グロテスク・ノスタルジア

藻中こけ

第1章 兄と妹

1-1


「神は残虐である。人間の生存そのものが残虐である。そして又本来の人類が如何に残虐を愛したか。」


――江戸川乱歩『残虐への郷愁』



  ***



 古びた木製の作業机の上に広げられたボール紙、そこへ前脚と後ろ脚を大きく広げて仰向けになったジャンガリアンハムスターの胴体へ、少女は一本ずつ裁縫針を刺していく。柔らかな毛皮と、弾力を持った肉が貫かれ、ぷっくりと赤い血が溢れてきた。


 すでにハムスターの身体には十本近い裁縫針が刺されている。そのうちの四本は両の前脚と両の後ろ足に刺され、ボール紙へと磔にする形になっていた。身を貫く針が一本追加されるたびに生贄はY字型の口を歪めて齧歯を覗かせ、耳障りな鳴き声を上げる。


 それでも彼女は手を止めない。まるで手芸でもしているかのように軽やかな手付きで小動物の身体に次々と穴を開ける。机の上に広げた高校の裁縫用具セット、そのピンクッションに刺した針は数を減らしていった。


 長針、短針を使い切り、ついには鮮やかな花びら飾りのついた待ち針さえもハムスターの体へと突き立て始める。


 その待ち針も最後の2本になると、彼女は少し名残惜しげに考え込む。


 そして、思案の末に、両方とも小さな眼球へと刺した。もうすでに弱って反応の鈍くなっていたハムスターも、眼球を破壊されて失明した瞬間にはさすがに苦痛で大きく身体を波打たせる。


 ビクビクと痙攣する白い毛玉。全身を穴だらけにされた哀れな生贄はどう見ても致死量の血液を失っていた。毛と毛の間に流れゆく幾筋もの赤い脈。


 それを見届けると、彼女はふうと満足げなため息をついた。


「ねえねえ。これ見て、お兄ちゃん! すごいでしょ、ハリネズミだよ!」


 そこで、少女――妹の美里奈(みりな)はようやく、傍らに立ってこの拷問を見つめていた俺――良一(りょういち)へと振り向く。自らの『作品』を得意げに手で示しながら。


 ハムスターは全身に穿たれた傷口から血を流し、針を赤く濡らしながら最期の痙攣を続けている。もしもそれだけの知能があったとすれば、『どうしてこんな目に』という悲痛な疑問がその小さな脳髄に駆け巡っていることだろう。


 いや、あるいは眼窩に刺された針のせいで脳はとっくに破壊されているかもしれないが。


 俺はそんな凄惨なアートを前にしながら無邪気に目を輝かせる妹に、ふっと頬を綻ばせた。


「ああ。面白いな、それ」


「でしょ? でしょでしょ? ハムスターなのにハリネズミっていうのがポイントなんだよ! すっごくきれいでしょ?」


 美里奈が整った顔に可憐な笑みを咲かせてはしゃぐ声が、家の中にしつらえたアトリエ内で響く。もう使われていないイーゼルや花瓶や胸像は埃が積もっている。陰鬱な空間の中で、美里奈の声だけが軽やかだった。


 今年の春から高校一年生になった、一つ年下の妹。だというのに、その屈託のなさはまるで小学生のようだった。陶磁器のごとく白く透き通った指がハムスターの鮮血で汚れていても、一向に頓着する様子がない。


 それはあらゆる意味で歪な光景だった。


 愛玩動物を残酷極まりない方法で虐待しながら、何の罪悪感もなく少女は喜ぶ。まるで、ちょうど幼児が少しも悪びれることなく蝶々の羽根をもぎ取って弄ぶように。


 ボール紙の上で今まさに痙攣しながら死んでいくハムスター――美里奈曰く『ハリネズミ』はまともな神経の持ち主なら目を背けたくなるほど無残な有様だ。一方で、その惨事を作り出した当の美里奈は誰もがその美しさに目を奪われるような容姿の持ち主だった。


 濡れ羽色の髪は枝毛一つない直線を描いて背中まで伸び、美里奈が楽しげに身体を揺り動かすのに合わせて豊かに波打つ。愛用の紺色のワンピースの下に隠れた身体は細く、余分な脂肪は何一つない。そして、その顔立ちはどこか少女らしい幼さを残しながらも、目が覚めるほど麗しかった。


 だが、一方で美里奈の美しさは病的でもあった。あるいは非生物的というべきか。


 異様に高いテンションとは裏腹に、皮膚の下に血管が巡っていることを感じさせない、白く美しい肌。身長140センチをわずかに越した矮躯は、高校一年生とは思えないほど小さい。その姿は人間というより、上等なビスクドールを思わせるほど。


 妹のことを見つめているうちに、俺は不意に美里奈の右手人差し指の先から血が出ていることに気付く。ハムスターの血痕かと思ったが、どうやら針で怪我をしているらしい。


「美里奈。右手見せてみろ」


「ん? なになに?」


 美里奈は未だおかしそうに笑みを浮かべながら、言われるがままに右手を差し出した。落ち着いてみれば、人差し指の先から零れる血がよく見える。


 どうやらハムスターを拷問しているうちに誤って針で突いたようだ。


「注意しろよ。おまえ、怪我しやすいんだからな」


 俺はポケットから湿式の絆創膏を取り出して、傷の付近へと巻き付ける。美里奈は慣れた様子で俺の応急手当を愉しげに見つめていた。


「うん、平気平気。今度から気を付けるから」


「いつもそう言って、どこか怪我してくるだろ」


「もう。心配しすぎだよ、お兄ちゃんは。過保護だって」


 少しも痛みなど感じていないように、美里奈はいつものごとくからからと快活に笑う。


 ――いや、比喩表現ではなく事実として美里奈は痛みを感じていない。


 生まれつき美里奈は痛覚が鈍い。指先を針で突いても、膝を擦り剥いても、手を火傷しても、腕の骨を折っても――美里奈はまったく痛みを覚えず、自分で怪我に気付かないことさえままある。幼いころはよく好奇心で舌を噛んで、口の中を血まみれにしていたことも稀ではなかった。


 医師の説明によると、この無痛症の原因は不明らしい。確かなことは先天的なもので、治療は困難だということ。


 そして、この無邪気な残虐性と無痛症にはおそらく関連がある。


 自分にはない「痛み」という感覚。そして苦しみながら死んでいく光景。美里奈は惹かれているのだろう。


 4年前、両親が交通事故でこの家と財産を残して世を去った時を契機にして、美里奈は幼いころから兆候のあった小虐待に嬉々として没頭するようになったほどだ。このアトリエは、画家だった父の生前は仕事場として使われていたが、今は美里奈の遊び場となっている


 幼いころ、美里奈の虐待対象は蟻やダンゴムシといった小さな虫だった。子供のころ、誰もが積極的ではないにせよ踏み潰したり、弄んで殺したような小さな生き物。


 だが、次第に虫では満足できなくなり、やがてもう少し大きな動物へと手を出し始めた。殺す動物は美里奈の気分によって違うが、今はハムスターがお気に入りらしい。手頃な大きさと、虫よりも表情豊かに反応を見せてくれるところが好きなようだ。


「あ……もう動かなくなった」


 美里奈は不意にボール紙に磔にされたジャンガリアンへと目をやって、特に感慨もなく呟いた。見れば、先ほどまで微かに痙攣していた身体もすでに静止している。もはやそれは命ある生き物ではなく、冷たい毛と皮と肉の塊と化していた。


 だが、美里奈に取ってはただ『動かなくなった』というだけだ。それが死んだということの意味さえも、心に麻酔を打たれたように薄らいでしまっている。


「明日、燃えるゴミの日だから、ちゃんとまとめとけよ。俺が出しといてやる」


「えー、飾っちゃダメ? せっかくいい感じにできたのに」


「もう五月だぞ。飾っといてもすぐ腐るだけだろ」


「うーん、じゃあしょうがないね」


 天真爛漫に答えながら、美里奈はボール紙ごと死骸を作業机の傍に置いたゴミ箱へと捨てる。その中には、今夜虐殺した他のハムスターも数匹、屍となって重なっていた。


 この近所に他人の捨てたゴミ袋の中身を漁る変人はいない。普通に地域指定のゴミ袋に入れて生ゴミとして捨てれば、この虐待行為が露見する気遣いはなかった。


 美里奈は座ったまたキャスター付きの作業椅子をくるりと回転させ、床を蹴ってアトリエの床を反対側の壁へと移動する。


「さーて、次はどのコで遊ぼっかなー?」


 壁際の棚の上に置かれているのはハムスターのケージ。金属の格子の三階建てで、中には十匹前後のハムスターがひしめいている。


 水を飲んでいるのもいれば、回転車で走っているのもいる。中にしつらえた小屋の中で縮こまっている個体もいる。どれも似たような見た目なので識別には自信が無いが、どうやら以前に確認したときよりも増えているようだ。


 もちろん、一つの檻による多頭飼育は推奨された方法じゃない。


 ハムスターは見た目に反して攻撃的な生き物だ。同じ種類であっても一つの檻の中に押し込められればその歯で殺し合い、食らい合う。さらに、オスとメスを同じ空間に入れれば、その旺盛な繁殖力で交尾を繰り返し、たちまち頭数を増やしてしまうことだろう。


 だが、それらが問題になるのは、あくまでペットとして飼う場合だけだ。玩具として命を弄ぶ分には、前者はどうでもいいし、後者はむしろ都合がいい。


 逆にこうやって美里奈がいつまでも遊びに興じて、際限が無いのが困りものなくらいだった。


 棚には、ハムスターのケージだけじゃなく、その他にもいくつも空っぽの生物用の容器があった。円錐形の鳥籠に、アクアリウム用の水槽。子供が使うような虫籠もある。


 それらはすべて、美里奈が殺してきた生き物のための入れ物だった。


「今日はこのくらいにしとけよ。そろそろ風呂に入れ」


「えー」


「えー、じゃない。遊びに付き合ったらちゃんと入るって約束だろ」


「むー、わかったよ。しょうがないな。よっと」


 不満げに唇を尖らせながら、美里奈は椅子から降りる。だが、それはただの気まぐれからくる演技だ。美里奈は真実不満になど思っていない。


 ストレスを感じる、という人間ならば誰もが当たり前に持っている機能が、美里奈の場合は根本的に壊れているのだから。美里奈は常にストレスがなく、この世のすべてがきれいに見えている。


 戦争、犯罪、差別、貧困、災害、虐待――高校生とは、そんな醜悪なもので満たされたこの現実世界をそろそろ認識し始める時期だ。


 だが、美里奈の精神はそれら目をそらしたくなるようなもの一切を許容し、輝けるものとして楽しんでいる。


 肉体的・精神的な無痛症と表裏一体の多幸症。それこそが美里奈の人格を形作っていた。


「というわけで、お兄ちゃん。一緒にお風呂入ろっか」


「何がというわけで、だ。入るわけないだろ」


「だって、一人で入るのって寂しいし」


「……さっき『過保護』って言ってたのはどの口だよ」


「いいじゃん。子供のころはよく一緒に入ってたでしょ?」


「子供のころだからだろ。今は違う」


「違わないよ。今でも別にOKでしょ。背中洗いっこしようよ」


「少しは年齢を考えろ。高校生は普通にアウトだろ、いろいろと倫理的に。それに、小さいころだって仕方なく入ってただけだ」


「『仕方なく』って?」


 首を傾げる美里奈に、俺はため息をつく。どうやら本気でこいつ、幼いころはただ一緒に入浴することを楽しんでいたらしい。こちらの苦労も知らずに。


「おまえが熱さもわからないからだよ。一人で入ったら、勝手にお湯を足して火傷する。だから、監視役が必要だったんだ」


「へぇ、そうだったんだ……初耳」


「とにかく、子供じゃないんだから一人で入っても大丈夫だろ。だから、入ってこい」


「むー、しょうがないなぁ」


 あれだけ食い下がっていたのに、いとも容易く意思を翻す。その物分かりの良さも、苦痛を覚えない感性の裏返しだった。


 美里奈の中にある判断の尺度は「快い」か「より快い」しかない。俺と一緒に風呂に入りたいからといって、一人で入ることが嫌だというわけでは決してないのだ。どうしても避けたいような不快な事態など、美里奈には存在しない。


 そのこだわりの薄さは見ていて不安になるほどだった。まるで、「面白そう」だと思えば自分の命さえも容易く放り捨ててしまいそうで。


 事実として、異様に細いその体躯も、あまり食事を摂らないせいでもあった。食べることが嫌というわけじゃない。だが、空腹を感じてもそれを苦しみと認識することができない。だから、肉親である俺が油断すると、平気で何色も抜かして、栄養失調に陥ってしまう。たとえ食べたとしても、口の中を火傷したり、怪我をするほど固い食物は避けなければならない。


「じゃ、さっさと済まそうかな」


 言いながら、美里奈はワンピースの胸元のボタンを外し始める――俺の目の前で。


「おい、脱ぐなら脱衣所で脱げ。だらしないぞ」


「平気だよ。ちゃんと洗濯機まで持ってくし」


「そういうことじゃなくてな――」


 言いかけて、言葉を呑んだ。


 はだけた胸元。美里奈の病的なほどに白い肌。まるで人形かと見紛うほどの滑らかな皮膚に一点、まだ新しい火傷の痕が生々しく残っていたから。


「おまえ、その火傷どうしたんだ?」


「ん? ああ、これ? 大したことじゃないよ」


 それに対し、何事もないかのように美里奈は微笑み――そして、口を開いた。


「この前、クラスの高橋さんたちと一緒に遊んだんだ。みんなにトイレの中に連れ込まれて、服脱がされて、ライターで炙られたの。それだけだよ」


「……っ」


 いつも通り、まるで苦にもせずに語る美里奈。その口調だけ聞けば、クラスメイトたちと楽しい遊びに興じたかのようにさえ思えるほど。その様子がかえって痛々しい。


 強がっているわけじゃない。虚勢を張っているわけでもない。本当に美里奈はそれを大したことじゃないと思っている。


 自分の命も、他者の命も、その価値を希薄にしか感じることができない。その性質から、これまでにも何度も美里奈はいじめを受けてきた。小学校でも、中学校でも。いや、それ以前に死んだ両親さえも我が子に手を上げることが日常茶飯事だった。


 だが、たとえどんなに酷いことをされても、妹は身を守ることができない。自分を大切にすることができない。加害されているという意識すら抱くことができないのだから。


 俺は言葉もなく、ただゆっくりと美里奈の身体に腕を伸ばし、引き寄せるように抱き締めた。普段は服の下に隠れた白い肌。その表面には、今までの人生で受けた迫害の傷跡が今も無数に残っている。中には、実の両親から受けた折檻の跡もある。


 俺の腕の中に美里奈の細い身体を感じる。こうして触ると、まるで硝子細工だ。少し力を込めれば砕けてしまいそうなほど脆く、弱弱しい。


 そして、美里奈はおかしそうに身じろぎをした。


「くすぐったいよ、お兄ちゃん。どうしたの?」


 思わず、その細い身体を強く抱き締めてしまっていた。本来ならば痛いはずなのに、美里奈はただこそばゆさに笑いながら、戯れるように抱き締め返してくる。


 美里奈の体勢からは、俺の表情は見えない。だが、たとえ見えたところで、どうして俺が悲しんでいるのか真実理解できないことだろう。


 その肌に残った無数の傷を手で確かめながら、人の残虐性について考える。


 人間の中で、小動物を虐め殺す美里奈だけが特別残虐というわけじゃない。他者を攻撃し、痛めつける――それは人ならば誰もが持っている性質だ。


 いや、人に限らない。ハムスターも、猫も、犬も、動物なら多かれ少なかれ、弱者を甚振る残虐性を持ち合わせている。


 ただ、美里奈は人間ならば誰もが持っている、残虐から目を逸らし、上っ面を取り繕う能力に欠けているだけだ。


 命の大切さを叫びながら、スーパーに並ぶ肉を食らい、虫を潰しながら保健所で処分されるペットに涙を流す。そんな狡猾な道徳性を生まれつき持てない性質だっただけのこと。


 だから、美里奈が悪だとは思わないし、痛めつけられることが当然の報いだとも思わない。たとえ、美里奈本人が他者から受ける迫害を迫害だとすら思っていなくとも。


 ――俺が守らなければ。


 妹の身体を抱きしめながら、俺は心の中で己に誓う。


「もう……甘えんぼだなぁ、お兄ちゃんは」


 その一方で俺の心中など知る由もなく、美里奈は呑気にそう言いながら、子供をあやすように、俺の背中を手でぽんぽんと叩いていた。


 美里奈はすべてを包み込む。


 まるで、この世のあらゆる醜悪を全肯定するように――

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