1-3
「――一、良一。何ぼーっとしてるの?」
物思いに耽っていた俺は、若葉の声で現実へと引き戻された。
顔を上げると、そこは夕焼けに赤く彩られた教室。他の生徒たちはとっくにいなくなっていて、中には席に座った俺と、その傍らで鞄を携えて佇む若葉がいるばかりだった。
どうやら最後の授業が終わったのも気付かずにただうわの空で過ごしていたらしい。
「ああ、悪い。ちょっと眠くて……」
「寝不足? 大丈夫? めっちゃ疲れてるっぽいけど」
「五月病ってやつだ。気にしないでくれ」
「具合悪いんだったら美術部の活動、無理に出なくてもいいよ? いや、これマジで」
柄にもなく殊勝なことを言い出す若葉。どうやらそれだけ俺が疲労して見えているらしい。
「いや、心配するな。俺も今日は絵が描きたい気分だ」
それは方便では無かった。先生から注意されるだけでいじめが収まる可能性も無くはない。今は取り越し苦労をするよりも、何かに打ち込んで気を紛らしたかった。
何より、美術部に顔を出していなかったことについて、俺も少し若葉に負い目を感じている。このまま帰れば、余計に歯切れの悪い気分が続きそうだった。
帰りの準備のために、教科書類を通学鞄に詰めながら、片手でスマートフォンを操作して美里奈にメッセージを送る。
『今日は美術部行くから、先に帰っててくれ』
すると、ほどなくして返信が来た。
文字ではなく、何かのアニメの犬のマスコットキャラが親指を立てながら『OK!』と漫画の吹き出しで喋っているスタンプ。
今朝、若葉と約束したその場にいたから報告の必要もないだろうが、これで一応確認も取れた。
「じゃ、行こうか」
「おっけー。新学期から一度も来てない副部長さん。SSRのレアキャラ部員のお披露目会だね」
「レア度の割に、そんな性能はよくないと思うけどな……」
実際、俺はそこまで熱心に絵を描いてるわけじゃない。得意なのは強いて言えば鉛筆画のデッサンで、これも若葉より少し上手い程度。いろんな技法に手を出す若葉の方が、総合的な画力は上だろう。
まあ、別に部活動の地位と実力が比例しなきゃいけないってこともない。気軽に顔を出すとしよう。
そう思いながら、俺は若葉を伴って美術室へと向かった。
ドアを開けると、そこはいくつものイーゼルと胸像が壁際の棚に並べられた部屋。微かに香る絵の具の匂いが鼻腔を刺激する。
久しぶりに放課後の美術室へと来ると、何だか懐かしいような気がする。それも当然で、確か最後に美術部の活動へ顔を出したのは三か月以上も前、実に去年度の二月のことだ。
美術部員も顔触れがすっかり変わってている。去年の三年生は卒業して出ていき、美術室の後ろの方では知らない顔の一年生たちがキャンバスに向かっていた。やはり部に入ったばかりで人見知りをしているのか、知らない顔の部員、イコール新入生たちはみな美術部の一画で一かたまりになっている。絵を描くというよりは、思い思いに絵筆や鉛筆を動かしながら雑談している様子だ。
部活動といっても、美術部ですることといえば、それぞれ思い思いに絵を描きながら時々手を休めて駄弁るくらいだ。
当然、副部長のお披露目会というやつも大したことをやるわけじゃなく、極めて簡素に終わった。
「はい、みんな注目! 副部長から挨拶があるよ!」
ぱん、と手を叩きながら若葉は声を響かせる。その様子はやはり文化部というよりスポーツ系の部員のようだった。
その場にいた部員、特に新入生の好奇の視線が俺へと注がれ、どうにも決まりの悪い気分になる。
「美術部副部長の芦屋良一です。今まで顔を出せていませんでしたが、新入生の皆さん、よろしくお願いします」
そして、新入生から「よろしくお願いします」の声。五月になってから今更の挨拶にも、戸惑うことなく答えてくれる。というか、実際俺が幽霊部員だってことは噂で薄々知ってるだろうから、あんまり興味もないのだろう。挨拶もそこそこに、皆それぞれの作業へと意識を戻していく。
俺も、適当に何枚か静物のクロッキーでも書くか。俺の画材はいちいち運ぶのが面倒なので、以前準備室に置いたままだ。といっても、スケッチブックと鉛筆だけだが。
そして、俺が画材を取りに行こうとしたとき――
「……?」
不意に、一年生のグループから離れたところに一人だけ、見慣れない顔の部員が絵を描いているのに気付いた。
眼鏡を掛けた女子生徒だ。癖毛なのか、髪の毛先が肩の辺りで巻いているのが目立つ。容姿の特徴といってはそれくらいで、痩せてもいなければ太ってもいない。背丈もごく普通で、全体的な印象は『地味』の一言。今になって気付いたのも、その影の薄さが原因だった。
ただ、顔立ちはどちらかといえば整っている方。もっとも、それもキャンバスに向き合うその険しい目付きで台無しだった。見るものを畏怖させるような渋面で、近寄りがたい雰囲気を放っている。
「若葉、あの子は?」
俺が傍らの若葉に尋ねると、彼女は露骨に気まずそうな顔をした。
「ああ……黒森(くろもり)さんだよ。黒森綾乃(あやの)。今年入った新入生」
「人見知りな子なのか? なんか、他の一年から浮いてるけど」
「それは、何というか……絵を見ればわかるよ」
「絵?」
妙に歯切れの悪い若葉の言葉に首を傾げる。
不思議に思いながらも、黒森綾乃というその女子生徒のそばへと近づいていく。黒餅は俺の接近にも気付く様子はなく、ただ一心不乱にキャンバスへと筆を運んでいた。
そして背後へと回り、黒森の肩越しに画布を覗き込んだ。
……なるほど。
確かにその絵を見れば、どうして彼女が他の一年から浮いてるのか、一目瞭然だった。
そこに描かれていたのは一匹のウサギ。
ただし、可憐な小動物というには程遠い。首は千切れ、腹部は切り裂かれ、ハラワタの露出した無残極まりない姿で横たわっている。どす黒く塗られた背景に、白いウサギの毛と深紅の血が鮮やかなコントラストを成していた。
ウサギの首から流れ出す血の赤へ、まだ足りないとばかりに黒森は赤の油絵の具を執拗に塗り重ねる。一筆ごとにグロテスクなその絵は血生臭さを増していった。
「……見られてると、集中できないんですけど」
ぼそりと、呟くように発された低い声。こちらを振り向きさえしないし、作業の手も止めない。ぶっきらぼうで不愛想な態度だった。
「ああ、ごめん」
だが、集中を乱したのならこちらが悪い。素直に謝って、彼女の後ろから離れた。そして、美術部広報の準備室から、置いたままの俺のスケッチブックと鉛筆を取って、美術室の前方へと戻っていく。
すると、若葉が心配そうな顔で出迎えた。
「大丈夫だった? 気分悪くない?」
「いや、平気だ。何ともない」
美里奈の動物虐待で見慣れている、とはさすがに言えなかった。若葉にはそもそも、美里奈の病気のことも詳しく話していない。
「そう、なんだ……良一、結構耐性強いんだ。私はああいうの完全に無理だからさ。でも、あの子上手いし、ふざけて描いてるわけでもないし、描くのやめろっていうのもなんか違うと思うし……本当は、しゃべりかけたいんだけどね、部長として」
誰に責められているわけでもないのに、後ろめたいことをしているように、若葉は言い訳めいた言葉を連ねる。
その表情は実際にあのウサギの残虐画を見てもいないのに蒼白で、吐き気を堪えているようだった。
面倒見の良い若葉のこと、孤立している黒森にも声をかけて部員の輪に入れようとしたのだろう。だが、仲良くなろうにもあの絵に耐性が無ければ、そばにいることさえままならない。部長でありながら新入生とコミュニケーションを取れない自分に、責任感を覚えているのに違いない。
となると、どうやら俺が副部長のくせにサボっていたのは思っていた以上に若葉に負担を強いていたらしい。
「心配するなよ。あの子と何か話さなきゃいけないときは、俺が行く。副部長だからな」
「……うん、ありがとう。お願いね」
そう礼を言った後、深呼吸する若葉。頭の中から、あのウサギの死骸のイメージを振り払おうとしているのだろうか。
「まあ、心配しなくても、コミュニケーションを取りたがるタイプじゃなさそうだけどな」
俺は改めて黒森綾乃の方を見つめる。俺たちが話していることなど興味もないとばかりに、自分の絵に向かい、ひたすら血生臭い赤を塗りたくっている。
中学生のころには自分がグロテスクなものを好んでいるということをまるでステータスのように振る舞うやつが毎学年クラスに一人はいた。
アイデンティティの萌芽と共に、自分という存在に何か特別な価値を付けようと、残虐なものに対する耐性を持っていることを殊更に誇る、掲げる。それは集団の中で己の強さを認めさせようとする、一種の示威行為でもあったのだろう。
グロテスクなものを平気で見られる俺は強い。だから敬え、恐れろと――
もっとも、黒森のそれはそんな痛々しい営みとはどこか趣を異にするところがあるように思われた。
何しろ、少しもその残虐画を誇示するようなことをしていない。俺が先ほど地味すぎて存在を気付かなかったのが証しているように、美術室の隅で目立たないように、ただひたすらに絵を描くことに没頭している。
おぞましい己の絵を見つめるその表情は真剣で、何か鬼気迫るものさえ感じるほどだった。
俺は彼女に興味を掻き立てられ、鉛筆画のモチーフにしようとしていた花瓶を脇にどけ、黒森綾乃という女子生徒をよく観察する。
そして、その姿を、その線を、スケッチブックの上へと精密に写し取っていった――
久しぶりに絵を描くのに没頭すると、時間は矢のように過ぎていく。
気付いた時には下校時刻を告げるチャイムが鳴り響き、部員たちはそれぞれ道具を片付けて帰り支度をする。
その中でも撤収が特に早かったのは黒森だった。自分の油絵を準備室へとてきぱきと片付けるとすぐに美術室から歩き去って帰って行ってしまった。他の一年生たちは足並みを揃え、雑談の続きをしながら出ていくにもかかわらず。
そして、美術室に残ったのは部長と副部長。つまり俺と若葉だけになった。
「今日はありがとね。来てくれて」
「いや、もともと顔を出すのが筋なんだ。これからもなるべく出るよ」
黒森綾乃――あの残虐趣味の新入生。
普段の活動やコンクールの手続きなど、若葉が部長という立場である以上は、どれだけ苦手でも彼女の描く無残絵を何度も見ることになるだろう。その時くらいは、少しは耐性のある俺が副部長として仕事を肩代わりしてやることにしよう。
そう心に決めながら俺も道具を片付け、部活動中は美術室の隅に置いておいた通学鞄を手に取る。
「じゃ、帰るか」
「んー、わたしはもうちょい残ろっかな。今日は良い感じの夕陽だし」
窓の外、地平線の向こうに沈みゆく赤い太陽を見ながら若葉は言った。
「またか。下校時刻すぎてるんだから、先生に見つからないように気を付けろよ」
「大丈夫大丈夫。鍵閉めは私がやるし、ちょっとくらい残ってても気付かれないよ」
「たまに職員室に呼ばれてるくせに」
「普段から真面目だと、時々校則違反してもあんまり怒られないんだよ? これ、木下若葉流の処世術」
うそぶきながら、若葉は窓の外を見つつスケッチブックを広げる。外には赤く染まったグラウンドで、特別に下校時刻後の練習を許可されている陸上部や野球部が走り回っているのが見えた。
若葉はよくこうして放課後も風景画を描いている。夕陽に染め上げられた校舎やグラウンドの光景が好きなのだそうだ。
俺も窓の外に広がる夕景の美しさには心を打たれる。見ていると、なぜだか言いようのない郷愁に包まれる気がした。
若葉は夕陽の魅力に惹かれ、絵を描く。
だとすれば黒森もそうなのだろうか――と、不意にそんな考えが頭をよぎった。
彼女もまた可憐な小動物が八つ裂きにされ、無残な骸を晒す光景に惹かれているのだろうか。だからこそ、あのグロテスクな絵に製作の情熱を注いでいるのかもしれない。
益体もないことを思っているうちに、色鉛筆がスケッチブックの表面を走る音が響き始める。普段はテンションが高いが、絵に集中している若葉の顔は真剣そのもの。そこには、黒森の表情と相通じるものがあった。
邪魔をするのは悪いと思い、俺は鞄を持って美術室を後にした。
昇降口で上履きから靴へと履き替え、外に出る。今頃、美里奈は家に帰って残ったハムスターを弄びながら殺しているだろうか。
そう思いながら昇降口から出ると、思いがけない光景が目に飛び込んだ。
昇降口から出たすぐのところで、一人の少女がしゃがみ込み、何やら小さな草のようなものを左手の上に乗せている。
夕焼けが辺りを朱に染める幻想的な光景。それはまるで一枚の絵画のように現実感を欠いていた。その印象は、少女の姿があまりにも生命力に欠けた、人形のような美しさだったのも一因だろう。
少女――美里奈は掌の上に乗せた何かへと、右手の指を伸ばす。そして、何か細い筋のようなものを引き抜いた。
よく見れば、その小さな草だと思った物体は緑色をしたバッタだった。そして、今美里奈が引き抜いた筋は脚の一本らしい。最初気付かなかったのは、脚がすでに二、三本ほどもぎ取られていて昆虫としての形を失っていたからだ。
残虐と可憐が同居した光景に、俺は一瞬現実を忘れて見入っていた。
だが、次第に我に返り、美里奈へと歩み寄っていく。
「美里奈。学校でその『遊び』はやめろって言っただろ」
俺が呆れながら声を掛けると、美里奈は顔を上げ、微笑を俺へと向けた。
「あ、お兄ちゃん。部活は終わったの?」
「ああ。でもおまえ、先に帰ってたんじゃなかったのか?」
「ううん。帰ろうと思ったけど……何だか今日は、お兄ちゃんと一緒に帰りたい気分だったから」
バッタの胴体から足をもぎ取る手を休めず、美里奈は答えた。
命を弄ばれるバッタの目からは何らの感情も読み取れない。ハムスターと違って鳴き声を上げることもない。だが、悲しげに蠢く緑色の身体が苦悶を表しているかのようだった。
美里奈は苦痛を感じない。一人で帰ることが寂しかったわけじゃない。それでも、快なるものか、より快なるものかの順位はある。
一人で帰ることよりも、俺と一緒に帰ることを選んでくれた。そのことが素直に嬉しかった。
美里奈の手の上で、小さな命は解体されていく。足は一本を除いてすべて引き抜かれ、もはや芋虫のような有様だった。それでも飽き足らず触角を引き抜く。昆虫は逃げようとするものの、唯一残った足を指で挟まれて身動きが取れない。
責め苦から逃れる術もなく身体を壊されていくのを、この虫はどんな気分で見つめているのだろう。
触角も、羽も、最後に残っていた脚すら千切られたバッタ。美里奈はその首と胴体の辺りを両手で持ち、造作もなく捻じ切った。虫の黒っぽい体液が切断部から滴り落ち、白く細い指を汚していく。
美里奈はその光景をまるで美しいものでも見るかのように満足げに見つめていた。そしてバッタの死骸を捨てると立ち上がり、俺へと手を伸ばした。
「よし、帰ろっか。お兄ちゃん」
薄黒い体液で美里奈の手は未だ汚れている。美里奈には、それを拭い取ろうとするための不快感も抱くことができない。
だから、俺も構わずに妹の手を握り返した。
「ああ、帰ろう」
そして、俺は夕陽の中、帰路へとつく。
妹の細く頼りない手を、強く握りすぎないように気を付けながら――
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