第30話 赤い刺客と英雄たちの輪舞③
カナデが目を開くと、世界は当たり前の色に溢れていた。茶色い土も、木の幹も、緑に染まった木の葉の数々も。そして、土の匂いだって、虫の羽音だって、今カナデの五感は、すべてを当たり前に捉えている。
「お帰りなさい。カナデ君」
ユリイナがニコリとする。
「おお、戻ったか。この野郎。心配かけやがって」
ヒュウマが嬉しそうに、うんうんと何度も頷く。
「わーん、カナデ君が起きてくれたよー」
何故か泣いているフェアリナ。カナデには訳がわからなかった。
「その……何があったのか、教えてもらってもいいですか?」
「てめえ、覚えていやがらないのか。フェアリナちゃんにあんな卑猥なことをしたのに!」
――えっ?
「エヘッ……責任取ってね、カナデ君」
――ええっ?!
「ちょっと待って。何があったのかさっぱりわからないんだけど。とりあえず何かしたんだったら、ごめん。そんなつもりはなかった」
まるでお酒に飲まれて記憶喪失になってしまったかのように、カナデは自分が自分で怖くなった。
「てめえ、そんなつもりはなかったって、痴漢の常習者のセリフじゃねえか。やっぱりな、フェアリナちゃんがこんなド変態と一緒にいる理由は何かあると思ってたんだ。やっぱりこいつは犯罪者に違いねえ、なあ、ユリイナ?」
痴漢って何だ。この世界にもそういう概念があるのだろうか。ヒュウマに訊かれたユリイナは、手持ちのロッドを彼の頭を振り下ろした。
――ポコン。
快音が辺りに響き渡る。
「って、痛えぞ、ユリイナ。何しやがんだ」
「あなたたち、何やってんのよ。カナデ君がせっかく目を覚ましたのに、またあっちの世界にいったらどうしてくれるの?」
「その時はまたユリイナの魔法で」
「ふざけないで」
「はい……」
シュンと小さくなるヒュウマに、カナデはようやく今の状態を把握した。
「もしかして、あの赤い霧に僕の精神は乗っ取られていたのか?」
カナデの問いに、全員が頷いてくれる。だからカナデは幻覚を見ていたのだ。赤い霧にやられて、彼らが言う瘴気を吸って、別の世界へ誘われていたのだ。
「他のメンバーは? みんなも同じように?」
そうなると、カナデの心配は先に向かった部隊の人たちの安否だった。
「俺たちの右舷班は、先にセクレトが突っ込んでくれている。相手にはだいぶダメージを負わせているんじゃないかな。だが、それでもこの霧が晴れないところを見ると、親玉は全く無傷ということだ。わかるな、カナデ。俺の言ってる意味が」
相手はカナデさえ、その赤い世界に閉じ込めた魔力の持ち主だ。いくらカナデが強くとも、精神が無事でなければ、ただの
「敵はかなり強いということだね」
「正解。だから、ここで引き返してもらってもいいんだからな。てめえは何せDクラスなんだから。逃げ帰ったところで誰も文句は言わねえよ。そもそも学校に残っている連中たちは、ここに足が竦んで来られなかったひ弱なやつばかりだ。誰もお前を責めたりしねえよ」
そうなのだろう。今フェアリナと共に戻れば、少なくとも彼女だけは守ることが出来る。死なせずに生き残ることが出来る。
「ああ、それもいいかもな」
「よし、じゃあお前らはここまでだ。後はA・Bクラスの仕事だ」
ヒュウマの顔がキリッ男らしいものに変わった。彼は今守るものに姿を変えたのだ。誇らしいと思う。兄のように頼りになるともカナデは思う。彼らがいてくれれば、この学校は安泰かもしれない。でも――。
――違うよな?
「ここで自分たちだけ逃げ帰るのも、悪くない策だと僕も思う。でも、それだと逃げるだけで、決して守るってことにならない。逃げることと、守ることは違う。そう思わないか? ヒュウマ」
「ああん? お前何言ってんだ?」
「僕は逃げない。逃げて守ろうとするんじゃなくて、戦って守り抜く。血を見ない平和なんて、誰かの痛みを知らない平和なんて、長続きするはずがないのだから。だから、僕は戦うよ。みんなを守るために。フェアリナも、ユリイナも、そしてヒュウマだって、この僕が守るんだ。そしてみんなを守り通す。僕は、このカナデはそのためにこの魔法学校に来たのだから」
熱く沸き上がったカナデの想い。彼らにどれくらい伝わったのかはわからない。尋ねようとも思わない。でも、その背中が前以上に頼もしく見えたのは、きっと偶然ではないだろう。みんながみんなの思いを背負っている。守るべきものを抱えて生きている。だからこそ、守りたい。カナデが関わる全ての人を。そしてその未来を。
「絶対に守り通してやる!」
カナデの叫びが、まるで1本の道を作るように、赤い霧を消し去った。赤い雲海が真っ二つに割れるように、今左右に分かれている。この先に何かがいる。カナデはそう確信した。
赤い霧の中からうめき声がする。きっとBクラスのメンバーたちが瘴気にやられているのだろう。彼らが自我を失う前に、急いで大元を絶たなければとカナデは焦りを覚えた。
しばらく前に進み、やがては霧が晴れると、そこに50人ほどの赤い法衣を着た魔法使いたちが集まっていた。大勢でひたすらに何かを詠唱している。それがこの霧を発生させていることに、カナデはすぐに気づいた。
「こいつら、霧を盾にずっと魔法を詠唱してやがったのか、汚ねえな」
「だから、これだけ濃かったわけね。そして1人1人が相当な実力者揃いだわ。気を抜かないで」
2人にはわかるのだろう。赤き魔法使いたちが、ただならぬ魔力を持ち合わせていることを。もちろん、色々と空気の読めない人もここにいるのだけれど。
「真っ赤な衣装……みんなで何か囲んでいるし、これってクリスマス・パーティーかな? カナデ君」
「サンタじゃねえよ! って、フェアリナ良く知ってるな、クリスマスなんて」
「エヘヘッ。下界のことも勉強しないと、立派な女神になれませんよってママが」
なるほど。そのママも、下界で楽しむ理由が欲しかっただけなのだろう。やはり母親あっての、今のフェアリナというわけか。この天然具合は、最早遺伝かもしれない。
「どうやら、敵さんが気づいたようだぜ、カナデさんよ」
半径30メートルの円の中で、10人ほどがいまだ詠唱を続けている。残りの39人は侵入者であるカナデたちに向かってステッキを構えているといったところだ。そして中央に鎮座するのは、赤い髪に、赤い司祭服の煌びやかな装いの男。
「嘘だろっ、セトだって? 何であいつがここにいるんだ」
セトといえば、オシリス殺しで有名なエジプトの破壊の神の名前。そんないわくつきの名前を持っているなんて、ロクな人間じゃないだろう。多少なりとも、カナデがいた過去の世界の影響を受けているようなのだから。
「どうやら相手はカブリエね。まさか、あの破壊の王セトが自ら攻めて込んでくるだなんて。これはまずいわね。早くカミュに知らせなきゃ。学校存続どころの問題ではなくなるわ」
あのヒュウマとユリイナがこれだけ恐れるなんて……。このセトという人間は、それほどの実力者ということだろう。それならみんなで逃げればともカナデは考えたが、そもそも簡単に逃がしてくれるような相手ではないだろう。
――どうする?
自問して、思わず笑い転げてしまうカナデ。自分で自分の行動が可笑しくてたまらなかったのだ。
「どうした。こんな時に? 瘴気を吸いすぎて、ついにおかしくなってしまったか?」
呆れた様子のヒュウマ。
「いやいや、ごめんごめん。今更僕は何を恐れているんだろうなって。みんなを守るとか大口を叩きながら、それで逃げ腰になって馬鹿じゃないかってそう思ったんだ」
「カナデ君……」
何か言おうとしたユリイナを、ヒュウマが手で制す。
「いいか、カナデ。みんなを守りたいのはわかる。しかし、時と場合による。そして今回の相手は、俺らが考えているような雑魚じゃなくて、この世界で魔法値が7本の指に入るような、いわゆる七魔帝の1人だ。だから逃げても全然問題はない。というか、てめえだけでも逃げろ!」
――七魔帝?
それは大層なお名前だとカナデは思った。
「だったら、僕がその七魔帝を倒すだけだよ。それが僕らの学校の生徒たちを守ることが出来る唯一の手段ならね」
カナデはそう言って、鞘から木製のナイフを手に取る。それを見て呆れ果てたのか、ヒュウマは頭をポリポリとかく。
「カナデよお。お前、身の程知らずにも程があるな。だが、男としては嫌いじゃない」
両手に魔法剣を構えるヒュウマ。彼もまたただの戦闘馬鹿なのかもしれない。
「2人とも馬鹿じゃないの? もう、私も知らない。本当にどうなっても知らないんだから」
ユリイナも覚悟を決めたようだ。後はフェアリナだけだが……。
「へっ、何、なに。私は何をすればいいの?」
ニヤリと笑うカナデ。そして彼女のお尻を、木製のナイフでつつきながら、大声で叫んだ。
「フェアリナー、味方に臨界攻撃魔法だあー!」
「わかったー! 悪よ、悪に染まりし堕天使どもよ、滅び行く世界の一片を、その終わり無き贖罪を、その身をもって償え。
これがカナデが考えうる最強の奇襲。フェアリナから放たれた聖なる光は、カナデたちを見事に避け、赤いものたちに柱となって降り注ぐ。目映いほどの光に包まれる視界。幾つもの爆発音や破裂音、そして悲鳴が光だけの世界に広がる。これに耐えられるものは、そうはいないだろう。
「奇襲成功」
やがて、カナデの目の前から、赤い服が一気に消えてなくなった。だけれど、これからが本番だと、カナデは、その場から微動だにせずに笑う七魔帝セトを見つめて、武者震いをするのだった。
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