「そうです。だって、それ以外に何があるっていうんですか」
「そういう気持ちはね、麻疹みたいなもんで……同級生にはいない感じの人だってだけで憧れて恋だと勘違いしてるんだよ。今は毎日会ってるから好きって気分に浸れてるだけで、卒業して会わなくなれば俺のことなんか忘れて、すぐにどうでもよくなるよ。そういえばそんな奴いたなって」
違う、と反論したいのに今度は言葉が出てこない。手探りで言葉を探すが、何も掴めない。この気持ちはそういうのじゃなくて。崇史が言いかけた言葉を遮るように、バッグの中のスマホが振動する。
「ほら、友達が呼んでるよ。ていうかさ、校内で携帯電話の使用は禁止だからな」
手の届かない大人の顔で笑いかける小谷野のシャツの裾を、立ち上がって今度こそ掴んだ。
「先生と生徒じゃなかったら、応えてくれた?」
「……どうかな」
崇史がシャツを掴む手を離すと、気をつけて帰りなさいと言って小谷野は教室を出て行った。手の中は空っぽで、ただ立ち尽くすほかない。
こんなつもりじゃなかったんだけどな。バッグの中からスマホを取り出して、崇史も同じように空の写真を撮影した。夕陽が空を染めているけれど、どんよりとした雲は払われない。
先生、さようなら、とすれ違う生徒から笑いの混ざった声をかけられる。スカートを翻しながら小谷野の横を駆けていく女子生徒たち。廊下を走るなー、と教師の義務として呼びかけるが、彼女たちの耳には入らないだろう。生きて感じている一瞬一秒全てが青春で、いずれ簡単に消え去ることを疑わない。彼ら彼女らにとっては今の、小谷野自身にとっては既に過ぎ去った時間を、学校という場所にいる限りほぼ永遠に近い形で何度も繰り返し見ている。二度と取り戻せない何かを懸命に掬い上げるような気持ちで、小谷野は彼らの一瞬にフォーカスを合わせシャッターを切り、写真という永遠の世界に閉じ込めている。
水に垂らしたインクが消えて無くなってしまうような、もしくはその水の色全てをインクの色に染めてしまうような。脆さと鋭さの間で揺れている、そんな魅力はきっとここから卒業したら瞬く間に消え去ってしまうのだろう。だからこそ今の光村崇史を撮りたい。
だがそれは、写真を撮る人間としての欲望だ。彼と自分はあくまで生徒と先生。倫理や常識に反するようなことをしてはいけない。そう思うからこそ、崇史から浴びせられた言葉が棘のように小谷野の胸に刺さっている。
どうして言葉を濁してしまったのかわからない。見込みはないとはっきりと断れば良かったんだ。それが出来なかったのは、どこかで期待しているせいかもしれない。彼が持っている何か、その力でこの均衡を壊してくれることを。しかしそれを抑えるのが仕事なのだ。
彼が生徒で本当に良かった、と小谷野は安堵する。そうでなければきっと自分のものにしたくて、欲望や感情を抑えきれずに悶えていただろう。先生と生徒、大人と子供という絶対に揺らがない社会的立場があるおかげで、関係が保たれている。写真部の顧問という大義名分のもとに彼を写真に撮ることを許されている。モデルに必要以上に感情移入して踏み込むことは避けるべきだ。
期待をしてもいけないし、期待を持たせるのもいけないことだとわかっているのに。
先生、と後ろから声をかけられ、小谷野はハッとして振り返った。
「良いの撮れましたか?」
椎野がカメラを掲げている。十七時の下校のチャイムが鳴るまで校内を回って自由に撮るという課題を出していた。
「まあ、何枚か。そっちは?」
「現像するのが、ていうかみんなに見せるのが楽しみなのが撮れましたよ」
写真を撮ることを純粋に楽しんでいる椎野の笑顔に、高校生の頃の自身の姿を重ねる。
「……部活のみんなだけじゃなくて、三好たちみたいにコンテストには出さないの?」
「俺は別にいいかなあって思って。出したいって思うようなのが撮れたら考えます」
そっか、と見守るような気持ちでいたところに、突然投げかけられた。
「先生はコンテストとか出さないんですか? 一般の部で」
油断していたところに直球をぶつけられた。避けられた球なのに自ら当たりに行ってしまった。別に、などど椎野の返事に似たようなことを言ってその場をやり過ごす。光村に同じことを訊かれたら、なんて答えただろうか。自分の発する言葉のどれが本心からの言葉なのか、小谷野自身にもわからない。
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