#24
小谷野が帰ってくると、崇史がいるはずの部屋は静かで物音がしない。覗いてみると、裸のままベッドで眠っていた。まぶしい光を浴びて、伏せた睫毛が頬に影を落としている。溶けていくバニラ味のアイスクリームのように白い肌の上に、カーテンレースが淡い影を作る。横向きに寝た身体の曲線は、砂丘のようになめらかだ。
そうすることが当然であるようにカメラを構え、露出オーバーになるギリギリまで露出を上げる。出来るだけたくさんの光を取り込みたい。眼で見えている世界よりもっと、光を与えたい。この美しい瞬間を、より美しく。
何枚か撮った後、小谷野は崇史のまぶたにそっとくちづける。
「ただいま」
その言葉に崇史は薄目を開け、ふっと表情を緩める。
「好き?」
「うん。好きだよ」
また目を閉じて眠りにつこうとする崇史の肩を、「こら、起きなさい」と揺さぶる。
「だって昨日あまり眠れなかったから……」
「せめて服くらい着なさい」
「その前に、しようよ」
崇史は腕を回して小谷野にぎゅっと抱きつく。
「だめ。そういうのは卒業してから」
「さっきみたいなのでいいから。またして」
「その前に服を着なさい。それからご飯。俺もうお腹空いちゃったよ」
小谷野は床に畳んで置いてあった洋服を拾い上げて、崇史に渡す。着せて、と小谷野の耳元でささやくと、踵を持ち上げられた。片足ずつ下着に通されて、腰までゆっくりと上げられていく。幾重にも包んで隠していた情欲を開け広げたのと同じ手で、再び丁寧に包み直される。また、見られている。太腿の間を、臀部を。視線が身体の線をなぞるように辿っていく。
その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
「ああ、ピザが来た」
急に日常に戻されて、崇史はやり場のない感情をどこへぶつけたらいいのかわからない。なんだよ、と不貞腐れながら自分で服を着る。
「ケーキがあるからピザは小さいのにしたよ。飲み物は烏龍茶でいいよね。……どうした?」
なんでもないです、と崇史は枕に顔をうずめたまま答える。まるで機嫌の悪い子供をあやすように、小谷野は頭や背中を撫でてやる。そんなんじゃ機嫌直せない、と抵抗するように姿勢を変えないでいると。耳元で小谷野が吐息交じりの声でささやいた。
「卒業したらいつでもできるでしょ」
仕方あるまい、と起き上がると、小谷野は機嫌良さそうににこにこ笑っている。本当は、今がいいんだけどな。崇史はまだ少し拗ねている。子供みたいなわがままを言うのはよそう。もう子供じゃないんだ。
ピザを食べ終わり、テーブルに崇史がリクエストしたホールケーキが乗せられた。ケーキの中央には真っ赤なイチゴとブルーベリーが飾られ、生クリームに縁取られている。小谷野は数字の1と8の形のロウソクを立て、ライターで火をつけた。
「誕生日おめでとう」
崇史は照れ笑いをしながら、一気に火を吹き消した。
「願い事した?」
「そういうのは普通秘密にしておくもんじゃないんですかね」
「あー、そっか。口にしたら叶わなくなるか」
ケーキが崩れないように慎重にロウソクを引き抜く小谷野の顔を見つめながら、崇史は言った。
「もしコウくんが僕の運命の人じゃなくても、写真を撮り続けていられますように、って」
その言葉に、小谷野は目を丸くしている。
「それが願い事?」
「そうですよ。写真撮ってる時のコウくんは一番幸せそうだから。そこに僕がいてもいなくても、カメラは辞めないで欲しいなって思って。好きな人の幸せを願って何が悪いんですか」
崇史はケーキにフォークを突き刺し、塊を大きな口を開けて頬張る。口の中で溶ける程よい甘さの生クリームと、甘酸っぱいイチゴ。ホールケーキを両端から互いにフォークで掘り進めていく。
「あの、家のケーキ、四角いんですよ。子供の頃からずっとそう。丸より四角の方が面積が多いじゃないですか。家族が多いから家では誰かの誕生日の度に、いつも四角いケーキを手作りしてるんで。僕は市販の丸いホールケーキを食べたことがなかったんです。だから一度くらい、誕生日に自分のためだけに用意された丸いケーキを食べてみたくて」
なるほどねえ、と小谷野は深く頷く。
「好きなことやしたいことを、素直に言っていいんだよ。もう子供じゃないんだから。親や周りの大人に遠慮しないで、自分で叶えられる夢は自分で叶えても、何も悪いことじゃない」
先生みたいな、そうじゃないような。でもその向こうに透ける優しさを受け取れる。フォークからこぼれ落ちそうなクリームを舌でキャッチしながら、黙々と互いの口の中を甘さで満たしていく。好き。大好き。その気持ちが一口食べるごとに溢れていく。
ケーキを食べ終わった後、小谷野が紺色の薄い紙袋を差し出した。
「誕生日プレゼントっていうわけじゃないんだけど。この間渡せなかったから」
開けると中には、前回撮った写真が入っていた。
「前に渡したアルバムのページに、足しといて」
アルバムのページが増えていく。きっと今日の分も、これから先の分も。二人で過ごす時間に比例して、厚みを増していくだろう。
思う存分に欲が満たされて、今までの人生で一番楽しい誕生日だったなあと振り返る。夏休み中の誕生日なんて、友達にも部活や旅行で会えなかったり特にやることもなかったりで、ただケーキを食べられる日という扱いになっていたけれど。子供から大人になった今日の日だけは、一生忘れないだろう。
今日撮った写真見る? と小谷野がパソコンの電源を入れようとしたが、崇史は慌ててそれを制した。
「ちゃんとプリントしてから……またアルバムの形になってから見ます。さすがにちょっと、一人で見たい……」
「それもそうだね。俺もレタッチとかしたいし」
そういうことでもないんだけどな。意外と変なところで頓着がないのに気付かされた。先生の時の小谷野だけを見ている分には、気付かなかった。こうやって見えていなかった部分を、これからもっと見ていくのだろう。
小谷野が好きな映画を一緒に見ている最中、うとうとと睡魔と戦っていると、
「眠いんでしょ。寝てていいよ」
とベッドに促された。横になり、黙って手を差し出すとちゃんと握り返してくれる。小谷野の体温を感じながら、安心して目を閉じた。
目を覚まして辺りを見回しても、小谷野の姿が見えない。崇史は起き上がってから、ベッドの下でクッションを枕にして眠っている彼に気付いた。先生も朝早かったもんな。小谷野を起こさないようにそっと床に降り、寄り添って横になる。こんなに間近で、落ち着いた気持ちで顔を見るのは初めてのような気がして。スマホを取り出し、写真に撮る。眼鏡を外しくつろいだ部屋着だけの、先生という殻を脱ぎ捨てた無防備な姿。少しだけ開いたTシャツの裾の隙間から、そっと手を潜らせて触れてみる。あたたかい。そのままもっと奥へ手を入れる。
先生というのはいつも教壇の上という違うエリアに棲む生き物で、生徒である崇史は教室の机から先へは近づけないのだと思っていた。今はこうして触れることを許可される立場にいられる。小谷野の胸の上に頭を乗せて目を閉じると、鼓動が聞こえてくる。こうやって誰かの心拍数を数えたことなんてあっただろうか。彼の心拍数と自身の心拍数が、同じになっていく。
すると、崇史の腰のあたりに小谷野の手が触れた。崇史がそうしたのと同じように、服の下へ入り込んでくる。黒板にチョークで字を書くのと同じ仕草で、皮膚の上を指が滑っていく。まぶたに息がかかる。それから身体を反転させて崇史の上に覆いかぶさった。膝頭が当たり、崇史は脚を開いてその間に小谷野が割り込むことを許す。最初は額、それからまぶた、頬。柔らかな唇が順に触れて、至るべき場所へと届く。下唇を軽く食み、隙間から舌が侵入する。息が、口から溢れる唾液が熱い。
もう自分の意思とは関係なく反応してしまう身体を抑えられず、崇史は脚を小谷野の身体に絡め、後頭部へ腕を回し髪をぎゅっと掴む。もっと、もっと、と手を伸ばすように、崇史の舌は小谷野を求め、小谷野の舌もそれに応える。獣が餌を貪るように彼を求める。身体が潤んでいく。このまま自分でも触れたことがない部分に触れて欲しい。
夕方になっても、この部屋から立ち去りたくなかった。またその内来たらいいんだから、と促されて、ようやく重い腰をあげた。自身の身体の残り香が、まだあのベッドにあるような気がして、ふと振り返る。
「あ、アイス食べ忘れた」
「また今度でいいだろ。ちゃんと取っといてやるから。そうだ、夏休みの宿題ちゃんとやってる?」
「えー……。今言いますか、そういうことを。家だと人が多くてうるさいから捗らないんですよ」
そっか、大変だねえ、と頭をぐしゃぐしゃと撫で回される。あ、また子供みたいに扱われてる。
「夏休みの宿題、ここでやっていい?」
少し拗ねるような顔をしながら、崇史は上目遣いで顔を見上げる。
「ちゃんと宿題と、二学期の予習もするって約束できる?」
「できる! 絶対できる」
満面の笑みを浮かべる崇史の頬に軽くキスをして。
「頑張ろうね」
と小谷野は笑った。まばたきでシャッターが切れればいいのに。今の小谷野の笑顔を写真に撮れたらよかったのに。手の中にカメラがないのがもどかしかった。
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