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 翌朝、俺は普段通りに朝の準備をする。午前六時過ぎには起床し、洗濯物を干したり、二人分の弁当と朝食の準備をしたり。ついでに昨日、美里奈がまとめて部屋の外に出しておいた生ゴミ、つまり殺したハムスターたちの死骸を回収して、台所の燃えるゴミと一緒に所定のゴミ捨て場へと捨てる。


 そして、家に戻り、いつも自力では起きてこない美里奈を起こしに部屋へ。


「うーん……ハムスターが5121匹、ハムスターが5122匹……」


 どうやら就寝前にハムスターの数を数え始め、夢の中でもまだ数え続けていたらしい。


「起きろ、朝だぞ」


「ん……むにゃむにゃ。……あれ? ハムスターさんたちは?」


「うちにそんなにハムスターを飼うスペースはない。顔洗って来いよ」


「むー……良い夢見てたから、もうちょっとだけ寝る……」


「また遅刻するぞ。ほら起きろ」


 まだ布団を抱きしめる美里奈を無理やり引きはがし、一階で顔を洗わせる。


 そしてダイニングで兄妹二人、朝食を摂る。今朝はオートミールとスクランブルエッグ、ポテトサラダだ。自分で口の中を噛んでも気付かない美里奈にはなるべく柔らかい料理であること、かつ火傷しない程度に冷ます工夫が必要だった。


 ぼんやりと寝ぼけ眼を擦る美里奈は朝食のオートミールをちびちびと食べる。


「やっぱ、お兄ちゃんの料理はおいしいね」


「ただ煮込んだだけだけどな。そのオートミール」


「それでも、お兄ちゃんが作ってくれるとおいしい……気がする」


 輝くような笑顔を向けられると、俺も嬉しさに頬を緩める。


 美里奈なら、たとえどんな酷い味の料理を口にしたところで「美味しい」と言って食べてくれることだろう。それでも、やっぱり面と向かって言われるのは喜ばしかった。


 朝食を終え、制服に着替え、鞄を持ち、登校の準備を完了する。


「じゃ、行ってきます!」


「ああ、行ってきます」


 今となっては俺たち兄妹二人しかいない芦屋(あしや)家。当然、二人揃って家を出れば後には誰も残らない。それでも、父さんや母さんが生きていた頃の習慣で、美里奈は「行ってきます」という。


 どれだけ虐待を受けても、どれだけ酷い親でも、美里奈に取っては二人とも家族だったのだろう。


 そして、俺たちの通う縁山(ゆかりやま)学院高等学校に向かうため、最寄りの駅へと向かう。


 通勤中のサラリーマンや学生たちでごった返す朝のホームは、一日で最も神経を使う時間帯だった。美里奈が人とぶつかって怪我をしたり、線路にでも落ちたりしたらと思うと気が気じゃない。


 ただ、幸いにして今までにそんな事態になったことはないが。それでも、気を付けるに越したことはなかった。


「あ、良一、美里奈ちゃん! おはよー!」


 そろそろ来る頃だと思っていたちょうどその時、耳に聞き慣れた活発な声が響いた。


 見れば、ホームの向こうから妹と同じ縁山学院高校の女子制服に身を包んだ、ポニーテールの少女が駆けてくる。肌は健康的に褐色に焼けていた。頬を包むように内側に跳ねた後れ毛がチャームポイントだ……というのが、本人の弁。


 一見したところではアウトドア派の運動好きなスポーツ少女だが、実のところ所属してる部活は美術部。しかも二年生になった今はめでたく部長に就任している。


 とはいえ専門は風景画で、絵を描くためによくスケッチブック片手に外を出歩いている。だからアウトドア派という印象は間違いじゃない。


「おはよう、若葉(わかば)」


「おはようです、木下(きのした)先輩!」


 俺と美里奈、二人の挨拶はほぼ同時だった。


 木下若葉。このやけにナチュラルな名前の少女は、俺と同じ縁山学院高校の二年生。毎朝この駅で会うことから、一年のころから自然と仲良くなったクラスメイトだ。


「うんうん。今日も美里奈ちゃんはかわいいね。いぇーい!」


「いぇーい!」


 朝っぱらから元気よく美里奈とハイタッチを決める若葉。美里奈の方も、寝覚めの悪さが嘘のようにテンションを高め、掌を打ち合わせた。


 二人はノリが近いせいか、妙に馬が合う。もっとも、美里奈の方はどんな相手だろうと親しく接してしまうが。


「それに引き替え、良一ときたら……はあ……」


 と、何故か不満げな顔でこちらを見つめ、わざとらしくため息をつく若葉。


「何だよ。可愛げがないっていうのか。別にいいけど」


「そのリアクション自体可愛げがない……っていうか、そうじゃなくて!」


 びしっと人差し指をまっすぐに差し、攻めるような目を向けてくる。


「なんであたしが不機嫌なのか、木下若葉の気持ちを百文字以内で答えなさい!」


「何で急に現代文の問題なんだよ」


「シャラップ! さっさと胸に手を当てて考えて! ハリーアップ!」


「国語か英語がどっちかにしろ」


 適当にいなしながらも、若葉の態度を怪訝に思う。こいつは、テンションはやけに高いが、それでも何の根拠もなく怒ってくるような変人じゃない。


 とすると、俺が若葉の機嫌を損ねるようなことを最近したという話になるが――あいにく、心当たりがなかった。


「悪い。降参だ。何もした覚えがないんだけど」


「はい正解。何もしてないから怒ってるの」


「は?」


 国語の問題から、今度は一気に禅問答みたいな話になる。俺がますます混迷を深めているのを見て取ると、若葉は呆れたようにため息をついた。


「美術部の活動。昨日もまた来なかったでしょ?」


「あ……」


 言われて初めて思い至る。


 俺もまた、若葉と同じ美術部に所属している。本当は三年間帰宅部を決め込みたかったのだが、縁山学院高校は今時『生徒は全員部活動に所属するべし』なんていう古臭い校則が現役で残っていた。


 生前に父さんから教わったおかげである程度は絵が描ける。それに加えて、若葉も熱心に一緒の部活に入るよう勧誘してきたので、仕方なく美術部へ入ったのだった。


 もっとも、校則でやむを得ず入っただけだったのでモチベーションも低い。一月に一度活動へ顔を出せばいい方という見本のような幽霊部員。


 二年生になってからも、同じようなポジションを取っていたかったが――若葉が部長になってからはそうも行かなくなった。俺がいないうちにいつの間にか俺を副部長に推薦し、俺も含めて誰も反対しなかったのでそのまま副部長の立場に収まってしまった。


 ちなみに、美里奈は放送部に所属している。こちらもまた、当然幽霊部員だが。


「もう5月なのに副部長が一度も顔を出さないなんて、新入生に示しが付かないよ」


「そうは言っても、そっちが勝手に決めたんだろ」


「勝手じゃないよ。美術部のグループトークに流してちゃんと意見を募ったし。良一も反対しなかったじゃん。民主主義だよ、民主主義」


「それはそうだけど……」


 正直、痛いところを突かれてしまった。


 幽霊部員になってから連絡事項のメッセージが送られてきても一切無視していたために気づかなかったのだから、文句は言えない。沈黙は発言権の放棄と同じだ。


「美里奈ちゃんも言ってやってよ。このダメなサボりお兄ちゃんに」


「うん。サボりはダメだよね、お兄ちゃん?」


「うぐっ……」


 美里奈はことさら責める様子でもなく、ただ面白がって若葉に調子を合わせるように言った。それでも、美里奈から言われるとダメージが倍増する。


「……わかったよ。今日の放課後は顔を出す」


「良一、本当に美里奈ちゃんには弱いね……でも、わかればよろしい。約束だからね?」


 びしっと再び指を突きつけて念を押すように言う若葉に、否応なく頷く。


 朝っぱらから面倒な用事を作ってしまった。


 今日は妹がクラスメイトの高橋さんたちから受けている虐めについて、何とか対策を講じようと思っていたが。


 しかし、今のところ何か良い案があるわけでもない。となれば、たまにはいつもと違うことをすれば、アイディアも浮かぶかもしれないな。


 そう肯定的に捉えていると、やがてホームにアナウンスが鳴り響き、電車がゆっくりとホームに入ってきて停車した。


 通勤通学ラッシュのこの時間帯は、とっくに座席は埋まっている。開いたドアに雪崩れ込む人混みに紛れて車両内に入った。


 ドアが閉まり、発車アナウンスが車内に響き渡る。そして、うとうとしている美里奈に肩を貸しながら、電車の振動に揺られること15分。


 そして同じく人の波にさらわれるようにして改札を抜け、朝っぱらの運動にはハードな急勾配の上り坂を上り切り、ようやく我らが縁山学院高等学校に到着する。


 今年で創立45年、全校生徒数約900人。それ以外は取り立てていうことのない平凡な私立進学校。一年と少し通っても、毎日上る坂のキツさばかりが記憶に残っていた。


「じゃ、お兄ちゃん! 勉強がんばってね!」


 俺と若葉は二年。美里奈は一年。当然の帰結として、昇降口で分かれることになる。


「ああ、そっちもな」


 手を振る美里奈に声をかけながら、俺はずきりと胸が痛むのを感じる。


 美里奈がこれから笑顔で向かうクラスは、虐めの加害者たちのいる教室なのだ。


「どうしたの?」


 懸念が顔に出ていたのか、若葉が不思議そうに覗き込んできた。


「いや、何でもない」


 若葉の問いに答えをはぐらかす。そして、二年生の靴箱に靴を入れ、上履きへと履き替えた。


  ***


 昼休み。


 教室で若葉と昼食を摂り終えた俺は、教室を出た。廊下を歩く足の行き先は保健室。悩みがある生徒の、まず向かうべき場所だ。


「失礼します」


 清潔さを具現したような白色のドアを開けると、保健室の内装が目に入る。ベッドシーツも、ベッドの周囲を囲むカーテンも、すべてが精神の落ち着くクリーム色で統一された空間。


 だが、その柔らかな色合いも、焦燥にささくれ立った俺の心を和らげるには至らなかった。


 視線を巡らせ、奥にある事務机へと目をやる。そこには白衣を着た女性が退屈そうにPCに向かい、何やら書類を作成している。そして、俺の入室に気付いたのか、後ろで地味に束ねた髪を揺らしながら顔を上げる。


 眠たげで気怠そうな両の目が俺を捉えた。


「ねえ、私がいつも徹夜で作ってる『保健だより』……生徒のみんな、読んでくれてるかなぁ……? こんなの、すぐゴミ箱にポイってしちゃうんじゃない?」


「俺は読んでますけどね、ちゃんと。いつも隅っこに小さく載ってる、あのシュールなアルパカのイラストも味がありますよ」


「そう……あれはカピバラだけど、ありがとね、良一くん」


 ……それは初耳だった。


 彼女の画風は非常にユニークなので、一見して何が描いてあるかわからない。


「はぁ……優しいことを言ってくれるのはあなただけ。教頭先生も校長先生も冷たいし……あ、ごめんね、愚痴吐いちゃって。私が聞く側なのに。じゃ、まあ用件を聞くから、そこに座って」


 促されるがまま、彼女へと歩み寄っていき、適当にパイプ椅子へと腰を下ろす。


 そして、改めて向き直る。


 この縁山学院高校の養護教諭――斎藤梢(さいとうこずえ)先生。それが彼女の名前と役職だ。自分自身がカウンセリングを受けた方がよいのでは? といつも危ぶむほどに疲労しきっている、学校教師の労働環境のストレスを体現したような雰囲気の女性。


 だが、俺が困ったときにはとりあえず相談する相手ではある。それには保健室の先生という立場以外にも、もう一つ大きな理由がった。


 それは――


「それで、梢叔母さん。相談なんですけど……」


「学校では叔母さんはやめて……斎藤先生ってちゃんと呼んで」


 眠たげに目を擦りながらも、大切な線引きはきちんと念押しする。


 そう、斎藤先生は俺と美里奈の母方の叔母だった。同居してはいないものの、一応書類上は俺たち兄妹の後見人という立場になっている。


 この様子なら、完全にグロッキーというわけではなさそうだ。相談にもきちんと乗ってくれることだろう。


 ちなみに同居していないのは斎藤先生が軽度の鬱病を患っていて、共同生活のストレスに耐えられないから。そんな人が後見人で大丈夫かと思うが、他に親類もおらず、多少心の健康に問題があっても、別段法律上の欠格事由にも当たらないということでなんとなく今の生活に落ち着いてしまっている。


 だが、正直彼女の存在にはありがたいと思っている。普段は深く干渉することもなく、こちらが助けを求めれば手を差し伸べてくれる。何より、自身も心を患っているからか、美里奈のこともよく理解している――もちろん、例の残虐な遊びのことも。


 つまりは美里奈のことを話す相手としては唯一、そして的確な人物だ。


「じゃあ、斎藤先生……相談したいのは、いじめのことなんですけど」


「いじめ……美里奈ちゃん?」


『いじめ』というキーワードだけで、大体の事情を察したのか、斎藤先生は眠たげな瞳に、わずかに悲しげな色を見せた。


 悲しいことに、幼少期から今に至るまで、美里奈の受けているいじめは日常茶飯事だった。同時に、斎藤先生は美里奈が俺たちの両親から虐待を受けていたことを薄々悟っていながら、何もできなかったのだろう。それが彼女の鬱病の遠因になっていることは想像に難くない。


「はい。クラスの高橋さんっていう女子たちのグループにトイレへ連れ込まれて、身体にライターで火傷を負わされてるんです」


「やけに具体的ね。それ、確かなの?」


「美里奈が自分で言ってましたから。火傷の跡もこの目で見ました。美里奈は笑ってましたけど……」


「……そう」


 自らの身体の傷に痛みを感じることなく微笑む美里奈の顔。それがまざまざと脳裏に浮かんだのか、はぁ、とその口からため息が漏れる。彼女の中の生命力まで、吐息と一緒に抜け出てしまっているようだ。


 美里奈の場合、本人が被害を被害と認識していないというのが問題を複雑にしている。最終手段の警察沙汰にしようにも、美里奈があの呑気な有様では被害届を出すこともままならない。


 それに、いじめのやり口は陰湿だ。トイレの密室へグループで入り、逃げ場を無くして美里奈を傷付ける。恐らく美里奈の痛みを感じない体質も知悉してのことだろう。直接的に糾弾しても、知らぬ存ぜぬで白を切られるかもしれない。


 となると、対策はひどく穏当なものにならざるを得ないということで――


「美里奈ちゃんのクラスは、一年七組だったわね。確か、萩村先生の担任か。彼にいじめがあると伝えておくわ。先生から注意してくれると思う。私からも、高橋さんに話をする」


「……それで解決するんでしょうか」


「わからないわ。無責任だけど……状況が好転すると確約はできない」


 斎藤先生の返答は芳しくなかった。だが、その態度は精神の病から来る悲観主義だけのものではないだろう。養護教諭としての責任感から、軽率に希望を抱かせることはできない。


 彼女の答えの真摯さを重々理解しているからこそ、俺は席から立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。


「とにかく……よろしくお願いします、斎藤先生」


「ええ。力になれるかわからないけど……また、何かあったら言ってね」


「はい、それじゃ」


 そう言って、俺は保健室を辞去する。


 妹のいじめへの対策は一つ打ったものの、それでも心にかかった靄が晴れることはなかった。


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