2-2
そして、美里奈と共に美術室の前へと辿り着き、ドアへと手を伸ばしかけた時――中に誰かの気配を感じた。
「……? 誰かいるの? お兄ちゃん」
「ああ、みたいだ」
今日、美術部の活動は無いはずだが、明らかに中からごそごそと物音がする。
俺はドアに嵌め殺しにされたガラス窓から美術部内の様子を覗き込む。普通の教室のスクールデスクより大きい、複数人掛けの美術机。そして壁際に片付けられたイーゼルに石膏の胸像。そんな物品が並ぶ部屋の中、机の下で辺りで女子生徒の制服のスカートとそこから伸びる黒タイツの足がもぞもぞと動いている。どうやら、机の下で何かを探しているらしい。
「何やってんだ、あれ……?」
「かくれんぼかな?」
「だとしたら、頭隠して尻隠さずって感じだけどな……」
俺と美里奈がドアの外、小声で話していると、やがて女子生徒は机の下から立ち上がった。
「……ここにも無い、か」
スカートに付いた埃を手ではたき落としながら、落胆したような独り言を呟く、眼鏡をかけた女子生徒。その顔と声はどこか覚えがあった。
確かあいつは、美術部一年生の――
「黒森さんだ!」
俺がその名前を思い出すより前に、美里奈は声を上げて美術室のドアを勢いよく開いていた。
「うわっ!? な、何……!?」
眼鏡の奥の目を見開いて、驚いた様子で俺たちを見ている。その顔はやはり黒森――美術部の活動でウサギの死骸を描いていた、あの陰気な一年生だった。
「黒森さん、見ーつけた!」
腰に手を当て、もう片方の手で黒森へと得意げに人差し指を突き付ける美里奈。
「え……かくれんぼ? っていうか、芦屋さん……?」
突然現れた美里奈に困惑する黒森。どうやら顔見知りらしい。……そう言えば、二人とも同じ一年七組だったっけか。俺は妹の後ろから、ため息をつきながら美術室へと足を踏み入れる。
「悪い。妹のことは気にしないでくれ。いつもこういうノリだから」
「あなたは……確か、幽霊部員の……」
「副部長と呼べ。ま、幽霊部員っていうのは否定しないけどな」
「……そうですか。確か名前は、芦屋良一……先輩でしたね。そっか、芦屋さんと兄妹だったんですね」
さほど感慨を覚えた様子でもなく、黒森は淡々と事実確認のように呟いた。その態度だけを見ても、黒森と美里奈がさほど親しい友達というわけではないのはわかった。
もっとも、美里奈にはそんなことは関係ないだろうが。
「黒森さんも、木下先輩から頼まれたの? スマホ探し!」
「スマホ……? 何ですか、それ……?」
美里奈の質問に怪訝そうな反応を返す黒森。案の定というべきか、別に若葉から頼まれたわけじゃないらしい。若葉は間違いなく黒森を苦手に思ってるし、最初からそんな可能性は薄いと思ってたが。
「若葉から頼まれたんだ。今日の授業で、美術室にスマホを忘れたから探してくれって」
「そうなんですか。部長のスマホ……それらしいのは見つけましたよ。さっき、そこの席にありました」
思い出すようにゆっくりと黒森は最前列の机を一つ指差す。そこに近づいて下を見てみると、机の下の道具置きスペースに鮮やかなピンク色のスマホが置き忘れられていたのを発見した。
間違いない、若葉のスマホだ。
「これだな。ありがとう黒森」
「……別に。たまたま見つけただけですから」
ぷい、と不愛想に顔を背けて、黒森はすたすたと歩いて行った。そして、また元通りに机の下を探し始める。
取り付く島もないとはこのこと。全身から『話しかけるな』オーラが漂っているのが目に見えるかと錯覚するほどだった。
だが、美里奈にはそんなオーラなど見えるはずもなく――自然、黒森の傍へと人懐っこい小動物のように近づいていった。
「黒森さんも何か探してるの?」
「……関係ないです。芦屋さんにも、芦屋先輩にも……」
「私のことは美里奈でいいよ。お兄ちゃんも芦屋だからややこしいし」
「そんな馴れ馴れしい呼び方、できません」
「気にしなくていいのに。スマホ見つけてくれたし、お礼に手伝ってあげる!」
「だから、構わないでくださいって……! 手伝ってほしいなんて言ってませんから」
言葉遣いは相変わらず敬語のままだが、やや苛ついた様子で黒森は釘を刺した。そして、今度は無視するように何かを探す作業を続ける。
「んー……そっか」
そして、美里奈は少し考え込むようにした後――黒森が探しているのとは別の机の下に潜り込んで探し始めた。
「……何やってるんですか? 手伝う必要ないって言ってるじゃないですか」
机の下から頭を戻し、黒森は怪訝そうな視線を美里奈へと投げかけた。
「手伝いじゃないよー。これはただの宝探し。私が一人でやってるだけの遊びだよ」
「え……?」
「でも、途中でたまたま黒森さんの物っぽいのを見つけたら、教えてあげるね?」
「……何ですか、その屁理屈は」
美里奈の返答にさすがに怒る気力も無いのか、黒森は深々とため息をつく。
「悪いな、諦めてくれ。美里奈はこういう奴なんだ」
「ふぅ……ずいぶんとできた妹をお持ちのようですね、芦屋先輩は」
「そうだろ? 自慢の妹だ」
「皮肉なんですが……もしかして、シスコンですか?」
「失礼な……まあ、とにかく。この調子だから、何を探してるか教えた方が良いと思うぞ。その方が早く見つかるし、俺たちも早く帰れる」
「……そうですね。仕方ありません」
黒森は観念したように嘆息する。
「探しているのはスケッチブックです。F4サイズの、普通のタイプです」
「スケッチブックだね。了解!」
「OK。じゃあ、俺も探そう」
「……勝手にしてください。お礼は言いませんからね」
「ああ。俺もただの『宝探し』だからな」
「……似た者兄妹ですね、まったく」
そう皮肉を呟いたきり、彼女も強いて俺たちの協力をやめさせようとすることもなく、黙々と探し続けた。
「どっこっかなー? どっこかなー? お宝はどっこかなー♪」
――もちろんスケッチブックを探している間も美里奈は騒がしかったが。
だが、机の周りや周囲の胸像やイーゼルの陰を探してみても、一向に見つからない。スケッチブックなんて大きなもの、たとえ物陰に落ちていても簡単に発見できそうなものなのに。
「黒森、本当に美術室に忘れたのか? 他の場所とかじゃなくて?」
「いいえ、忘れたんじゃありませんよ」
俺が問いかけると、黒森は奇妙な返事を返した。
「……? じゃあ、何でスケッチブック探してるんだよ?」
「隠されたんですよ。美術部の、他の一年生に……」
「隠された……?」
それはどういう意味なのか――問いただそうとしたとき、不意に美術室の後ろの方から美里奈の歓声が上がった。
「やった! お宝発見! 黒森さん、これだよね!?」
その声に無意識のまま、視線を向ける。すると、そこには美術室に備えられたゴミ箱の傍に立つ美里奈の姿。
そして、発見したものを見せびらかすように持ち上げたその手には――表紙に『死ね』や『キモイ』『グロ画像注意』と罵詈雑言の落書きされたスケッチブックがあった。
「…………」
それを見て、思わず一瞬言葉を失う。わざわざ問いただすまでもない。その酷い表紙がどんな言葉よりも雄弁に黒森が受けた仕打ちを物語っていた。
忘れたわけじゃない。落としたわけでもない。ただ、故意に隠されたのだ。嫌がらせのために。
だが、隣の黒森はどこ吹く風で、平静な表情のまま美里奈へと近づいて行った。
「ああ……ありがとうございます。これですね」
彼女はそのまま美里奈からスケッチブックを受け取ると、ページを捲って中身を確認する。
「中身は落書きされてませんね。多分、落書きするほど直視できなかったんでしょう。良かったです」
スケッチブックの中身に描かれていたのは生き物のデッサン。ウサギ、犬、猫――種々様々な動物。ただ一つだけ共通点があるとすれば、そのどれもが凄惨な死骸となって臓物を晒していることだった――
――考えてみれば当たり前のことだった。
イジメの対象になるのは異質なもの。狭く小さなコミュニティの中で外れた存在。『みんな仲良く』という素朴な道徳観念にそぐうことのできない者。
心身共に痛みを持たない美里奈が教室内でイジメの対象となったのと同じく、グロテスクな絵ばかりを描いている黒森もまた、美術部の一年生というコミュニティの中において、迫害されるべき存在として標的になったのだろう。
別に同情はしない。黒森本人も同情されたいなんて思っていないだろう。こいつがイジメを受けながらも残酷な絵を描き続けているのは、何かなみなみならぬ理由があってのことに違いない。だからこそ、迫害を受けても描き続けている。
もっともその理由を詮索する気はない。興味が無いわけじゃないが、どう見ても黒森は自分のことを語りたがるタイプには見えないから。聞いたところで素直に明かすわけもないだろう。
ただ、問題は――美里奈がすっかり黒森の絵に夢中になってしまったことだ。
「ねえねえ黒森さん! お願い! もう一回だけ見せて!」
「嫌です。人に見せるものじゃないですから」
学校からの帰り道、俺と美里奈は黒森と共に歩いていた。どうやら黒森も電車通学らしく、駅までは一緒だ。その間、美里奈がしきりに彼女にさっきの絵を見せるようねだり続けている。
「むー……絵は人に見せるために描くんじゃないの?」
「完成品ならそうかもしれませんね。でも、これは習作ですから。あまり他人に見せたくありません」
「もったいないな。あんなに綺麗なのに……」
「……私の絵を見て、そんな感想を言うのはあなたが初めてです。教室でも思ってましたが、変人ですね」
「うん、良く言われるんだ!」
「今のは怒るポイントだと思うんですが……本当に変な人」
怪訝そうに、黒森は俺の方へと視線を向ける。美里奈の趣味嗜好について説明を求めているかのように。
だが、まさか美里奈が日常的に動物を惨殺して遊んでいることを正直に明かすわけにも行かない。
「美里奈は趣味が変わってるんだ。おまえも素直に喜べよ。自分の作品を誉められたんだから」
「別に……嬉しくなんて」
ぷい、と顔を背けながらも心なしかその声音は普段のダウナー系の口調よりわずかに弾んでいるような気がした。とはいえ、それでも相変わらず陰気なことには変わりないが。
誉められ慣れてないせいか、誤魔化すのも下手だ。もっとも、あの作風では仕方ないかもしれない。
そんな風に会話を交わしながら、俺たちは駅の改札を抜け、ホームまで出た。辺りにはちらほらと電車待ちの学生やサラリーマンの姿が見える。頭上に掲げられた案内板に目をやると、次の電車が来るまでまだ少し時間があった。
「黒森も同じ電車か?」
「いいえ、私は反対方向です。だから、ここでお別れですね」
言いながら、彼女は島式プラットフォームの反対側へと爪先を向けた。
だが、足を進める前に、顔だけ俺たちの方に向ける。
「……一応、礼は言っておきます。探すのを手伝ってくれてありがとうございました。この借りは必ず返します」
「借りなんかじゃない。別に気にするなよ。俺は妹の遊びに付き合っただけだ」
「うん! 宝探し楽しかったよ! だからいいよ、お礼なんて」
「いえ……私の気が済みませんから。誰かに貸しを作ったままにしておくのが嫌なんです」
俺たちが礼を遠慮すると、意外にも黒森は頑固に食い下がる。思いのほか律儀な奴なのかもしれない。ここは変に断るよりも、何か適当に礼を受けておいた方がお互いに良いかもしれない。
といって、何かしてほしいことがあるわけじゃないが――
と、そこまで考えて重要なことを思い出した。
「黒森。おまえ、美里奈と同じクラスなんだよな」
「はい、そうですが。普段、あんまり話はしませんが」
「そうそう。いつも絵を描いてたり、本読んでたりしてるから。だから、今日はいっぱい話せて楽しかったよ?」
「私は、別に楽しくなんてありませんが……」
あくまでつっけんどんな態度を崩さない黒森。だが、それでも最初よりはだいぶ態度が軟化している。こうして会話が成立しているだけでも上々と言えるだろう。
「黒森、ちょっと向こうで二人で話したいことがある」
「……二人で?」
その提案に、黒森は怪しげに俺を見つめた。
「長く時間は取らせない。美里奈。待っててくれるか?」
「うん、OKだよ。でも、電車に遅れないようにね」
聞き分けよく美里奈が返事するのを確認してから、俺は未だ怪訝そうな黒森を連れて、ホームのやや離れたところに移動した。
「それで、話って何ですか? 芦屋さんには聞かれたくないことなんですか?」
「ああ。話がややこしくなるからな」
「私、あなたの妹さんにも秘密の話を聞かされるほど親密になった覚えはないですが……まあ、いいですよ。聞くだけ聞きましょう」
「その前に聞きたい。さっきの借りを返したいって話、本気か?」
「……ええ。性分みたいなものです。誰かに施しを受けて、そのままにしているのは落ち着きません。道徳じゃなくて、単なる個人的なポリシーの問題です」
「そうか。だったら一つ頼みがある」
「何です?」
「教室で一緒にいる間、美里奈をイジメから守ってほしい」
「…………」
ぴくりと黒森の眉が動く。そして、無言のまま向こうで一人電車を待っている美里奈の方へ視線をやった。
相変わらず鼻歌でも歌いながら、上機嫌な様子でホームに立っている。だが、俺はその制服の下に無数の火傷痕があるのを知っている。
「……もしかして、高橋さんたちですか?」
「ああ。イジメのこと、知ってるのか?」
「いえ……ただ、雰囲気でわかります。新学期に入ったばかりのころから高橋さんたち、よく芦屋さんの悪口を言ってますから。陰口じゃなくて、本人に聞こえるところで」
教室の中で友達同士で雑談しているふりをして、聞こえよがしに美里奈への当て擦りを言う高橋さんたち。なるほど、目に浮かぶような光景だ。
だが、美里奈はそんなことをされても何とも思わない。今、ホームで鼻歌を歌っているように危害を加えられているという事実にも気付かないまま慢性的な多幸感に浸るばかりだ。それがかえって高橋さんたちの癪に障り、物理的、肉体的なイジメへとエスカレートしていったのだろう。
「じゃあ話が早い。別に大したことじゃないんだ。美里奈が高橋さんたちに連れられそうになったら、適当な用事をでっちあげて美里奈を別のところに連れて行ってほしい。それだけだ」
「なるほど。いいでしょう、それくらいなら」
「ああ、助かる。頼んだぞ」
黒森の返事に俺は内心安堵する。
もちろん、これで美里奈へのイジメが解決したわけじゃない。
だが、少なくともイジメというものはターゲットが一人だからこそ理不尽さが増し、加害者グループの嗜虐欲を煽るものだ。相手がたとえ一人でも友達を作ったのなら、それはイジメる側にとっては興醒めになる。何故なら、いじめられっ子が二人なら、互いに慰め合うことができるから。
それに加えて、イジメる側の労力も二人に分散されて面倒になる。相手へ与える影響は二分の一、労力は二倍。つまり、ゲームが途端につまらないものに変わってしまうというわけだ。
そうなれば、いずれ自然消滅を待つばかりだが――かといって、それまで気を抜くわけには行かない。イジメが収束するまで、美里奈を守り続けなければ・
「ところで、一つだけ聞いてもいいですか?」
俺が決意を新たにしていたその時、不意に黒森がそう質問してきた。
「何だ?」
「イジメから守ってほしい、と言いましたが……もちろん、守るだけじゃなくてもいいですよね?」
「……どういう意味だ?」
「つまり、完全にイジメをやめさせても――問題は無いんですよね?」
まっすぐに俺を見つめて訊ねる黒森の目には、冗談めかした様子は欠片も無かった――
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