6-2


 黒森はすぐに救急車で病院に搬送された。意識を失ったままストレッチャーに乗せられ、家の前に停車した車内へと運ばれていく黒森の姿は、ひどく痛ましいものだった。


 もちろん俺と美里奈も救急車へと同乗して病院へと向かった。その間、俺は車内でサイレンの音を聞きながら、救急救命士に黒森が倒れた状況と、心臓病のことについて説明していた。だが、一方で美里奈はただ放心状態で目をつぶったまま横たわる黒森の顔を見つめているばかりだった。


 病院に到着すると、すぐに黒森はストレッチャーに載せられたまま集中治療室の中へと運び込まれる。俺と美里奈は扉の前で、ただ何事を話すこともなく、立ち尽くしていた。


 そこへやがて、連絡を受けたらしい斎藤先生がやってきた。他にも、七組の担任教師の萩村先生と黒森の両親らしき中年の男女も一緒にいる。だが、ほとんどどんなことを話したのか覚えていない。


 ただ放心状態の俺に、斎藤先生が『とにかく今日のところは帰った方がいい』と告げたことだけは確かだった。だが、俺も、美里奈もただ扉の前で黒森が出てくるのを待ち続けた。


 結局、俺たち兄妹がようやく家に帰ったのは中から出てきた医師が、黒森が処置の結果、一命を取り留めたことを告げてからだった。


 発作が起きて失神してから早い段階で救急車を呼んだために、大事に至らなかったのだという。だが、医師はこれからの黒森の身体については一言も言わなかった。ただ、しばらくは面会謝絶と、そう告げただけ。


 そして数日後――斎藤先生からようやく黒森と面会できるようになったと連絡を受け、俺は美里奈を連れて病院へと向かったのだった。


「405病室か……」


 受付で聞いた番号を繰り返しながら、病院の廊下を歩く。白く清潔そうなリノリウムの床、そこを医者や看護師が忙しそうに歩き回っている。ゆっくりと移動しているのは、たいてい水色の病衣を身に着けた患者だった。点滴のガートル台を横に持ったまま、億劫そうに歩いている女性。車椅子に乗り、看護師に後ろから押されている老人。一見健康そうに歩き、スリッパの音を響かせている若者も、どこか頬がこけ、入院生活が長いことを窺わせた。


 彼らの病状は軽いのだろうか、重いのだろうか。いったいこの中の何人が、病院から出ることなく人生の終わりを迎えるのだろうか。


 そして、黒森は――


 取り留めもない考えを振り払うように、俺はちらりと後ろをついてくる美里奈の様子を窺った。


「…………」


 美里奈はただ無表情で、何か考え込むようにしている。


 黒森が倒れてからここ数日というもの、ずっとこの調子だった。悲しんでいたり、心配しているような様子は見せない。ただ、自分でも自分の気持ちがよくわかっていないというような、不思議そうな様子だった。


 そして、俺たちは問題の405号室の前へとやってくる。そして、スライド式のドアの取っ手へと手を伸ばそうとする前に、不意にドアが開いた。


 中から出てきたのは中年の夫婦らしき男女。二人とも疲れた表情をしながら病室を出て、俺と美里奈の姿を認めると、ぺこりと会釈をして、通り過ぎていく。


 その反応に俺も会釈を返しながら、記憶を辿る。黒森が倒れた時、斎藤先生と一緒に集中治療室へとやってきた二人だ。あの時は気が動転していてろくに覚えていないが、やはり彼らが黒森のご両親なのだろう。


 彼らが廊下の向こうへと歩き去った後、俺は改めて405病室へと向き直り、開いたままのドアから、中へと足を踏み入れた。


 405病室は個室らしく、室内にはベッドが一台あるきりで、他のスペースには椅子や小さなテーブルがあるばかりだった。ベッドの上には、病衣姿の黒森が身を横たえていた。その鼻には栄養チューブが通されている。さらにベッド脇には台にいくつかの点滴のパックが設置され、黒森の身体へと繋がっていた。恐らくは心臓病用の薬剤を送り込んでいるのだろう。


 だが、黒森自身が言っていた。その病気は、薬物治療はただ症状の進行を遅くするだけで、根治には至らないのだと。


 絵に描いたような重病人といった様子の黒森は、ゆっくりと目を開くと、病室に入ってきた俺たちの姿を認める。


「ああ……ありがとうございます。良一先輩、美里奈さん。わざわざ、見舞いに来ていただいて……」


 ベッドの上で上体を起こそうとする黒森。だが、そんなわずかな動作ですら、ひどく大変そうだった。


「無理するな。寝てろよ。果物持ってきたから、食えるようになったら食え」


 俺は無茶をやろうとする黒森を制止し、ベッド脇の小型冷蔵庫を開けて、持ってきたフルーツの詰め合わせの箱を入れた。


「そのレジ袋……一階の売店で売ってるやつですよね。よく見ますよ」


「ああ、悪い。見舞い品を買ってくるのを忘れてたんだ。ロビーで思い出して、買ってきた」


「そんな気を利かさなくてもいいですよ。もう、食べられる身体には戻れないんですから」


「……縁起でもないこと言うな」


「やめてくださいよ。気を遣うのは。医者からも、家族からも、腫物扱いで気が滅入ってるんです。先輩たちとは遠慮なんて抜きで話したいと思っていたところです」


「だったら……そろそろ説明してやるんだな。おまえの口から。もう隠す意味もないだろう」


 言いながら、俺は視線だけで美里奈の方を示す。美里奈は病室に入ってきてから一言も口を開かず、ただチューブまみれの黒森を見ていた。


「綾乃ちゃん……これ、どうしたの? 何で、こんなに管がいっぱい……」


「……そうですね。ごめんなさい。今まで、黙っていて」


 それから、黒森は一度深呼吸をする。そして、か細い声で話し始めた。


「実は、私の心臓は……」


 拡張性心筋症――しかも、もはや手術で治療不可能なほどの末期症状。黒森は今まで美里奈に隠し続けていた病について語った。呼吸のために途切れがちな声で、鼻に繋がれたチューブが擦れるのか、何度も苦しげに言葉を途切れさせながら。


 もちろん、その命が風前の灯であることも、すべて。


 秘密を打ち明けた後、美里奈はしばらく考え込むように黙り込んでいた。


 だが、やがてゆっくりと口を開いた。


「綾乃ちゃん、もうすぐ死んじゃうの?」


 その質問に、俺も黒森も答えることはできなかった。美里奈はその事実を実感として認識しようとするように、言葉を紡ぐ。


「一緒に絵を描くことも……もう、できないの?」


「はい……すみません。約束を守れなくて」


 黒森はただ謝罪の言葉を口にする。顔を傾けて美里奈の方を見るその目も、焦点がぼやけてよく見えていない様子だった。


「そう、なんだ……」


 美里奈は悲しむことも、黒森を責めることもせず、呟いた。


 黒森が死ぬ。その事実を未だ自分の中で消化できないかのように。味の薄い食べ物を口にして、一生懸命にその味を確かめようとするように。


「何も、もう描けないって決まったわけじゃないだろ? もしかしたら、回復するかも……」


「いいえ。もう私には描けません。絵を描くような力は、もうこの身体には残っていないんです。あるいは、宮野さんのことが無くても、もうとっくに限界だったんでしょう」


 黒森は言いながら、シーツの上に投げ出した手をゆっくりと上げる。


 チューブだけで栄養を補給されているその身体はひどく細い。強く握れば、折れてしまいそうなほどに。


「目を瞑って、一人でじっとしていると心臓の音が聞こえるんです。不規則で、弱々しいリズムです。それがどんどん小さくなって、聞こえにくくなっていくんです。きっと、このまま消えてしまうんだと思います」


「だから、滅多なことを言うなって――」


「それに」


 俺の言葉を遮るように、黒森は声を発する。


「わかったんです。私の絵に足りないものが」


「足りないもの……?」


 確か、倒れる直前にそんなことを言っていたのを思い出す。


 それがわからなければ決して完成しない、黒森の残虐画に欠けているもの。それに気付いたと。


「あの絵は、私がずっと意識してきた『死』を具現化したものです。だから、あらゆる生き物、あらゆる動物の死体をあの一枚に凝縮しました。犬も、猫も、鳥も、虫も、蛇も、鼠も――二人のおかげで、たくさんの生き物の死を見られました。だけど、最も重要な生き物の死体が欠けているんです」


「最も重要な生き物って……」


「人間。つまり、私ですよ。あの絵は、私自身の『死』を描かない限り、決して完成しません」


 ぞくりと背筋を冷たいものが走る。黒森が文字通り心血を注ぎ、命を削って作り上げてきたのがあの絵だ。無数の生き物の骸が作り上げる、『死』の山。


 それは幼い時から自分の死を見つめてきた黒森が描きたかった、唯一無二の残虐画。確かに、そこに自らの屍が無ければ未完成だというのは理解できなくもない。


 だが、だとすれば、あの絵は永遠に完成しない。


 何故なら……


「でも……死んだら絵なんて描けないだろうが」


「はい。だから、最初からあの絵は絶対に完成しない運命だったんですよ。自分で自分の死体を描くことなんて、不可能ですから」


 諦めたように自嘲気味に笑う黒森。上げようとしていた手も下ろし、力無くシーツの上に投げ出している。


 その痩せ細った手は、もはや筆も握る力さえ残っていないのだろう。


「だから、ごめんなさい。こんなことに付き合わせて。たとえ心臓が治っても、もうどうだっていいんです。絵が描けるようになったって、無意味なんですからね」


「黒森……」


「もっとも……治っても、なんて無意味な仮定ですが。私はこのまま、ゆっくり死んでいくだけです。チューブで栄養を送られ、心臓が止まる最後の瞬間まで、延命されるだけ」


 そこで、黒森は自嘲気味に笑う。


「だから、もう終わりなんです……すみません」


 虚空を見つめ、諦めに身を委ねる黒森の姿。


 俺はその光景に何も声を掛けることができないまま、立ち尽くしていた――


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