6-3


 俺と美里奈は二人、病院の自動ドアから出た。病院のすぐ外は駐車場のロータリーとなっていて、入院患者や見舞い客らしき人々がひっきりなしに出入りしている。


 そんな中、俺はどうしようもないやるせなさに苛まれながら、無言のまま歩いていく。


 あれほど絵の完成に執着していた黒森。他人から攻撃されても、自分の命を削っても、ひたすら描き続けたその姿は、もう遥か昔のことのように思えてしまう。


 あの絵は、自分が『生きた証』――そう言い切った黒森の声が、今も耳の中で反響していた。


 だか、俺にはどうすることもできない。事実として、あいつの病状が深刻なのは否定できない。このまま悪化をしていく一途だということも。


 それに、もともと俺たちは黒森の夢に協力していただけ。あいつが諦めてしまった以上、もう終わりだ。


 それでも、俺はあまりにも呆気ない終わりを割り切ることなどできなかった。


「……?」


 その時、俺は後ろからついてきていた足音が途切れていることに気付いた。


 振り返れば、美里奈は立ち止まっていた。


「美里奈……どうしたんだ?」


 俺は怪訝に思いながら、美里奈の元へと駆け寄っていく。


「……わかんない。自分でも、何だか変な気分なんだ」


 美里奈は俯いたまま、か細い声で言う。


 いつもの楽しげな笑顔は、その表情から消えていた。いや、むしろ――まるで、心を痛めて悲しんでいるような。


「綾乃ちゃんが『もう終わり』って言ったとき……何かね、胸がぎゅうって、締め付けられるような感じになったんだ」


「…………」


「おかしいよね。前からずっと、私、どこか変なんだ。自分でも、何て言ったらいいかわかんくて……」


 以前、黒森が宮野たちに危害を加えられているのを見た時と同じだ。


 美里奈の中に――一切の苦痛を感じないはずの心に、『痛み』が芽生え始めている。


 その変化をもたらしてくれたのも黒森だった。俺は黒森に多くの借りを作っている。だが、それに対して、何物も返すことができていない。それがどうしても歯がゆかった。


 不意に、ポケットの中でスマートフォンが震える。


 斎藤先生か、若葉だろうか。どちらにせよ、今は誰とも話す気になれない。そう思いながら、画面を見て――俺は息を飲んだ。


「黒森……?」


 呟いた瞬間、美里奈も急に顔を上げた。


「綾乃ちゃんから?」


「ああ……」


 さっき病室で話したばかりなのにどうしたのか。疑問に思いながら、俺は通話アイコンをタップする。


『……すみません、良一先輩』


「どうしたんだ、黒森……? さっき話したばっかりなのに、電話なんて」


『まだ、言い忘れていたことがありまして……美里奈さんにも聞いてほしいんですが、大丈夫ですか?』


「うん……私も聞いてるよ?」


 俺が電話している横で、ぴったりとスマートフォンの裏側から顔をくっつけるようにして、美里奈も通話に耳を澄ませていた。


『良かった。それなら、美里奈さんもそのまま一緒に聞いていてください』


「うん、OKだよ」


「で、言い忘れてたことって?」


『お礼が言いたいんです。今まで、私なんかに付き合ってくれたことへの』


「……? 何だよ、いきなり改まって」


『すみません、突然。でも、今言わないと、言う機会が無さそうな気がして。すみませんがお時間を取らせます』


「いや、別にいいけど……」


 確かに、これ以上病状が悪化すれば話すことさえできなくなるかもしれない。黒森の気持ちはわからないでもない。


 だが、答えながら、俺は黒森の声に違和感を覚えていた。何かそれだけでは説明が付かないような決意が滲んでいたから。


『良一先輩。美里奈さん。改めて、ありがとうございます。お二人の協力が無ければ、あそこまで絵を描き進めることはできませんでした』


 疑問に思う間にも、黒森は話し続ける。その声はやはり弱々しく、雑音もあってよく耳を澄ませなければ聞こえないほどだった。


『それに……三人で過ごす時間は、とても楽しかったです。あのアトリエでの時間は、私の宝物です。絶対に忘れません。ありがとうございます』


「そんなに大したことはしてない。こっちこそ、おまえには美里奈を助けてもらったり、いろいろ世話になった。だけど、こっちはただ絵を描くのを手伝っただけだ。だいたい、その絵だって、結局完成できなかった。感謝される資格なんて……」


『いいえ。私にとって、あなたたちと出会えたことは奇跡も同然です』


「……ずいぶん大げさだな」


『大げさなんかじゃありませんよ……ところで、病室の前で、私の両親と会いましたか?』


 黒森の言葉で、さっき病室に入るときにすれ違った二人の中年の男女を思い出す。


「ああ、会ったよ。ほんの少しすれ違っただけだけど」


『二人とも、疲れた顔をしていたでしょう?』


「まあな。でも、娘のおまえがそんなことになってるんだから、無理もない」


『いいえ。父も母も、昔から疲れた顔のままです。私が病気だとわかってから、ずっと。私の治療費で、どれだけ苦労を掛けたかわかりません。きっと私が死ねば、両親は悲しむよりも、安心することでしょうね。肩の荷が下りた、と』


『…………』


『私はずっとそんな存在だったんですよ。両親を苦しませ、学校ではクラスメイトから孤立し――今までの私の人生は、ただ他人に負担を掛けていただけです。生まれた意味なんて何もない。生きていても、誰も幸せにしない。私なんて、いない方がマシな、無価値な存在でした』


「そんなことないよ」


 その時、俺の隣で美里奈が言った。


「綾乃ちゃんがいてくれて、私は嬉しかった。友達になってくれて、本当に幸せだった。無価値なんかじゃないよ」


「……俺もだ。おまえと会えて良かった。確かに面倒くさいやつではあるけど、別に迷惑だなんて思ってない。だから、そんなこと言うな」


 俺と美里奈の言葉に、黒森は息を飲む。


『……ありがとうございます。そう言ってくれるだけで、生きた甲斐があるというものです。良一先輩、美里奈さん。あなたたちのおかげで、私の人生は報われたんです』


「……?」


 黒森の安心しきったような口調に、俺は不安を抱き始めていた。病室で聞いたような、諦めに満ちた声じゃない。


 むしろ逆だ。その声には何か希望めいたものまで滲んでいる。そのことが逆に俺には恐ろしかった。


 そして、スマートフォンから聞こえてくる雑音が大きくなる。


『最後に一つだけ、謝らせてください。ごめんなさい。今からわがままを言います』


「わがまま?」


『はい。あなたたちにどうしても聞いてほしいお願いがあるんです。……私の絵、まだアトリエにありますよね?』


「あるけど、それがどうした?」


『お願いします。あの絵……どうか完成させてください』


「……? 『完成』って、さっきおまえ、自分で言ったばかりだろ。あの絵は絶対に完成しないって。それに、何で俺たちに……」


『はい。確かに言いましたよ。私には完成させられないって。でも、それは私だけなら、の話です。あの絵はもう私一人だけの作品じゃない。良一先輩、美里奈さん。そして私。三人で作った絵です。私が、あなたたちと生きた時間の証なんです』


「……何言ってるんだ。それがあの絵を完成させることとどう繋がる? 全然意味わからないぞ」


「いいえ。わかっているはずですよ。先輩なら」


「……っ」


 確かに、俺は黒森の言葉に嫌な想像を思い描いてしまっていた。あれほどあの絵にこだわっていた黒森が俺たちに託す、その意味について。


 受話口から聞こえる雑音がさらに強くなる。もはやただのノイズではないとわかる。この雑音は間違いなく風の音だ。


 想像は確信へと変わっていく。黒森がいるのは、絶対に病室などではない。


「黒森、おまえ……今、どこにいる?」


『本当に感謝します。二人と出会わなければ、絶対にあの絵が完成することはなかったでしょう。どれだけ礼を言っても言い足りません。ありがとうございます』


「どこにいるって聞いてるんだ!」


『上です』


 その言葉に、俺はスマートフォンを耳に当てたまま見上げる。


 十二階建ての病院の屋上、フェンスを乗り越えた縁に黒森が立ち、スマートフォンを持って、ロータリーに立つ俺と美里奈を見下ろしていた。水色の病衣のまま、その口元に安らかな微笑を浮かべながら。


 黒森の衰弱しきった肉体で、あそこまで行くのにどれだけの労力が必要だったことだろう。フェンスを乗り越えるどころか、屋上に至るまでの階段で倒れてもおかしくはない。それほどに黒森の心臓は限界を迎えているはずだった。


 だが、それでも黒森はそこに来た。死の危険を冒して、どれだけの苦しみにも耐えて、黒森綾乃という少女は今、屋上の縁に立って俺たちを見下ろしている。


 その安らかな表情の裏に、決意を滲ませながら。


「綾乃ちゃん……? どうして、そんなところに……」


 美里奈も見上げながら、そんな疑問を呟く。


 だが、俺の方は黒森が今からしようとすることがわかっていた。理解できてしまっていた。だからこそ、背筋が震える。


 俺は瞬きもできないまま、遥か頭上の黒森を見つめていた。


「よせ、黒森……」


『お願いです。目を、逸らさないでくださいね?』


 最後にそう言って、屋上の黒森はその手から通話中のスマートフォンを落下させる。


 十二階の高さから落ちてきた小型機械。それは俺たちから数メートル離れた位置で地面に当たった瞬間、中の部品を飛び散らして砕けた。それと同時に、耳にはブツッと通信が強制的に途絶える音が響く。


 黒森は屋上でくるりと反転し、背を俺たちに向ける。そして、おもむろに後ろへと身体を傾ける。何も身を支えるもののない、空中へと。


「やめろッ!」


 屋上にまで響くほどの声で叫ぶ。だが、すべては遅かった。


 黒森の足が屋上の縁から離れる。その動作はあまりにも軽やかで、まるで黒森の身体が空中に浮いているかのように見えた。水色の病衣が青空に溶け込んでいくかのように。


 だが、そんな空想は現実の重力に引き戻される。少女の華奢な肉体は風に煽られ、空中でわずかに揺れつつ、頭から地上へと落下していく。


 地面に激突する寸前、逆さまの黒森と目が合った。どこか安らいだような、穏やかな微笑。まるで時の流れが止まったかのように、その顔が網膜へと焼き付いた。


 しかし、次の瞬間には、その笑顔はコンクリートに圧し潰される。一瞬にして血まみれの肉塊へと変わる。辺りに響き渡る、細い木の枝に大きな石を落としたような異音。それは人の肉体が地面にぶつかり、内側で骨が砕ける音だった。


 生暖かい血液が頬に飛び散る。俺の前の前で、黒森が四肢をぐったりと投げ出している。その腕も、足も、骨が折れたのかあらぬ方向へと曲がっていた。頭蓋骨は左の半ばが潰れ、割れた部分から薄紅色の脳髄が覗く。辛うじて原型を留めていた顔の右半分は、瞳孔の開きつつある眼で虚空を見つめている。その暗い瞳に、俺と美里奈の姿が映っていた。


 わずかな希望を抱くことさえ許されない、凄惨な光景。潰れた頭を中心にして、真っ赤な血だまりをコンクリートに広げていく。


 死んでいる。


 間違いなく絶命している。


 俺たちと共に過ごし、不愛想な面をしていた黒森。時々わずかに可憐な笑顔を見せた黒森。一緒に生き物を殺し、絵を描き続けた黒森。帰り道で二人、他愛もないことを語り合いながら歩いた黒森。ほんのついさっきまで言葉を交わしていた黒森。


 それが、物言わぬ屍となって、眼前で頭蓋の中身を晒していた。


「え……? なん……で……?」


 美里奈は声を震わせ、ほんの数秒前まで黒森だったものを見ていた。ゆっくりと、足を引きずるようにして、死体の元へと近づいていく。


 血だまりの中に立ち尽くして、親友の骸を見下ろす。そして、服が血で汚れるのも構わずに、黒森の身体を抱き起そうとした。


 だが、ひしゃげた四肢は脱力したまま、二度と動くことはない。目は完全に瞳孔が開き、死者のそれへと変わっていく。それでも、美里奈は屍を抱き寄せ、自らの服を血みどろにしていく。


「起きて……ねえ、綾乃ちゃん。起きてよ……?」


 美里奈は優しく黒森の身体を揺さぶる。その行為も、ただ血を広げるばかり。わずかな振動によって、頭部の裂け目から潰れた脳髄が零れ落ちた。


 その頃には、周囲の見舞い客や患者たちもこの惨状に気付いたのか、あちこちから悲鳴が上がる。


「うわっ! 何、飛び降り!?」


「おい、大変だぞ……医者呼べ! 医者!」


「でも、どう見ても死んでるだろ、あれ……」


 にわかに辺りが騒然となる。だが、誰もが凄絶な光景に怖じ気づき、近付こうとはしない。


 ただ、俺と美里奈だけが黒森の死体のそばにいた。


「死んでない……綾乃ちゃんは生きてる。だから、起きて……起きてよッ! お願いだから……! うぅ、ああぁ……!」


 声を枯らして叫ぶ美里奈。その頬を一滴、雫が伝い落ちる。それをきっかけとして、大粒の涙が溢れ、美里奈の顔を濡らしていく。


 悲しみも、痛みも感じなかったはずの少女。どんな生き物を殺しても、笑顔で楽しんでいた妹。


 それが今、声を上げて泣いている。その感情は、紛れもなく、今美里奈が取りすがっている相手が与えてくれたものだった。


「美里奈……!」


 俺は美里奈に近づくと、断腸の思いでその身体を抱き締める。


 そして、無理やりに黒森の死体から引き離した。


「やだ、やだよぉ……綾乃ちゃん……綾乃ちゃんッ!」


 涙に咽びつつ、美里奈は親友の名前を叫ぶ。血まみれの手を必死で伸ばしながら。


 だが、悲痛なその呼びかけにも、もはや黒森は反応しない。


 ただ命を失くした抜け殻が、ゆっくりとコンクリートの上で冷たくなっていくばかりだった。


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