第5章 終わりの足音

5-1



「ふんふ~ん……♪」


 それから二週間ほど。


 美里奈は美術部の活動日になると欠かさず美術室に顔を出し、絵の練習に精を出していた。


「もっとオイルたっぷり付けてもいいと思うよ。最初の方はね」


「わかりました! たっぷりですね!」


「そうそう! そんな感じ! 飲み込み早いね、美里奈ちゃん」


 その横では、若葉が感激した様子で美里奈の絵を見ながら基本的な技術を教えている。若葉の専門は水彩画だが、実際は油彩もペン画もパステル画も、どんな技法だろうと卒無くこなす。教える側としてみるなら、黒森以上に適任かもしれない。


 そんな二人の姿を、俺は相変わらず鉛筆画のデッサンを適当に描きながら、時折横目に眺めていた。


 若葉にとって幸運だったことには、美里奈は美術部では黒森のようなグロテスクな絵を描こうとはしなかったことだ。その描く対象は花やワイングラス、果物といった一般的な静物だけ。


『死』を描くことにこだわりを持っている黒森と違って、美里奈はどんな絵でも楽しめる。その違いだろう。おかげで若葉も美里奈の絵から目を逸らすことなく、すぐ傍で指導に当たれるというわけだった。


「いやぁ……すっごく上達早いね、美里奈ちゃん! 教えてる甲斐があるよ」


 まるで我が子か妹の成長を見るように感慨深そうに言いながら、若葉はうんうんと頷いていた。


「もう、良一。どうして美里奈ちゃんを誘ってくれなかったの? 副部長として怠慢だよ!」


 びしっとこちらに指を突き付けながら責める若葉。


「俺だって知らなかったんだ。美里奈がこんなに絵の才能があるなんて。それに、前までは興味も無かったみたいだしな」


「うん! 綾乃ちゃんが絵を描いてるのを見て、私も描きたいって思ったんだ!」


 俺の言い訳に、美里奈が補足するように言い添えた。


 すると、若葉は怪訝そうな顔をする。


「綾乃ちゃん……って、黒森さんのこと?」


 不思議そうに首を傾げる若葉に、そう言えばまだ美里奈と黒森のことを教えていなかったのを思い出した。といっても、例によってすべて説明するわけにはいかない。詳しく話そうとすれば、動物虐待のことに触れざるを得ないからだ。


「ああ……最近美里奈と仲良くなってな」


「へぇ……そうなんだ」


「うちに父さんが使ってたアトリエがあるから、使わせてやってるんだ。ほら……あいつの絵、公の場で描くにはちょっと刺激が強いだろ?」


「そ、そうだね……確かに、あの絵はちょっと……私には、ショッキングすぎるかな……」


 幸いなことに、若葉の方が気まずそうに視線を逸らした。美術部部長なのに、後輩である黒森の絵を直視できないことを気に病んでいたほどだから、まるで自分が追い出したようで負い目を感じているのだろう。


 それは勘違いで、実のところ美術部一年の間でのイジメが原因なのだが――それを教えれば教えたで、また部長として責任感に苛まれるだろうから、黙っておこう。


「ふんふ~ん♪」


 美里奈も絵を描くことに夢中で、余計なことを漏らしたりはいない。歌を口ずさみながら、楽しげに絵筆を動かしている。


「……良一も、黒森さんと良く話すの?」


「……? ああ、話すけど」


 その時、若葉が美里奈や他の部員たちに聞かれるのを憚るように、声を低めて質問した。


「じゃあ……ちょっと二人で話したいんだけど……いいかな?」


「……ああ」


 俺が頷くと、若葉は席を立ち、廊下の方へと歩いていく。美里奈はそれを気にもしない様子で、絵を描き続けていた。


「ちょっと席外すぞ」


「うん! 行ってらっしゃい!」


 俺が一言声を掛けても、ただひたすらに描画作業を続けていく。どうやらよほど熱中しているらしい。


 美里奈の返事を確認した後、俺は若葉の後へとついていって、美術室から外に出た。


 昼休み、美術室付近の廊下は滅多に人が通らない。この棟は美術室の他にも家庭科室や理科室といった移動教室が集められた校舎なので、休み時間には美術部員くらいしか通る用が無いからだ。


 それでも、人目を憚るようにやや美術室の入り口から離れたところまで歩いて行って、若葉は俺を振り返った。


「……で、話したいことって何だ? みんなの前じゃ言えないことか?」


「うん……ちょっと良くない噂を聞いちゃって。黒森さんのことについて」


 どこか真剣な表情で、若葉は言う。どこか躊躇した様子ながらも、言葉を選ぶように口を開いた。


「黒森さんが美術部に来なくなったの……他の子たちに虐められたからだって聞いたの――良一、何か知らない?」


「…………」


 若葉の問いかけに、どう答えたものか迷う。やはりというべきか、こいつの耳にも黒森が受けていた迫害のことは及んでいたらしい。


 まあ、スケッチブックをゴミ箱に捨てたり、人に見られるような場所で詰め寄ったり、加害者の方もろくに隠蔽をしていなかった様子だから、当然だが。


 数秒ほど迷った末に俺は頷いた。若葉の様子は疑念というより、ただ裏付けを取るような態度だった。そこまで知っているのなら、隠しておいても仕方ない。


「ああ。確かにそうだ。黒森は美術部の一年からいじめられてた。一年生のグループがごっそりこなくなっただろ? そいつらだ」


「……やっぱり、そうだったんだ。宮野さんたちが……」


 宮野――それがあの生徒たちのリーダーなのだろう。ろくに話しもしないまま部活からフェードアウトしていってしまったので、名前すら覚えていない。


 悲しげに目を伏せながら、若葉は呟いた。その姿は見ているこちらの方が痛ましくなるほどだった。


 別に若葉が自責の念に駆られる必要なんて無い。黒森自身、イジメが露見すると面倒だと思って、隠していたんだ。それに、部長とはいえ、あくまで生徒である若葉にそこまで求めるのは酷というものだろう。


「でも、気にするなよ。もう終わったことだ。黒森も、加害者の連中も部活には来なくなった。それに、黒森は今でも俺の家で自由に絵を描いてる。丸く収まった」


「そう、なの……? でも、時々、黒森さんが宮野さんたちに呼び出されてるのを見たって、一年生の子が言ってたよ?」


「……何?」


 若葉の告げた事実は寝耳に水だった。


 以前、黒森へのイジメの現場を押さえた時点で、迫害は止んでいたと思っていた。黒森も、イジメの加害者グループも美術部へと顔を出さないようになった。向こうからすれば、黒森が美術部での活動中にグロテスクな絵を描くのをやめさせる、というのが大義名分だったのだから、現状ではもう黒森を攻撃する理由は存在しない。


 だが――それを言うなら、イジメに理由なんて無い。ただ、『異端を排除する』というもっともらしい目的があったから、それで正当性を偽装しているだけ。


 イジメの現場を副部長である俺に目撃され、連中は美術部の活動に出ることができないようになった。それを逆恨みしているというのは、あり得ない話じゃない。


「くそ……」


 思わず口を突いて出た悪態は、自分に対してのものか、それとも被害が続いていることを黙っていた黒森に対するものか。自分でもわからなかった。


「良一?」


 若葉は不安げに俺を見つめる。


「いや、何でもない。とにかく、黒森のことは俺に任せてくれ」


「いいの……?」


「ああ。心配するな。いつも仕事を押し付けてばっかりだからな。たまには副部長らしいことをするさ」


「……うん。ありがとう。ごめんね、何もできなくて……」


 俺が言うと、若葉もまだ心配そうにしながら頷いた。


 とにかく、まずは確認することだ。黒森へのイジメが本当に今も続いているのか。


 それには本人に直接問い質すのが一番手っ取り早い。


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