5-2


 翌日――


 アトリエの内部にはすっかり血の匂いが染み付いていた。それは、今まで殺した種々様々の動物が発した死の芳香。それに加えて、今は床の中央に置かれた捕獲機の中に、一匹のチワワの死骸が流す新しい血の香りも含まれている。


 愛玩動物の中では、犬の入手は特に難しい。街中を平然と闊歩している野良猫は捕まえようと思えば容易に捕獲することができるが、野良犬は狂犬病対策の関連で即座に保健所に捕獲され、処分されてしまう。ペットとして買うにも煩雑な手続きが必要で、何より高額だ。


 だが、今回は例によってバイト先のペットショップの店長から未登録の犬を受け取ることができた。何でも、知り合いのブリーダーが犬を繁殖させ過ぎて飼育体制が崩壊したらしく、引き取り手を探すよう無理難題を頼まれたのだと言っていた。そこで、手続きはこちらでやるから、一匹知人に心当たりがあるから引き取らせてほしいと申し出たところ、快く譲ってくれた。


 今まで何度も売れ残りのペットを引き取ってきたので、店長も感覚が麻痺していたのだろう。俺が『手続きはこちらでやりますので』と言えば、少しも疑う様子はなかった。それよりも、他の犬の処理をどうするかで頭を悩ましているらしかった。


 そういうわけで、仔犬はめでたく俺たち兄妹によってナイフで切り刻まれ、黒森の絵のモデルになり果てたというわけだった。そして、例によってその死骸を、黒森はキャンバスの上へと描いていった。


 瞳孔が拡大した虚ろな瞳。まだ乾き切っていない血で汚れた毛並み。だらりと脱力した四肢は木の台の上に投げ出され、もう二度と動くことはない。


 そんな亡骸の様子を一つ一つ漏らすことなく、黒森は絵として圧縮していく。時に現実に目に見える色彩とは別の色で、その『死』を表現する。よほど死骸画にも慣れたと見えて、描画もひどくスムーズだった。


 俺はそんな黒森の絵を横目に、ちらりと美里奈の方も見た。向こうも向こうで、同じ仔犬の死骸をモチーフにして油絵を描いている。今や美里奈は黒森や若葉に教えられた絵の技術をふんだんに使って、瞬く間に洗練されたタッチを獲得していった。この分なら、本当に本人の言う通り、数年――いや、数か月で黒森と並べるかもしれない。


「ふぅ……」


 ふと、黒森が疲れた様子で画筆を下ろした。見れば、黒森の絵の犬の部分はもう完成している様子だった。


「今日の作業はこんなところですかね。美里奈さん、良一先輩。いつもありがとうございます」


 殊勝に礼を言いながら、黒森は絵の片付けを始める。


 休日ならともかく、平日の放課後は作業時間が短い。時間を置けば死体も腐敗してしまうので、一気に描き上げなければならない。集中し続けていた黒森は、やや顔に疲労の色を浮かべていた。


「うん! こっちこそ、ありがとね。また絵のこと教えてね!」


 対照的に、美里奈の方は元気いっぱいに答える。向こうの絵はまだ完成していないらしく、まだ熱心に筆を動かしていた。


「じゃあ、美里奈。黒森を送ってくから、留守番頼むな」


「うん! またね、綾乃ちゃん」


「ええ、また」


 黒森の帰りを送っていくのはもう慣例になっていた。それを美里奈が夢中で絵を描きながら見送るのも、またいつもの光景。


 家を出て、駅までの道を歩いていく俺と黒森。作業を終えた後には、疲労のためか彼女の足取りはひどく重くなっていた。一歩歩くだけでも呼吸をして、今にも倒れそうに思える。


「すみません。毎回付き添ってもらって。こんな体たらくで迷惑を掛けます……」


 その言葉を発しながら歩くことさえひどく体力を消耗するようだった。


「だから、気にするな。お互いもう気兼ねするほど他人でもないだろ」


「……そう言ってもらえると助かります」


 それから、俺は横目に黒森の様子を窺う。


 美術部の活動がある日以外は、ほとんど毎日のように俺の家へと通っている黒森。最近、疲労が蓄積している様子なのは、長時間の作業から考えれば当たり前のことだと思っていたが――あるいは、俺の知らないところで、イジメの被害に遭っているのだろうか。


 聞くとしたら、今だ。だが、今の疲れ切った黒森の姿を見るとこれ以上の会話で体力を浪費させるのは酷に思えた。


 ……と、思っていると、黒森の方から不思議そうに俺の方を見た。


「どうしたんですか? 考え込んで……何か変ですよ、良一先輩」


「いや、別に……そうでもないけど」


「奥歯に物が挟まったような言い方ですね。逆に気になりますから、何か聞きたいことがあるならはっきり言ってください」


 気を遣ってやろうとしたら、まるでこちらが詰問を受けているような形になってしまった。


 まあ、今更遠慮することもないだろう。俺は諦めて、単刀直入の質問を投げることにした。


「じゃあ聞くけど……おまえ、まだイジメを受けてるのか?」


「黙秘します」


「……おい、おまえが聞けって言ったんだろ」


「先輩が聞いたことに必ず答えるとは言ってませんから。だから、黙秘します」


「黙秘って言ってもな……それ、肯定しているようなもんだろ。違うなら、はっきり否定すればいいだけだ」


「まあ、その通りですね。ただ、一つだけ言っておくなら……心配要りませんよ。私が無視すれば済むことですから」


「何も解決してないだろ、それじゃ。というか、何で反撃しないんだ? 美里奈の時みたいに、グロ画像でも何でも使ってやればいいじゃないか」


 俺が一番気になるのはそこだった。他人のいじめをやめさせた時に使った手法を自分の場合に使えないということはないだろう。


 しかし、黒森は首を横に振ってその案を否定した。


「美里奈さんの時は、私が無関係だったからですよ。グロ画像を嫌がらせで送り付けて反撃するなんて、美里奈さんが思いつくような手法ではありませんから。でも、もしも宮野さんたちにグロ画像を送り付けたら――私が反撃したのが丸わかりじゃないですか」


「……確かにそうだな」


 黒森がイジめられている理由がそのグロ絵のせいなのだから、グロ画像を送り付けている犯人と黒森を結ぶ付けるのは容易だろう。さらに相手の神経を逆撫ですることになりかねない。


「そうなったら逆上してさらにイジメが加速するかもしれません。もしも彼女たちに悪知恵があったら、『黒森さんから嫌がらせを受けた』と被害者面をするかもしれません。どちらにしても、時間の無駄です」


 ――黒森には時間が足りない。


 絵を完成させるという目的以外のことに煩わされていては、命の残り時間を削られていく。だからこそ、冷徹な仮面を付けて、他人との関わりを徹底的に断ってきた。


 加害者に対してただ無視し続けるというその態度は、黒森が今まで時間を浪費しないために培ってきた処世術なのだろう。


 だが、だからといってこいつが危害を加えられているのを指を咥えて見ているわけにはいかない。


「じゃあ、おまえは何もしなくていい。俺があいつらに言ってやめさせる」


「そこまでしてもらわなくてもいいですよ。絵はアトリエにありますし、もう捨てられたり汚されたりして困る物はありません。私は平気ですから」


「そっちが平気でも、俺の気分が悪い」


「……意味がわかりませんね。先輩に関係があるんですか?」


「大ありだ。ずっとぼっちを決め込んでたおまえにはわかんないかもしれないけどな。友達が傷付けられてるのを黙って見過ごすのは、最悪の気分なんだよ」


「……私が危害を受けると、先輩が悲しむってことですか?」


「まあ、端的に言うとな。放っておけないんだよ、おまえのこと」


 答えると、黒森はしばらく珍しいものを見るような目で俺を眺めた。


「ぷっ……」


 ――そして、もうこらえきれないとばかりに笑いを漏らす。


「おい、笑うとこじゃないだろ」


 吹き出して笑う黒森に、俺はさすがに抗議の目を向ける。


「だって、全然似合わないセリフですよ、それ。まさか良一先輩の口から、そんな普通の人間みたいな言葉が出るとは……おかしくてたまりませんよ」


「俺を何だと思ってるんだ。これで結構義理堅いんだよ」


「ええ、そのようですね。他人にはひどく冷淡のに、身内だと認めたら一気に甘くなる――まるで犬みたいな人ですね」


「犬を殺した日の帰りに使う比喩じゃないな……」


「デリカシーが無いと? ふふっ、今更ですね。私にそんなもの求めるほうが間違いですよ」


「だろうな。死体の絵ばっかり描いてるグロ大好き変態女だし」


「そっちこそ、動物虐待大好きのシスコン男じゃないですか。変態度では大差ありませんよ」


「別に動物虐待が好きなわけじゃない。美里奈に付き合ってるだけだ」


「シスコンは否定しないんですね」


「妹が好きなのは、兄として当然だろ」


「うわぁ……頭が完全に侵されてますね、先輩」


「何にだよ」


「シスコンウィルス」


「勝手にウィルスを捏造するな」


 他愛も無い会話。益体も無い言葉の数々が、俺と黒森の間を空気のように軽く舞う。


 いつからだろう。こいつとこんな風に話すのが当然になっていったのは。こいつと出会ったばかりの頃は、利害や損得が常に会話の裏に漂っていた。


 妹を守るために、美里奈の利益になるように。だが、今は――こいつと一緒にいて、どうでもいい会話をして、ただそれだけで時間の意味が生まれる気がした。


 家からの帰り道、こうして黒森を送っているわずかな時間。前はただの義務からだったが、今はこの一秒一秒を楽しんでいる自分がいる。


 そして、同時に心の隅では理解している。こんな時間は限られている、ということを。黒森の病気など無くても関係ない。人と人の生き方が交差するのは奇跡のようなものだ。こうして一緒の学校にいて、美術部で出会って、妹のイジメから、話をするようになって――そして、今はこいつの残虐画を描くのに協力している。


 数か月前の俺に未来のことを教えたら、きっと信じないことだろう。そんな儚い偶然の上に、今のこの水晶のように澄みきった時間が存在している。


 そして、俺はそんな透明な時間に不純物が紛れ込むのが許せなかったのかもしれない。黒森が誰かの悪意を受けて、傷付けられている――そんな事実を、見過ごせなかったのかもしれない。


 雑談を交わすうちに、肝心の話題はどこかへ行って、気付けば俺たちは駅の改札口まで辿り着いていた。


「じゃあ、先輩。また明日もお邪魔しますね?」


 軽やかな足取りで、黒森は改札口へと歩いていこうとする。その後ろ姿を、俺は慌てて呼び止める。


「おい。その前に、イジメのことは――」


「わかってますよ。先輩の手を煩わせるまでもありません」


「何?」


「私が自分で話を付けます。そうですね、明日の放課後にでも。もうこれ以上、私にちょっかいを出さないように」


 そこで、黒森はわずかに頬を緩めた。


「別に私はどうでもいいんですけど――先輩を悲しませたくありませんからね。仕方ありません」


『先輩を』にわざとアクセントを置いて、からかうような調子で言う黒森に、俺はバツが悪くなり、目を逸らしながらため息をついた。


「ま、それならそれでいいけどな」


「では、また明日」


 ぺこりと会釈した後、黒森は改札口の向こうへと消える。俺はその背中をただじっと見つめるばかり。


 何はともあれ、自分で解決するというのならこれ以上俺が差し出がましく首を突っ込む理由はない。黒森のことだ。美里奈のときと同じように、何とかすることだろう。


 だから、心配は要らない――そう思っていたが。拭い切れない一抹の不安が俺の心の中に陰りを生んでいた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る