5-4
「……念のため、ご両親に迎えに来てもらうよう連絡しておいたわ。30分ほどで着くそうよ」
斎藤先生はベッドで横たわる黒森の横で椅子に座りながら、俺にそう言った。
俺と斎藤先生、美里奈の三人に見守られながら黒森はゆっくりと呼吸を繰り返している。だが、幸い先ほどよりは血色はよくなってきているようだった。クリーム色の布団に身体を埋めながら、顔だけを動かして俺を見る。
「すみません。毎回、迷惑を掛けます。自分で片を付けると言ったはずなのに、こんな体たらくで……」
「謝るな。あいつらの件を解決するよう言ったのは俺だ。こっちこそ悪かった」
「彼女があんな乱暴なことをするなんて、予想できるわけがありませんよ。私も、少し甘く考えていたようです」
そこで、黒森は大きく深呼吸をする。どうやら喋るだけでも心臓に負担がかかるらしい。
「もう無理に話さない方がいいわ。良一くんと美里奈ちゃんも、帰りなさい。黒森さんは私が責任をもって見ておくから」
「はい……ありがとうございます」
斎藤先生にそう告げられ、俺は頷いた。正直なところ、黒森のことが心配だったがこれ以上一緒にいてもできることはない。
こうやって話しているだけで、黒森の体力は削られていく。だったら歯がゆいが、おとなしく立ち去るほかにない。
それに、美里奈はベッドでひどく憔悴している黒森をひどく不思議そうな顔で見つめていた。この場で黒森の心臓病を知らないのは美里奈だけ。美里奈には病のことを知られたくない――そう言ったのは黒森自身だ。
この場にいれば、美里奈もさすがに黒森の異常に気が付く。この状態の黒森に嘘を吐かせるのはさすがに忍びない。だから、俺は黒森の意を酌んで、美里奈の手を取った。
「そういうことだから、行くぞ美里奈」
「え? ……うん」
美里奈は少し怪訝に思った様子だが、俺に手を引かれるがままに、保健室のドアへと向かって歩いていく。だが、視線だけは後ろ髪を引かれるようにベッドの上の黒森へと注がれていた。
そして、俺がドアを半ばほど開けた時、背後から黒森の声が聞こえた。
「美里奈さん……さっきは、ありがとうございます」
消え入りそうなほど弱弱しい声で、だがはっきりと彼女はそう声を掛けた。その言葉に、美里奈はきょとんとした様子だった。
「え? さっきって?」
「かばってくれたでしょう。彼女たちから、私のことを」
「ああ、そうだったっけ……? うん、そういえばそうだったね」
つい先ほど自分がした行動にもかかわらず、美里奈はしきりに首を捻っていた。どうやら実感が無いらしい。
「どういたしまして! 早く元気になってね、綾乃ちゃん。そしたらまた一緒に絵を描こうよ」
そして、美里奈は明るい笑みを浮かべた。
その様子から察するに、先ほどの行動はほとんど反射的に出たもので、本人も意識してやったわけではないらしい。『考えるより先に身体が動いていた』というやつだろうか。
だが、それが無意識の行動だからこそ、美里奈の内面で確かな変化が起きていることを伺わせる。もっとも、本人も自分の変化に気付いていないままらしいが……
とにかく俺は、美里奈の手を引いて保健室を後にしたのだった。
***
下校した後、俺たちは駅までの道のりを歩いていた。美術部に顔を出すつもりだったが、すっかり活動時間は過ぎてしまっていた。若葉には一応簡単に事情を知らせて詫びのメッセージを送っておいたから大丈夫だろうが。
「どうしたんだろうね、綾乃ちゃん?」
歩道の脇に植えられた花壇を眺めながら、何の気なしに美里奈は呟く。
黒森の心臓病について明かすべきだろうか。一瞬考えたものの、すぐにその考えを振り払う。
黒森との約束がある。打ち明けるなら、黒森の口からだ。俺から告げるわけにはいかない。
「最近、絵を描くのに没頭してたからな。疲れが溜まってたんだろう」
「そっか……そうだよね。私にも絵の描き方教えてくれてるし。最近忙しいもんね」
「…………」
妹に嘘を告げたことに、心が軋みを上げる。こんな嘘などついてもその場しのぎにしかならない。ごまかしていてもいずれ必ず、美里奈が事実を知るときが来る。黒森の死という形で。
だが、今となっては美里奈にその真実を教えることが恐ろしくなっていた。もしも、黒森の余命が短いことを知っても、美里奈が特に心を動かさないなら、それでもいい。こいつの無痛症とは長い間付き合ってきた。その反応への覚悟はできている。
だが、もしも美里奈が『悲しみ』を感じるなら――俺はどうしていいかわからない。今までずっと、美里奈が傷付かないようにして生きてきた。美里奈の痛覚の代わりになろうと、ずっと傍に寄り添ってきた。
だから知らない、わからない。美里奈が本当に傷つき、悲しんだ時、どうやって慰めればいいのか。どうすれば力になれるのか。兄として、何ができるのか。
美里奈の内面の変化。それを知らないふりをして、勝手に運命の時が来るのを待つこともできる。だが、それでも俺ははっきりさせたかった。美里奈があの時、あの行動をしたときに抱いていた気持ちを。
もしも黒森が言った通り、本当に美里奈の心に『悲しみ』という感情があるなら、それを知らなければならない。今までのやり方では、美里奈を守れないから。
ずっと傷付けないように、触れないように厳重に守ってきた。そして、その実、兄である俺自身でさえ向き合おうとしなかった、美里奈の心。
――今は、それに踏み込まなければいけない時かもしれない。
「……美里奈。さっき、何で黒森を助けたんだ?」
俺の質問に、美里奈は道端の花壇から顔を上げ、俺の方を見る。
「何でって?」
「いや、あの時、様子が変だったから。ちょっと気になったんだ」
「うーん、そうだよね。言われてみれば確かに、何でだろう……?」
やはり、自分でも理解していないらしい。腕を組んでしきりに考え込んでいる。
「よくわかんないけど。ただ――」
「ただ?」
俺が先を促すと、美里奈は自分の胸の辺りを押さえるように手をやった。
「綾乃ちゃんが階段から突き飛ばされたときね。この辺が……何か、チクってなったんだ。説明できないような、変な感じだけど」
それを表現する言葉を探すように、何度か自分の胸を人差し指でなぞる美里奈。だが、やがて諦めたのか、美里奈はおかしそうに笑った。
「ふふっ、どうしたんだろ、私? ごめんね、お兄ちゃん。うまく言えなくて。わけわかんないよね」
「……いや」
逆だ。言葉で説明されずともよくわかる。理解できる。あまりにもはっきりと、俺はその気持ちを知っている。
胸が針に刺されたように苦しくなり、締め付けられる。身体が勝手に動き出すほど苛烈な衝動。その感覚は、俺が幼いころからずっと美里奈に抱いてきたものだから。
美里奈が刃物で指を切ったとき。
熱湯で手を火傷したとき。
道で転んで膝を擦りむいたとき。
興味本位の遊びで自傷行為をしたとき。
不運な事故で怪我をしたとき。
誰かに悪意をもって攻撃されたとき。
血を流しながら笑顔を浮かべ続ける美里奈を見るたびに、ずっと俺を苛んできたもの。
大切な人が傷付いたときの――心の、痛みだ。
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