第6章 猟奇の果

6-1


 それから数日後――土曜日のこと。


 俺はアトリエの窓際に寄りかかり、外を眺めていた。空はどんよりとした雲が覆っていて、陰気な雨が街に降り注いでいる。休日だというのに道を歩く人の姿は無く、見ているだけで気分が重くなった。


 窓の外を見るのにも嫌気が差して、アトリエの中を振り返る。


 そこには、油絵を描いている美里奈の姿があった。作業用のエプロンを付け、木製のパレットで色を混ぜ合わせている。


 その前方、アトリエの中央には台が置かれ、上にはバーベキュー用の鉄串で刺されたアオダイショウがのたうち回っている。今回はペットショップではなく、庭先にいたのを俺が捕まえたものだ。


 串は予め火で炙って熱しておいたので、その苦痛は想像を絶するものだろう。蛇は逃げようと細い体をくねらせるが、尻尾から首の根本まで数か所を貫かれているので離れることができない。


 そんなモチーフを眺めながら、美里奈は筆を動かし、キャンバスに色を置いていく。


 いつもなら、その横に黒森がいて油彩の技法を教えているのだが、今アトリエ内にあいつの姿は無い。製作中の残酷絵も、布を掛けられたままだった。


 宮野との一件があってから、黒森は学校に来ていない。それどころか電話しても一向に繋がらない。いったいどうなっているのか、嫌な想像ばかりが頭を駆け巡る。


 あの時、やはり宮野に突き飛ばされたことで心臓に過度な負担がかかったのだろうか。それで、病状が悪化したとか――


 雨の街の陰気さから目を逸らそうとしてアトリエ内に目をやったのに、余計に気が滅入って来た。心なしか、作業に没頭する美里奈もどこかいつもより元気が無いように見える。普段なら、作業しているのにもお構いなしに俺に話しかけるのに、今は黙々と絵を描いているだけだ。


 俺はため息をつき、再び窓の外へと目をやった。そして、その時家の前の道を、傘を差して歩いてくる一つの人影に気付いた。揺れる傘から覗くそのゴシックな黒いワンピースはよく見慣れたものだった。


「黒森……?」


 俺がそう呟いた瞬間、背後でがたりと物音が聞こえた。


「綾乃ちゃん? 綾乃ちゃん来たの!?」


 見れば、美里奈がエプロンを脱ぎ捨てながら、満面の笑みを浮かべて窓へと駆け寄ってくるところだった。そして、俺たちの家へと歩いてくるその姿を見て、小躍りしそうなほど喜んだ。


「やった! そうだ、早くお迎えに行かないと!」


「おい、落ち着けよ美里奈」


 慌てて走り出す美里奈に注意しながら、俺も口元が綻んでいるのを自覚する。黒森が無事で再びこの家を訪れてくれること。それが、何よりも嬉しかったから。だから俺も、美里奈に後に続いて、一階へと降りていった。


「綾乃ちゃん! ようこそ!」


「うわっ! ……何だ、美里奈さんですか。びっくりさせないでください」


 黒森がインターフォンを押す前に美里奈は玄関のドアを開け、ちょうどそこにいた黒森へと抱き着いていた。


「もー、会いたかったよ。綾乃ちゃんにいっぱい絵のこと聞きたかったし。風邪でも引いてたの?」


「ええ、そんなところです。ご無沙汰していて、すみません」


 黒森はワンピースに頬ずりしそうな勢いで抱き着く美里奈を強いて離すようなことはせず、ただ困ったような微笑を浮かべていた。


 そんな光景を見ながら、俺も玄関へと近づく。


「身体はもう平気なのか?」


「はい、おかげ様で。ご心配をお掛けしました」


「本当にな。連絡も付かないからどうしたのかと思ったぞ」


「病院で、少し大げさに検査されまして。私は平気だと言ったんですが。医者が念のためと。手間をかけさせられましたよ。私の体のことは、私が一番よくわかってるのに」


 美里奈の手前、曖昧に濁したような言葉で説明する黒森。再びその姿が見られて、俺は心の底から安堵した。あるいは命に関わる事態に進展していたかと思っていたからだ。


「とにかく、上がれよ。絵を描きに来たんだろ? いつでも始められるように準備はしてある」


「うん! 絵具も、いつも綾乃ちゃんが使ってるの買い足しておいたよ!」


「ありがとうございます。そこまで気を回していただいて」


 ぺこりと頭を下げて会釈する黒森。


 何度もこの家に通っているからいちいち持って帰るよりはとアトリエに画材はすべて置いてある。絵具も、筆も、パレットも、絵を描くのに必要なものは何もかも。黒森が来なかったこの数日の間も、手入れは決して欠かしていない。


 俺と黒森、そして美里奈。三人であの絵を完成させる。それはもう、ただ黒森と約束したから、という理由だけじゃない。俺自身が、あの絵の完成を見たいから。


 黒森と一緒にいられる時間は有限。ならば、せめてその命の証を残してやりたい。こいつと一緒にいたという事実を、形として作り上げたい。


 もうずいぶん前からそう思い始めていたのだった。あの絵は――黒森のことは、もう俺にとって他人事じゃない。


「じゃあ、失礼します」


 そして、黒森が靴を脱ぎ揃え、三和土から上がろうとしたその時――


 不意に、黒森の身体が傾いた。


「おいっ!?」


「あ……すみません。ちょっと躓いて」


 俺が慌ててその肩を支えると、黒森はすぐに体勢を立て直して、再び上がった。何でもないような表情で、階段の方へと向かう。


「すぐに始めましょう。もうすぐ完成ですから」


 そう言って先導するように階段を上っていく黒森の後ろ姿を、俺は無言で見つめる。


 ちょっと躓いた――黒森はそう言ったが、今のは明らかに不自然なふらつき方だった。まるで、急に立ち眩みでも起こしたような。


 本人は大丈夫と言ったが、もしかしてまだ本調子ではないのかもしれない。俺の中で、不安の雲が厚く立ち込め始めた。


  ***


 アトリエに入って、黒森は例の残虐画と向き合う。画布に描かれた、種々様々な動物の断末魔。赤黒い血と臓物を垂れ流し、悶え苦しみながら絶命していく生き物たち。細部はまだ荒いもののもはや絵は八割方完成しているように見えた。


 俺と美里奈は後ろに立ちながら、作業準備をする黒森を見ていた。


 そして、黒森は改めて絵の全体像を眺めた後、ゆっくりと絵筆を手に取る。そして、血の赤色を作り出してから、ゆっくりとその先を画布へと触れさせようとする。


 だが――その瞬間、黒森の手から筆は零れ落ち、音を立てて床に転がった。


「あ……」


 落ちた筆を見ながら、黒森は声を上げる。それくらいすぐに拾い上げればいいのに、しばらくの間床を見つめていた。


 まるで、目の焦点が合わないかのように。


「はい! 綾乃ちゃん、落ちたよ」


「……どうも」


 美里奈は何も疑問に思うことなく落ちた筆を拾い上げ、黒森へと渡した。そして、再び絵に向き直り、ゆっくりと筆の豚毛を画布へと塗っていく。だが、その手の動きはいつもの繊細さを欠き、小刻みに震えているようだった。


 パレットとキャンバスの間で、筆を往復させる。その単純な動作だけでも普段の三倍は時間が掛かっていた。


 まだほとんど作業をしていないというのに、一日中絵を描いた後のように疲れ切っている様子だ。


「どうしたの? 綾乃ちゃん。何かいつもの綾乃ちゃんらしくないよ」


「…………」


 美里奈さえも違和感に気付くほど、今日の黒森は奇妙だった。


 そして、ついにその筆先は止まる。だがそのために、手の震えで小刻みに毛先が震えているのがありありとわかった。


「……病み上がりだから、まだ本調子じゃないんだろう。美里奈、悪いけど台所で紅茶を淹れてきてくれ」


「りょーかいだよ! じゃ、待っててね二人とも!」


 美里奈は素直に従うと、アトリエの出口へと向かう。そして、一階へと降りていく足音が聞こえた。


 アトリエの中には俺と黒森の二人きり。


 そして、黒森は俯いたまま、筆を持つ自分の手を見つめている。今もなお震えは止まらない。それどころか、一秒ごとに大きくなっているようにさえ見えた。


「さっき、病院で検査を受けたって言ったよな」


「……はい、言いましたよ」


「確認するが、それって、心臓の検査のことだよな?」


「美里奈さんの手前、ぼかしましたけどね。でも、だったら何だっていうんです?」


「検査の結果、どうだったんだ?」


「…………」


 沈黙する黒森。その背中からは表情は窺えない。だが少なくとも、明るい笑顔ではないことは確かだった。


「まだ絵を描けるような体調じゃないんだな?」


「そんなこと、一言も言ってませんよ」


「言ってるのと同じだ。今日のところは帰れ。いや、電話して親に迎えに来てもらえ」


「相変わらず心配性すぎますよ。……本当に、平気ですから」


「おまえが連絡しないなら、俺が電話する。連絡先教えろ」


 ぎゅっ、と黒森は筆を持ったまま掌を握る。悔しさと悲しみを押し潰そうとするかのように。


「…………」


「言わないならそれでもいい。斎藤先生に聞けばわかる」


 俺はポケットからスマートフォンを取り出し、斎藤先生へと掛けようとした。だが、その時、黒森が椅子から立ち上がり、俺へと手を伸ばした。


「ダメです……!」


 だが、その動きさえも全身が鉛になったように遅く、俺へと辿り着くよりに前のめりに倒れ込んだ。


「おい、黒森!」


 咄嗟に、俺は両手を伸ばして黒森の身体を抱き留める。その際にスマートフォンを床に取り落としたこともどうでもよかった。


 半ば密着した黒森の身体、そこから伝わってくる鼓動があまりにも弱々しかったから。


 心なしか体温も低く、生きている気がしない。命の無い蝋人形を抱き留めたような感覚。いや、こうしている今も抱き留めた手の隙間から、生命が零れ落ちているかのような。


「どのくらい悪いんだ?」


 答えを聞きたくない。だが、聞かなければならない。俺は自分の声が震えるのを感じながら、そう質問した。


「……検査の結果は、『今度、改めて精密検査をすることになる』としか教えてもらえませんでした」


「その精密検査っていつだよ?」


「今日、この時間――の、はずでした」


「おまえ、抜け出してきたのか? どうして……」


 発しかけた疑問を、俺は喉の奥に飲み込んだ。自分の足で立つこともできないまま、ぐったりとした黒森の姿。


 その光景が、最も能弁に答えを示していた。


「自分でわかってるんだな。もう限界だって。だから精密検査を受けなかった。受ければ入院することになるって知ってるから。違うか?」


 無言のまま、黒森はこくりと頷いて肯定する。その動作はゆっくりとして弱々しく、ともすれば見逃しかねないサインだった。


 こいつは今、こうして受け答えをしていることさえ体力を削られている。疾患を抱えた心臓は、宮野との一件で致命的な負担を受けた。いや、それ以前からすでに限界を迎えようとしていたのかもしれない。


 確かなのはここで無理に絵を描けば、さらに病状は悪化するだろうということ。


「とにかく、今日は病院に行け。そして、しばらく休むんだ。今のおまえじゃ、絵は描けない。いや、描かせられない」


「ダメです……自分でわかるんです。今、入院したら、もう二度と絵は描けないって。だから、描けるうちに描かないと……私には、今しかないんです……!」


「……っ」


 黒森は焦点の合わない目でイーゼルに掛けられた絵へと手を伸ばす。そして、よろよろと立ち上がろうとするが、俺の身体を支えにしなければ動けない。


 その弱々しい姿に、俺は声を失う。黒森の生きた証、この絵の完成にどれだけの心血を注ぎこんできたか、俺もすぐそばで見てきたから。


「それに――まだ、足りないんです」


「……足りないだと? 何がだ?」


「それが何かはわかりません。ですが、あの絵……まだ何か足りないものがある気がするんです。絶対的に欠けている何かが」


「欠けている……?」


 俺は改めて油絵へと目を向ける。犬も猫も鳥も、画布の上で無残な死の瞬間を晒している。真に迫ったその描写はまるで目の前に屍が現出しているかのようだった。


 足りないものなんて、俺には何もわからなかった。


「だから、描かないと……それを早く見つけて、完成させないと……! だから、描かせてください……!」


 黒森は筆を握り締め再び椅子に座り、キャンバスに向き合う。その執念を、俺はもう止めることはできなかった。


 その時、不意にアトリエのドアが開く音がした。


 見れば、美里奈が紅茶のカップを三人分載せて入ってくるところだ。


「あれ? また描き始めてる。休憩しなくていいの?」


「美里奈……」


 妹にどう返したものか答えあぐねて、俺はただ立ち尽くしていた。だが、すぐに黒森が答える。


「はい……やっぱり、筆が乗っている間に描きたいですから。すみません」


「なんだ、そういうことか。じゃあ、お茶は置いとくね」


 無邪気に笑いながら、美里奈ははトレイを手近な小卓に置いて、黒森の傍へと近寄る。そして、その筆遣いに熱心に視線を注いだ。


 だが、やはり黒森の手は震えて上手く動かない。目的の位置に絵具を置くのさえ苦労していた。それどころか、目測を誤って見当違いの場所へと筆を運んでしまいそうな危うさだった。


「……っ、どうして……!」


 黒森は悔しげに呟く。その目尻には涙さえも浮かんでいる。ほんの数日前までは思い通りに動いていた指先。満足できる絵を描いていた身体。それが思い通りにならなくなるというのは、どれほどの苦しみだろうか。


 俺はその痛ましい姿に、どう声を掛けることもできないまま、見守るしかなかった。


 だが、その時――黒森の震える白い手に、そっと血色のいい小さな手が添えられた。


 それは美里奈の手だった。


「美里奈、さん……?」


「あ、ごめん。お節介だったかな? 描きにくそうだったから、手伝おうかなって思ったんだけど」


「いえ……すみません、また迷惑を掛けて」


「ううん。私も見たいから。この絵が完成するところ」


 美里奈の手助けを受けて、黒森は再び筆を動かし始める。本来なら、こんな形でサポートを受けて描いても、筆遣いが大幅に変わって作業などできない。


 だが、美里奈はまるで黒森と以心伝心のように今までと変わることないタッチで筆を動かしていく。


 それもそのはずだ。美里奈に絵を教えたのは黒森なのだから。こうして手を取りながら筆の遣い方から色の塗り方まで。そして、美里奈の方もずっと傍で黒森の絵を見てきた。できないはずがない。


 黒森のかつてのタッチを再現しながら、画布に赤色が塗られていく。動物たちの屍はますます鮮烈さを増し、ほんのさっきまで生きていたかのように感じられるほどだった。


 二人の少女が手を重ね合い、あらゆる生き物の骸が集った残虐画に筆を運んでいく。美里奈は鼻歌でも歌い出しそうなほどの笑顔。それに釣られるように、苦しいはずの黒森もその口元を綻ばせていく。それ自体がまるで一枚の絵画のように美しく、尊い光景。俺はそんな二人の姿をただ見つめていた。


 俺も、もう黒森を止めようなどという気は消えているのに気付いた。このままずっと、二人が絵を描き続けているところを見たい。そんな叶わぬ願いが心に湧き上がってくる。


「楽しみだね。黒森さんの作品。きっと、すっごくきれいな絵になるよ」


 黒森と二人、楽しそうに筆を動かしながら美里奈は言う。


「……いいえ、私の作品じゃありません」


「え? どうして?」


「私だけじゃない。この絵は、私たち三人の作品です。私と、美里奈さんと、良一先輩。三人で作る、世界でたった一つの絵です」


 そして、黒森は筆を止める。画布から目を離し、俺と美里奈に微笑を浮かべながら、視線を向けた。


「ありがとうございます、美里奈さん、良一先輩……おかげで、足りないものがわかりました」


「足りないもの?」


 美里奈が不思議そうに首を傾げて黒森に問う。そして、黒森はゆっくりと口を開いた。


「それは――」


 続きの言葉は途切れた。


 椅子の上から崩れ落ちるように黒森の身体が傾いた。そして、糸の切れた人形のようにアトリエの木の床へと倒れ伏す。


 その出来事は唐突で、ついさっきまで美里奈と一緒に絵を描いていた光景と記憶が繋がらない。


「綾乃、ちゃん?」


 美里奈が発したその言葉で、俺は我に返る。弾かれたように黒森の傍に駆け寄り、その顔を見た。


「うぅ……」


 青白い肌をしながら、黒森は苦悶を浮かべて胸を押さえている。


 ――心臓の発作だ。


 それも、おそらくは一番ひどい。最悪の事態を前にして、俺は全身の血液が冷えていくのがわかった。現実感が喪失し、足元が崩れていくような気分。


「今、救急車を呼ぶ! 待ってろ!」


 俺は床に転がったままのスマートフォンを手に取り、すぐさま119番へとコールする。


 俺がオペレーターと通話して、心臓病の発作であることと住所を話している間、視界の端で黒森に寄り添う美里奈の姿が見えた。


「綾乃ちゃん……どうしたの? ねえ……」


 美里奈のその呼びかけにも、黒森は蹲ったまま、答えることもなかった。

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