第2章 無痛症

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 台所の棚の奥からアトリエの真ん中へと引っ張り出してきた、古い1リットルのミキサー。本来なら果物か野菜が入れられることを想定しているはずの透明なプラスチック容器には、今は羽根も生え揃っていない黄色のヒヨコが一匹、セットされていた。


 自分が今入れられている機械が何のためのものなのか知る由もなく、生贄はミキサーの内部を歩き回る。甘えるような囀りが容器内からくぐもって聞こえてきた。そして、時折目の前の透明な壁を不思議がってか、未熟な嘴でしきりに突いている。


 美里奈は蓋をしっかりと取り付けたことを確認すると、おもむろにミキサーの底部付近に備えられたツマミへと指を伸ばす。


 無造作に『入』へとツマミを回した瞬間、けたたましい音を立てて駆動する底部の回転刃。


 黄色かった幼鳥の身体は一瞬にして破砕され、血と内臓の入り混じった赤い肉塊へと解体される。最初の数秒はバラバラになった肉片が目視できたが、それらがミキサー内部に跳ね上がり、再び底面へと落ちると刃でさらに細かく砕かれた。それを何度も繰り返すうちに、ミキサー内部に堆積していくペースト状の何か。


 さすがに野菜や果物と違って水分が少ないせいか、思ったほど半液状にはならない。ミキサー内の物体は、スーパーで売られている鶏肉のミンチとさほど変わるところはなかった。黄色い羽毛が肉のところどころに見えている点を除けば。


「お兄ちゃん、知ってる? オスのヒヨコって、工場で選り分けられて、シュレッダーみたいな機械でバラバラにされるらしいよ。成長して鶏になっても卵産めないから」


 ガタガタと振動するミキサーの蓋を手で押さえながら、得意げに豆知識を開陳する美里奈。


「へえ。よく知ってるな、そんなこと。美里奈は物知りだな」


「前にネットの動画で見たんだ。すごいんだよ? 刃が何本もある機械の上にヒヨコがたくさん乗せられて、スイッチ入れたら、一気に挽肉みたいになっちゃうんだよ! すっごくきれいなんだから!」


 身振り手振りを交えて、オスのヒヨコが処分される動画の魅力を一心に伝えようとする美里奈。その間にも、ミキサーの中の挽肉はますます細かく切り刻まれていく。それがほんの数十秒前までは生き物だったと言われて、何人が信じるだろう?


 数日前、台所を掃除していたらたまたま古いミキサーを発見してからというもの、美里奈は小動物をミンチへと変える遊戯にすっかりハマってしまった。おかげで二十匹近くに繁殖していたハムスターがあっという間に数を減らし、ついには一匹残らず肉片に成り果てたというわけだ。


 そして仕方なく、俺がバイト先のペットショップで売れ残っていたヒヨコを貰ってきた。美里奈への生贄は、だいたいそうやって調達してくる。店長には『知り合いの引き取り手を探している』と言っているが、まあまったくの嘘とまでは言えないだろう。


 ――ただ、引き取ったあと殺すことを黙っているだけで。


 もっとも、そんな風にして俺がどれだけオモチャを仕入れても美里奈は瞬く間に殺し尽くしてしまうのだが。


 ……そんなことを考えていた時。不意にミキサーの中でガタガタと金属部品が引っかかるような不快な音が聞こえたかと思うと、回転刃は動作を停止してしまった。


 静寂の後には、透明プラスチックの底に溜まった肉塊と赤い血があるばかりだ。


「あれ? 止まっちゃった。おかしいな。壊れてるのかな?」


「元々壊れかけてたんだ。だから棚の奥に仕舞っておいたんだよ。ハムスターもヒヨコも、何匹も殺したから刃がダメになったんだろ」


「そっか……でも、もう一回くらい動かないかな?」


 既に原型を失った、かつてヒヨコだったもの。それをまだ切り刻み足りないのか、美里奈はしきりにツマミを回してみたり、容器を叩いたりしてミキサーの様子を確かめている。


 そんな美里奈の二の腕に、俺は視線を吸い寄せられていた。ワンピースの袖から覗くきめ細やかな肌。そこには、生々しい火傷の痕跡がまた一つ増えていた。まだ新しい。恐らくは今日、学校で付けられたものだろう。


「…………」


 火傷痕を見ながら暗澹たる気分に包まれる。


 斎藤先生に美里奈が受けているいじめについて相談をしてから一週間。斎藤先生からも、担任の萩村先生からも、いじめの主犯格である高橋さんに注意がなされたらしいが、一向にいじめが収まる気配はない。


 むしろ、先生に告げてから妹の身体の火傷の数は急速に増していった。


 どれだけ傷付けても痛がらない、苦しまない、だから抵抗しない――そんな都合の良い玩具が反抗したと思って、逆上したのだろうか。


 俺が美里奈のためを思ってやったことは、ただいじめをエスカレートさせる結果にしかならなかった。そのことに内心忸怩たる思いだった。


「あ、動いた!」


 美里奈が何度目かツマミを回した時、再びミキサーは音を立てて動き始めた。


 容器の中でさらに形を失っていく血塗れのミンチ。その光景を美里奈は楽しげに見守っている。


 自分が傷付けられたことなど意に介さず、凄惨な光景を宝石でも鑑賞するかのように眺めている。


 美里奈は自分の身を守れない。痛みも苦しみも無い彼女には降りかかる火の粉を払う理由もないのだから。


 だからこそ、俺が守らなければいけないのに――


 己の無力さに歯噛みしながら、俺は拳を握り締めていた。




「そう……やっぱり、まだ続いてるのね」


 保健室の事務椅子に腰を下ろしながら、斎藤先生は大儀そうに嘆息した。


 まだ三十も越していないはずなのに、その眉間に刻まれた苦悩の皴は数を増していく一方。それを不憫に思いながら、俺は彼女に状況を問い詰める。


「やっぱり、っていうのは?」


「あまり陰口は言いたくないけれど……一年七組の荻原先生は事無かれ主義な人でね。いじめなんて厄介なことには首を突っ込みたがらないの」


「自分のクラスなのに……?」


「ええ。ナイーブな問題だもの。それに、私も高橋さんを呼び出して、いじめをしているかどうか聞いたけど……何もしていないって答えたわ」


「嘘だ」


 先生が言い終わるか言い終わらないかのうちに、俺はそう断じていた。


 美里奈の身体に残った傷跡が何よりの証拠だ。何より、あいつ自身に嘘をつく理由がない。


「ええ、私もそう思う。他の一年生にも何人か話を聞いたわ。そうしたら、よく高橋さんたちが美里奈ちゃんをトイレに連れ込んでるのを見たって子がたくさんいた」


「高橋さん自身は何て?」


「『身に覚えが無い』って。他のクラスメイトにとっては周知の事実なのに、高橋さんとその友達だけが否定してる。文字通り示し合わせたようにね」


「……口裏合わせってことですか」


 思ったより陰湿だし徹底している。妙な言い方だが、高橋さんという女子生徒はいじめに慣れているのだろう。無論、いじめる側としてという意味で。


 どんなターゲットを選べば安全圏からストレスを発散できるか。どのような場所でやれば先生たちが手を出せないか。どんな取り巻きを侍らせれば、裏切って密告されずに済むか。


 小さいころからの加害者で、そういった負のノウハウを蓄積しているのに違いない。これは予想以上に手強そうだった。


 だが、何か対策を打たなければ。これ以上美里奈が傷付けられるのを傍観するのは耐えられない。


 ならば、いっそのこと――


「何とか高橋さんと話は続けてみる。だから、良一くんも早まったことはしないでね」


 俺の考えを読み取ったかのように、斎藤先生はそう釘を刺した。


「乱暴な手段で解決しようとしても、それは一時的なもの。あなたも美里奈ちゃんも、より生きにくくなってしまうだけ。そのことは努々忘れないで」


「……ええ、わかってます」


 わざわざ忠告されるまでもない。一瞬だけ頭に浮かんだ短絡的な考えはすぐに捨て去っていた。


 確かに俺も、幼い頃は美里奈を虐める相手に暴力で対抗したこともあった。


 それでいじめが沈静化したこともあるにはあったが払った代償も大きい。何度か転校を繰り返す羽目になったのは、俺の勇み足のせいもある。


 小学生のころならまだそれでもリスクに対して得られる結果は釣り合っていたかもしれない。だが、高校生の今となっては同じことをするには状況が違いすぎる。


 仮に俺が法を犯し、それが露見して離れ離れになってしまったら、もう妹を守れる存在は傍にいない。


 やはり時間をかけてでも穏当な手段で解決するのが一番だ。不幸中の幸いというべきか、美里奈がいじめを苦にして自殺をするという可能性は万に一つも無い。いじめを受ける一因となっている苦痛やストレスという概念を持たない不感症――そのおかげで最悪の事態だけは避けられるというのは、皮肉というほかなかった。




 保健室のドアから廊下に出る。夕焼けの光が窓から差し込み、昼間には染み一つない白いリノリウムの廊下を血のように赤く染めている。


 それはまるで表向きは清潔に装ったこの学校という箱庭が本性を垣間見せているようで、ひどく不気味だった。


 俺はしばらくの間佇んでその光景を眺めていたが、やがて歩き出す。


 今日、美術部の活動は無い。美里奈を迎えに行って一緒に帰るとしよう。そう思って、俺は美里奈の教室を目指して廊下を進んでいく。そして、二年生用の校舎と一年生用の校舎を結ぶ渡り廊下を進んでいた時、不意に向こうの曲がり角へと消えていく一年生女子のグループを見つけた。


「……!」


 5、6人で連なって歩いていく女子たち。普段なら別段気にも留めないほどにありふれた光景だ。だが、俺が息を飲んだのは、そこに美里奈の後ろ姿があったから。


 考えるよりも先に身体が動いていた。床を蹴り、曲がり角を折れる。


 そして、そこには足音に驚いたように振り返った一年生たちと美里奈の顔。さらに、その向こうには女子トイレの入り口があった。


「あ、お兄ちゃん!」


 女子たちのグループから離れ、美里奈が駆け寄って来る。そして、その勢いのままに抱き着いてきた。


「うわっ、と……」


 美里奈の細く、か弱い身体を腕で抱き留めながら、一緒にいた女子たちの表情を見る。


 一瞬だけだが、彼女らの顔には白けたような不満げな色が浮かんでいた。恐らくは、これから始めようとしていた『楽しみ』を邪魔されたことによる憤慨によるものだろう。


「……何をしてたんだ?」


 俺は美里奈の身体をゆっくりと離しながら問いかける。


「これから一緒に遊ぼうとしてたところ。高橋さんたちに誘ってもらったから」


 引き離されてもなお抱き着こうとする美里奈を押さえながら、俺は女子トイレの前の一年生を見回す。そして、雰囲気で『高橋さん』が誰かはわかった。彼女らの中でも一際整った容姿で、しかもそれを自覚しているように自信に満ちた少女。


 グループの他の女子生徒たちが多少なりとも動揺している中、彼女だけは悠然としている。さらに、他の全員がまるで女王の意向を窺う侍女であるかのように、しきりに彼女の方を視線で窺っていることからもリーダーであることは明らかだった。


「……悪い。ちょっと用事があるんだ。妹を連れて行ってもいいかな」


 務めて平静を装いながら、真っすぐに高橋さんへと問いかける。


「いいですよ、もちろん。用事なら仕方ありませんから」


 高橋さんは平然と微笑むと、美里奈へと向き直った。


「一緒に遊べないのは残念だけど……また明日ね。芦屋さん?」


「うん! また明日!」


 自分を虐めている相手に対して、美里奈は満面の笑みを浮かべて手を振った。


 そして、高橋さんたちはそれに対して作ったような笑顔を向けて、女子トイレに入ることもなくその場を歩き去っていく。だが、その瞬間、高橋さんが制服のポケットに隠すように何かを突っ込むのを忘れなかった。


 ――それはどこにでも売っているような百円ライター。だが、普通の高校生が学校の中で持っているはずのない代物。


「…………」


 俺はその後ろ姿が曲がり角の向こうに消えるまで、ただじっと見つめていた。彼女らは振り返ることなく、声を潜めながらくすくすと笑い合っていた。その声から滲み出る悪意には虫唾が走るほどだった。


「……? お兄ちゃん? どうしたの? 不機嫌そうな顔して」


「……いや、何でもない。一緒に帰ろうか」


「うん!」


 今まさに危害を受けるところだったにもかかわらず、そのあどけない笑みには曇り一つ無い。


 ――イジメを受けている最中も、この笑顔を浮かべていたのだろうか。


 いや、考えても仕方ない。とにかく今だけは美里奈を守ることができた。これからもなるべく登下校は一緒に行動しよう。


 それでも、学年が違う以上美里奈のそばに四六時中いるわけにはいかないが――


 そう考えていた時、俺のスマホが着信音を鳴り響かせた。


「電話?」


「ああ、ちょっと待っててくれ」


 手に取って見ると画面には電話番号の代わりに『公衆電話からの着信です』のメッセージ。


 怪しすぎる。当然、すぐに赤色の拒否アイコンをタップして切った。どうせイタズラ電話か何かだろう。


 ――が、その後間を置かずに再び着信。見れば画面にはまた同じメッセージ。


 この分じゃ、切ってもまたしつこく電話が掛かってくるに違いない。仕方なく、俺は緑色の応答ボタンを押さざるを得なかった。


『あ、もしもし、良一! もう、酷いよ! 出もしないで切るなんて!』


「何だ、若葉か……スマホから掛けて来いよ。どうして公衆電話なんだ」


『それが、学校に忘れちゃってさ……回収して、明日学校で持ってきて欲しいんだよね』


「いいけど……おまえ、まだ学校じゃないのか?」


 スマホの時刻を確認すると、最後の授業が終わってからまだ20分も経ってない。今日は美術部の活動は無いから居残る理由も無いとはいえ、それほど急いで学校から離れるのも奇妙だった。


『いやー、実は今日、バイトが一人風邪で休んじゃったらしくて。大至急シフト入ってほしいって店長から電話かかってきてさ。ついOKしちゃったんだよね。で、あんまり慌ててたもんだから、そのままスマホも置いちゃって』


「そそっかしすぎるだろ……」


 若葉は市内にあるファミレスのチェーン店でバイトしている。部活動にバイトになかなか青春に精を出しているらしい。まあ、俺も一応武術部副部長でバイトもしてるから同じようなものだ。ただ違うのは、俺はすっかり幽霊部員を決め込んでいるという点だが。


『お願い! 明日の朝、駅で渡してくれたらいいから、回収しといてくれない?』


「しょうがないな……わかったよ」


『ありがと! さすが良一! 心の友よ!』


「で、スマホ忘れたのってどこだ?」


『美術室! 一番前の席! 電話来たの、美術の授業の後だったからさ。鍵閉められる前にゲットしといて!』


「OK。任せとけ」


 通話を終え、俺はポケットにスマホを突っ込む。


「ふむふむ、なるほど……」


「……で、だ。美里奈、他人の電話を盗み聞きするのはマナーが悪いぞ」


「だって、気になるし……」


 さっきから興味津々といった様子で美里奈は俺のスマホの反対側から耳を当てていた。若葉との会話もすべて筒抜けだったことだろう。


「まあ、説明の手間が省けた。俺は美術室に行くから、美里奈は先に――」


 帰っててくれ、と言いかけて前に美術部の活動に顔を出した時のことを思い出す。あの時、美里奈は結局一人で帰らずに俺の下校を待っていた。


 恐らく、さっきの一件で高橋さんたちはいつもの『遊び』ができずにストレスを溜めているに違いない。ついさっき間接的にイジメを中止させられたばかりでまた美里奈に手を出すほど豪胆ではないと思うが、それでも妹を一人にするのは避けたいところだった。


 何、どうせ大した用事じゃない。一緒に行けばいい。


「……やっぱり一緒に行くか」


「うん! 美術室探検だね!」


 屈託のない笑顔で頷く美里奈。


「探検ってほど長居はしないけどな。下校時刻に近づいたら、鍵掛けられるだろうし」


 俺はそんな妹を伴って、美術室へと向かって歩いていくのだった。


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