#23

 いらっしゃい、とドアが開けられた瞬間から、部屋の空気が緊張感と呼ぶ他ない色に染まっていた。いや、この部屋に来る前からそれは始まっていたのだ。小谷野の声は至って平坦で、それが余計に淡い畏れを感じさせる。靴を脱ぐのもどこかためらってしまう。でも言い出したのは崇史の方で、そうして欲しいのも本当。今日じゃなくても、いつかはそうなる運命だったようにも思える。床の上を一歩一歩踏むごとに、鼓動が大きくなる。

 小谷野の部屋は、以前訪れた時とは雰囲気が変わっていた。窓辺のベッドの反対側に置かれていたパソコンデスクが移動され、斜光が当たる部屋の隅には、天井から床へシーツと思われる白い布がかけられている。床にも布は敷かれ、以前の撮影のような気楽なものではないようだ。

「ホリゾントの代わりとまではいかないけれど、撮影用の背景としては十分かと思って」

 小谷野は既にカメラと三脚をセッティング済みだ。まだ準備が出来ていないのは、崇史だけ。

「何か飲む?」

「……今はいいです」

「自分のタイミングで始めていいからね」

 小谷野の口調は優しく、それが余計に緊張の糸を強く張らせる。こめかみから滲み出た汗が顎を伝って流れ落ちる。喉が胸が苦しい。崇史は床に座り込んで、自分のバッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。少し口をつける程度のつもりだったのに、つい一気に飲み干してしまった。

 崇史の気持ちが固まるのを、小谷野はベッドに座って待ってくれている。リラックスさせるためか、傍らのテーブルに置かれたポータブルスピーカーからは、歌のない音楽が小さなボリュームで流れている。今までは崇史の方から、小谷野の気持ちを煽っていたのに。焦るな、今まで通りにすればいいだけ。して欲しいことをしてもらえばいいだけ。気を使わせまいと雑誌をめくる彼の足に、崇史は自身の足を押し付けた。

「脱がせて」

 崇史の望みに、小谷野はただ黙って答える。片足ずつゆっくりと……靴下一つに丁寧すぎるほどの仕草で脱がせていく。足首を掴む手の感触。小谷野の指が足の甲を、指の付け根の柔らかな部分をなぞる。その度に、劣情と清らかさがないまぜになったような感情が呼び起こされる。一本線を引くように、爪の先が足の裏をゆっくりとなぞっていく。思わずびくんと足先を反り返らせた。これ以上触られたら、でももっと触って。そのギリギリのところで、脱ぎ終えてしまう。

 そしてベルトのバックルが外され、パンツのボタンに手がかかる。あまり触れないで欲しくて、崇史はぐっと身を縮める。その下には別の緊張が潜んでいるから、どうか見つけないで欲しい。細身のアンクルパンツはやはりすぐに剥ぎ取られることなく、少しずつ時間をかけて下ろされる。手のひらが太腿を優しく滑っていく。この触れ方は、意図していない訳がない。膝裏を指の先で撫で回され、また反応してしまいそう。荒くなる呼吸を必死に抑える。

 下半身はボクサーパンツ一枚を残し、小谷野の指はシャツのボタンにかかる。顔の近さに居た堪れなくなって、崇史は目を伏せる。まるで壊れ物を扱うかのように優しく、また一つと外されていく。他人用に装っている自分が薄紙を剥がすように少しずつ取り払われ、本心が剥き出しにされてしまう。彼の前ではもう隠し事は出来ない。身体を支える腕が、足が小さく震える。Tシャツと下着姿になったところで、手が止まった。

「ここから先は、自分で脱ぐんだよ」

 突然放り出されたような気分になってしまった。もっと、と願っているのに身体は言うことを聞かない。この荒い呼吸でなにもかも見透かされている。ぐったりと床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。

「シャワー浴びてきていい?」

 いいよ、という小谷野の返事を待たずに崇史は浴室へ向かった。身体中汗まみれなのは、気温のせいだけじゃない。熱くなった顔を冷たい水で洗い流す。息を整えようとしても、上手く整わない。

 やめたい、と言えばおそらく小谷野は受け入れてくれるだろう。でもやめたいわけじゃないのだ。浴室の鏡に映る自分と向き合い、初めてこの部屋に来た日のことを思い出す。あの時感じた、もっと奥まで見て欲しいという願望。彼の作品になりたいという欲望。彼に愛されにここへ来たのだ。

 一瞬迷ったが、元の通り下着姿で部屋に戻った。崇史は白い布の上にぺたんと座り、あの日と同じ口調で言った。

「……撮っていいよ」

 薄暗い雨の日とは違う。今日は、まぶしい光を受けている。シャッターを切られる度に、身体中を締め付けていた緊張が少しずつ解けていく。

 いつもはポーズの指示を出してくれる小谷野が、何の言葉も発さないので、崇史は戸惑いながら自分でポーズを作る。振り返ったり、腕を動かしたり。撮られているし、撮らせている。まるで焦らすように、シャッターを押す間が長い。カメラに背を向けたショットを何枚か撮っている間に、崇史はTシャツを脱いで上半身を晒した。服ではない別の何かも脱ぎ捨てているように思える。自分自身のことは自分が一番よくわかってると思っていた。でも、自分ですら見たことがない身体の一部分を隅々まで見られて撮られている。緊張で強張っていた身体とともに胸のあたりもだんだんと緩んで、解放感で満たされていく。あんなに激しかった鼓動が、呼吸が均され、平坦になっていく。目の前の真っ白な布のように。

 それから、そっと下着に手をかけ、まだ見せたことのない肌を露わにする。これで二人の間にはカメラ以外遮るものがなくなった。

 視線が柔らかな部分をなぞっていく。首筋から背骨へ、ゆっくりと辿られる。もっとよく見て。もっとこの身体を思いのままにして。さっき触れられた手の感触。それが肌の上を這うのを想像する。

 崇史は布が敷かれた床の上にうつ伏せになった。全身を隈なく観察出来るように。ただ、顔を向ける勇気はまだなかった。どんな顔をしたらいいのかわからない。それに自分が思った通りの顔を作れる自信がない。小谷野がどんな顔で自分を見ているのかを確かめるのが怖い。崇史の気持ちとは裏腹に、小谷野はそばに寄りカメラをその肉体へ近付ける。

 カメラのレンズは、崇史の臀部を狙う。まるで谷間の奥まで探るように、柔らかに隆起した部分を丹念に見つめられ、幾度も撮られる。なんでそこばっかり見るの。恥ずかしさに耐えかねて、ぎゅっと目を瞑る。だんだんと皮膚の下に弱い電気が走ったような感覚を覚えてくる。あ、と気持ちが漏れたが、音にはならなかった。こんなにも目で撫で回されるのなら、いっそ触れられた方が……。この肌に今すぐにでも触れて欲しい。思いのままに掴んで弄んで欲しい。緊迫感のせいか、ひくひくと奥が疼いてしまう。なのに小谷野は、崇史の欲望を簡単には満たしてくれないのだ。

 渇望と羞恥に身をよじるように、うずくまったり半分起き上がったり。触って、なんて簡単には言えない。いつもの崇史ならうっかり出来てしまったかもしれないのに。でも不意に触られたりでもしたら、感情とそれ以外のものまで爆発してしまいそうだ。また床にうずくまって、波立ちはじめた心を落ち着かせる。

 シャッターを押す手を止め、小谷野はカメラを置いた。黙ったまま、崇史の髪を撫でる。まるで子供をあやすように、優しくゆっくりと。たったそれだけのことで、凝り固まっていたものがほぐされていく。それから小谷野は白い布を取り出して、崇史の顔を覆った。布越しに頬を撫でられる。大丈夫だよ、とでも言うように。その優しさから次に崇史がすべきことがわかった。

 崇史は起き上がり、カメラの正面を向いた。そうだ、全てを撮って欲しいと願っていたのだ。今までとこれからの時間や言葉を、心を肉体を、全てを捧げたい。

「膝は立てて、腕はこっちに」

 小谷野がいつも通りの口調で、ポーズの指示を出す。どういう写真を撮りたいのか、彼が頭の中で思い描くイメージを体現する。この瞬間を待っていた。目を開けても真っ白で何も見えない。だけど崇史の胸の中には強い閃光が放たれている。早くこの瞬間を、体温や息づかいまでも閉じ込めて、永遠のものにして欲しい。

 それから、顔を覆うシーツを剥ぎ取った。もう隠すものは何もない。ここにあるのは身体と感情だけ。

 まるでキスをしているかのようにゆっくりとしたシャッタースピード。彼が覗くファインダーにこの身体を収めること。これだけが真実。これこそが幸福。

 もっと近付きたい。崇史は床に座る小谷野に近寄り、腿の上へ両足を跨ぐように乗せる。小谷野はカメラを床に置き、崇史をぐっと抱え込んで引き寄せた。二人の間には、もうカメラさえも入り込むことは許されない。

「先生」

 小谷野は顔を寄せ、崇史の耳にそっと唇を近付けて言った。

「ここでは、先生じゃないでしょ」

 吐息交じりの声。柔らかな唇が耳に触れたと思った途端、濡れた舌の先が耳の形をなぞる。思わず声をあげそうになるのを、何とか堪える。小谷野の唇が崇史の耳たぶを軽く喰むと、思わず糸のようにか細い呻き声を漏らしてしまう。

「このまま、して」

 熱い息を漏らしながら、崇史は小谷野の背中に回した腕に力を込める。

 小谷野が膝から降ろそうとするので、崇史は抵抗するように手を伸ばす。小谷野はその手をとり、自分の頬にあてた。

「あのね、おまえが思ってるよりも複雑なんだよ。だから今はまだ、そういう世界のこと知らないでいて欲しいんだ。こういうの、俺のわがままかもしれないけど」

「……して。もう我慢できない」

 切実な声に対して、小谷野は黙ったまま。そして、触れていた崇史の手首から手のひらまでを舌で舐め上げた。濡れた感触に、思わず変な声を出してしまい、崇史は恥ずかしさのあまり目を逸らす。

 そのまま崇史の人差し指を小谷野は自分の口の中に入れて、舌と唇で撫でるように弄ぶ。指の付け根まで含み、ゆっくりとしゃぶる。口の中の粘膜が指に触れる。熱い、その感触が崇史の体温を上げる。中指、薬指と同じように順番に舐められ、小谷野の口の端からこぼれた唾液が、崇史の手を伝って垂れていく。それから指の間、手のひら、手首と舌が這っていく。尖らせた舌先でくすぐられるだけではなく、舌を大きく使って肘から手首までの柔らかい肌を、じわりと舐めあげられる。滑りのある艶かしい生き物が這っていくような、気持ち悪いのか気持ちいいのかわからない奇妙な感覚。指の側面や指の間の柔らかな部分を、小谷野の舌先がゆっくりとなぞる。身体の芯がじわっと疼いて震えた。耐えきれない。さっきまで視線で舐められていたせいで、既に身体はその準備が出来てしまっているのに。

 崇史は片手で床のシーツを掴み、震える膝を押さえつける。うっすらと目を開け小谷野の様子を見るが、至って冷静で表情一つ変えない。指の先を軽く噛まれ、思わずびくっと身体が小さく跳ね上がってしまう。自分を制御できない。もうやめて、その一言が発せない。まだこの快楽に耽っていたいから。

 唾液まみれになった崇史の手を、小谷野はティッシュで丁寧に拭う。

「お手洗い、行く?」

 崇史は声が出せずに、俯いて首を振った。こんなの、ずるいよ。

「コウくんがして……」

 やっとの思いで、絞るような声で答えた。この昂りはもう抑えきれない。その手で、舌で。お願いだから。祈るような思いでぎゅっと小谷野の手を掴むと、今度は反対の手で崇史の頬を撫でる。

「だめ。自分のことは自分でしなさい」

 恥ずかしさのあまりに崇史が顔を上げられずにいると、そうっと頭を撫でられた。その優しさが、余計に恥ずかしい。

「シャワー浴びてきなさい。シーツは洗っておくから」

 崇史はシーツで顔を覆ったまま、浴室へ足早に向かった。

 あんなのずるい。ぐっと唇を噛み締める。まさかあんなことをされるなんて、崇史は思ってもみなかった。まだ知らなかった小谷野の一面を垣間見て驚きもあり、興奮もしている。これからもっと、まだ見ぬ小谷野を知れるのだろうか。教科書には載っていないようなことを教えてくれるのだろうか。身体の火照りをシャワーで洗い流しながら、どんな顔で部屋に戻ったら良いものか、どうやって小谷野に向き合ったら良いのか考えあぐねていると、ドアをノックされた。

「ちょっと外出てくるから。すぐ戻ってくる」

 気まずさを多少回避できたので、正直ほっとした。これも大人の気遣いだろうか。

 崇史が部屋に戻ると、既に壁に掛けられていたシーツやカメラはすっかり片付けられていた。さっきまでのことが夢のよう。この数時間で、何歳も年を取ってしまったように思える。一昨日より大人になったはずの昨日よりも、ずっと大人に。この部屋に初めて来た二ヶ月前の雨の日。このベッドの上で全てが始まったんだ。

 撮ろう、そう思ってバッグの中を探ってもカメラが見つからない。あまりに緊張しすぎていたせいか、家に置いてきてしまったようだ。スマホのカメラも十分性能はいいのだけれど、なんとなく大事なものはカメラで撮りたいような気がしている。スマホで部屋の中を撮っていると、ふと気付いた。パソコンデスクの上の写真立てがない。片付けなくってもいいのに。僕だって鴫沢さんの写真は見たいから。これくらいで嫉妬するとか思われてるなんて、ずいぶん見くびられたものだ。あとでそのことを言おう。安心したらなんだかどっと疲れが出て、崇史はベッドの上に寝転がった。

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