第4章 血の日常
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土曜日。外では麗らかな日差しが注ぎ、小鳥たちが美しい音色で囀っている。アトリエの窓に取り付けられたカーテンの外は休日日和らしい。
だけど、俺は薄暗いアトリエの中で、無骨な金属製の檻を動かしていた。
檻の中には一匹の白い猫が捕らえられていて、怯えた様子で鳴き声を上げている。完全に野良で育った猫ならばもっと凶暴なはずだから、恐らくはほんの少し前まで人に育てられていた捨て猫だろう。毛並みもよく健康そうだ。それでも、檻の重さと合わせると移動させるのは一苦労だったが。
「光源がこちら側なので、もう少し右側がいいですね。なるべく、表情がこちらに見えるようにしてください。いや、もう少し左の方がいいですね」
「……注文が多いな」
俺が苦労して檻の位置を調整しているのを、数メートル離れたとこから指示を出す黒森。休日だけあって私服姿だが、黒森が着ているのは黒一色のゴシックなワンピース。まだ学校の制服の方がカラフルなほどの出で立ちだった。
そして、その衣服の前に作業用のエプロンを身に着け、手には油絵具のパレットと豚毛の画筆を持っている。その前には、イーゼルに架けられた大きなキャンバス。
俺が『モチーフ』の準備を終える前に、既に黒森は手を動かし、下絵を調整しているようだ。
「うわぁ、すっごくきれい……やっぱり絵、上手だね。黒森さん」
黒森の隣では、美里奈が椅子に座り、目を輝かせて絵を見つめている。いつものワンピースじゃない。動きやすいジャージだ。美里奈が中学の時の古い代物だが、まったく体型が成長していないので問題なく着られる。
「まだ下絵です。完成には程遠いですよ。この時点できれいと言われても困ります」
謙遜するでもなく、淡々と事実を告げるようにあしらう。
「それでも、きれいだよ。きっと良い絵になると思うな」
冷淡にあしらわれても、美里奈は意に介することなく楽しげに黒森の作業を観察していた。
「あまり、作業中に見られたくはないのですが……まあ、そこまで要求するのは図々しいというものでしょうか」
「俺と美里奈の家だしな、ここ」
俺は一旦捕獲機を床に置くと、黒森の方へと近づいて、絵を覗き込む。
「俺が猫を捕まえてる間、ずいぶん進んだみたいだな」
「ええ、おかげ様で。このアトリエは古いですが、快適ですね」
涼しい顔で応えるものの、その視線の先にある絵はそんな平然とした顔には似つかわしくないものだった。
そこに描かれているのは、種々様々な動物――その死体。犬、猫、ハムスター、ウサギ、トカゲ、カエル、鶏、金魚……哺乳類も爬虫類も両生類も鳥類も魚類も無脊椎動物も無差別に血を流し、内臓を晒し、凄惨な屍となって堆く積み上げられている。まさに死骸の大博覧会といった様子だ。あるいは、地獄絵図というべきか。
もっとも、本人が下絵というだけあってどの屍も輪郭は荒い。とはいえ、それでもそれらが生き物の亡骸をひたすらに積み上げた残虐な絵だということは一目で理解できる。
「……こんなに上手いなら、モチーフなんて要らないんじゃないか?」
「いいえ。言ったはずですよ。人間の想像力には所詮限界があります」
俺の苦言を黒森は手を休めることなく一蹴した。
「私が描ける『死』はここまでです。これだけでは、真実の死とは程遠い。重要なのはディティールです。断末魔の鳴き声、死に際の表情、最期の痙攣。それらすべてをこのキャンバスに写し取らなければ……」
ぶつぶつと、絵をまっすぐに見つめながら黒森は繰り返す。その集中しきった姿はどこか偏執的とも言えた。
『芸術狂』――そんな言葉が頭に浮かぶ。
ただ生き物が死んでいる絵を描くことが好きなだけだが単なる悪趣味だが、理想の無残絵を描くために実際に小動物が殺されるところを見たいだなんて常軌を逸している。
芸術家のレオナルド・ダ・ヴィンチは絵画の真実性を追求するため、動物や人体の解剖に立ち会ったらしいが……今の黒森の執念もそれに一脈通じるものがあるかもしれない。
俺が呆れと感心を同時に抱いていると、アトリエの中央で白猫が心細げに鳴き声を上げた。
「では、お願いします」
「うん! 黒森さんのために、一肌脱いじゃうよ~」
美里奈は自分の出番とばかりに意気揚々と捕獲器へと近づいていく。その手には鉈が握られている。
「手を怪我するなよ、美里奈」
「平気だって。使い慣れてるし、そんな失敗しないよ」
「鉈を使うのは久しぶりだろ。油断するな」
「大丈夫大丈夫。心配性だなー、お兄ちゃんは」
からからと快活に笑う美里奈に一抹の不安を抱きながら、俺は檻の前に使う木製の台を置く。本来はモデル用の踏み台だが、今は処刑台だ。
捕獲器の蓋へと手を掛けたところで、俺は改めてキャンバスの前で画筆を動かしている黒森に目をやった。
「最後に確認するけど、良いんだな? おまえも動物虐待の共犯ってことになるぞ。やめるなら今のうちだが……」
「愚問ですね。早く始めてください」
最後の忠告も、最後まで聞き終えることすらさなく黒森は遮る。俺は嘆息すると、蓋を開いて中の白猫の首を掴み、台の上へと置いた。
己の身の危険を悟ったのか、生贄は怯えて台の上から逃げようとする。だが、俺は注意深く白猫の胴体を上から手で押さえつけ、身動きを封じた。そこへ、美里奈がしゃがみ込んで横から左手を伸ばして、猫を押さえるの手伝う。そして、右手では鉈の柄を弄んでいる。
「黒森さん、この角度でいい?」
「はい、それならよく見えます。完璧ですね」
黒森は画布へと筆先を向けたまま、瞬きさえせずに俺たちの方を見つめていた。どうやら処刑の瞬間を一瞬たりとも逃さず目に焼き付けようとしているようだ。
普通の神経をしていたら、猫の死の光景なんて、目を瞑るか、視線を逸らして見ないようにするのが自然だろうが……しかし、そんなことは口にしなかった。美里奈の兄である俺がそんなことを口走るのは、滑稽にも程がある。
「じゃあ、始めよっか。猫ちゃん、黒森さんにたくさん見せてあげてね? 胴体さんとのお別れ会。……あれ? お別れするのは身体? それとも、首の方かな……? まあ、どっちでもいいか」
美里奈が笑顔でしきりに語り掛けるが、もちろん猫が人語を解するはずもない。ただ恐怖に耳を伏せ、震えているだけだ。
俺はそんな猫の後頭部を掴み、思い切り後ろに反らして喉を差し出す形にした。
「美里奈、頼むぞ」
「うん! 黒森さん、見逃さないでね」
「はい。お願いします」
黒森の返事を聞いてから、俺はさらに猫の頭を後ろへと逸らし、同時に美里奈は獲物の喉へと鉈の刃をあてがった。
「じゃあ、猫さん。頭と身体、バイバイの時間だよ?」
そう言って、美里奈は鉈の刃を猫の首へと食い込ませる。
瞬間、命の危機を感じたのか猫は先ほどまでの怯えようが嘘のように足を動かして暴れる。だが、俺と美里奈によって押さえつけられたその小さな体は、台の上から寸分たりとも動くことはない。獣の喉からは激しい鳴き声が迸るが、すぐにそれも止んだ。鉈の刃が喉を切り裂き始めたのだ。
美里奈は鋸で板を切る要領で刃を左右に往復させて、猫の皮を裂き、肉を斬り、骨を削りに掛かった。美里奈の腕力では脊椎を切断するのには少し時間が掛かる。もっとも、それは猫にとって幸運とは言えなかっただろう。その分苦痛の時間が長く続くのだから。
「ん……よいしょ、よいしょ!」
可愛い掛け声を上げながら、鉈を動かし続ける美里奈。その手は傷口から溢れた鮮血で既に汚れ始めている。やはり古いジャージを着させておいて賢明だった。普段着が血みどろになったら後で服を洗濯するのが大変だったことだろう。
「よし、もうすぐ……!」
そんなことを考えているうちに、美里奈の鉈は猫の脊椎を削り、首の二分の一ほどの肉を削ぎ落とす。猫の口からは血の泡が漏れ、いよいよ抵抗も文字通り死に物狂いになってきた。そして、骨が完全に断たれた瞬間、その勢いのまま首の後ろの皮と肉も切断された。
だが、その刹那――予想だにしない事態が発生した。
「うわぁっ!?」
「うおッ!?」
白猫の首が胴体から離れたその時、俺と美里奈は揃って驚愕の声を上げる。頭部を落とされた胴体が前脚と後ろ脚を強烈に動かして暴れ始めたからだ。その激しさに、美里奈は手を放してしまう。俺の方も前脚が腕に当たって、背中を押さえていた手を弾かれた。
結果、首無しの死骸は戒めから解き放たれ、狂ったように身体をのたうたせてアトリエの床へと転がった。それだけでは飽き足らず、激しく脚で床を打って跳ね回り、切断面から真紅の鮮血を噴水のように撒き散らし続ける。
「すごい! 見て、ダンス踊ってる! ラッキーだね、黒森さん! これ超レアだよ!」
『ダンス』――美里奈はこの現象をそう命名していた。
激しく抵抗する脊椎動物の頭部を急速に破壊、もしくは切断すると、首を失った胴体だけがブレイクダンスのごとく暴れ狂うことがたまにある。中枢神経から切断されても、全身の神経に電気信号が駆け巡り続けるからだろう。それが筋肉に走り、激しい痙攣となって死後も同じ動きを繰り返す。まるでホラー映画に出てくるゾンビのように。
猫の場合はそれが顕著だ。元が俊敏な筋肉を持つ動物なためか、一度『ダンス』が起こった時は手の付けられないほどの暴れようを見せる。身をよじり、脚を地面に叩きつけ、首無しのまま文字通り跳ね回るのだ。
そう――ちょうど今まさに俺たちの目の前で繰り広げられている光景のように。
瞬く間に床へと広がっていく血だまりと、その中で死の舞踏を披露する猫の胴体。その酸鼻極まる光景を、黒森は呆気に取られた目で見つめていた。台の上に放置された猫の首も、死後反応で緩やかに口を開閉しながら、虚ろな瞳でかつて自分の身体だったもののパフォーマンスを鑑賞している。
だが、やがてアトリエの床をのたうつ首無し胴体が進行方向をイーゼルへと変えると、途端に黒森は顔面を蒼白にした。
「え――ちょ、ちょっと……こっち来ないでください! 絵が汚れますッ!」
黒森はパレットも筆も放り捨てて、慌ててイーゼルの前へと躍り出る。そして、絵の盾になるようにして立ち塞がり、一際高く跳ねた首無し猫の進行をその黒いワンピースで受け止めた。相変わらず血を噴き出しながら床へと落ちる胴体。それに俺と美里奈が殺到し、腕で抑え込んだ。
「よし、捕まえた……!」
屍はなおもしばらくの間激しく痙攣を繰り返していた。だが、やがて心臓が止まり、神経も筋肉も機能を停止していく。そして、ついにはわずかに皮膚をピクピクと不気味に震わせるだけの状態になった。
「驚きました。首を切断すると、あんなに跳ね回るんですね……」
ようやく我に返ったのか、黒森はやや落ち着きを取り戻した様子で、猫の骸を観察していた。
「たまにね。いつもじゃないけど、時々こうなるんだ。死ぬ前に暴れてると、起きやすいかな。お兄ちゃんは、神経とか、筋肉? の影響でそうなるんじゃないかって言ってるの」
「なるほど、興味深いです……やっぱり、この目で見ないとわからないことばかりですね。もっともっと、研究しないと……」
美里奈の返答に好奇心を刺激された様子で頷いている黒森。先ほどまでの取り乱しようが嘘のようだ。
転んでもただでは起きないというか、神経の図太い奴だった。
だが――
「なあ、黒森。勉強熱心なのはいいけど、大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「それ。その服のまま帰るつもりか?」
「え……? あっ」
俺がその胸元を指指すと、ようやく黒森は自分の有り様に気付いたようだった。俺も美里奈も、猫を殺す実作業をする予定だったから汚れてもいいジャージだが、絵を描くだけの美里奈は簡単にエプロンをしているだけだ。
当然ながら、猫の死体を受け止めたときに撒き散らされた血痕が服にべっとりと付着してしまっていた。
「……どうしましょう」
血まみれの衣服を見ながら、黒森は困惑した様子で呟く。
「そのまま帰ったら、間違いなく警察沙汰だな。そうなったら俺も困る」
「……わかってますよ。迷惑は掛けません。何か、対策を考えます」
「対策って?」
「それは……と、とにかく、何とかします」
言いながら、黒森はエプロンで血を拭こうと試みるものの、ただ血が広がるだけだった。
「……しょうがないな。美里奈、おまえの着替えを貸してやれ。落ちなくなる前に、さっさと洗濯しよう」
「いいよ! でも、サイズ合うかな?」
「……確かに、それは心配だな」
改めて、美里奈と黒森の体格を比べる。美里奈は高校一年生にしてはあまりに華奢で小柄な体付きだ。対して黒森は標準的な背の高さで、美里奈とは並ぶと頭一つ分身長が違う。
普通に着れば、まったくサイズが合わないだろう。
「……まあ、背に腹は代えられません。お心遣い感謝します」
「服は、洗濯して学校で返せばいいか?」
「ええ。お手数をおかけします――」
ぺこりと黒森が頭を下げようとした時。
「いいこと思いついた! 黒森さん、泊まっていけばいいんじゃない?」
「え?」
美里奈の提案に、黒森は驚きの声を上げた。一方の美里奈は自分の考え付いた名案にご満悦の様子だった。
「明日、日曜だし泊まってっても大丈夫でしょ? 今日の内に洗濯して、干して、また明日、乾いたのを持って帰ればいいじゃん」
「ですが……そんな迷惑を掛けるのは」
「今更だろ。こうして家に押しかけてグロい絵を描くのに協力させてる時点で、迷惑のメーターは振り切れてる。変な遠慮するなよ」
「それは……」
「それに、学校まで服を持っていくのも面倒だ。泊まっていけよ」
「……確かに、そうかもしれませんね」
「まあ、全部のそっちの親が許可するなら、の話だけどな」
「いえ、たぶん平気です。親はどちらも放任主義ですから。……とりあえず、ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます、芦屋先輩」
ぺこりと黒森が素直に頭を下げた時、美里奈はまたいいことを思いついたというように人差し指を立てた。
「そうだ、黒森さん! その『芦屋先輩』とか『芦屋さん』っていうのももう無しにしようよ。わかりにくいし」
「……まあ、ややこしいですね。それに関しては同意します」
「でしょ? だから、私のことは美里奈って呼んで? 私も、黒森さんのこと綾乃ちゃんって呼ぶから!」
以前は黒森に一蹴された呼び捨ての提案。だが、今は状況が変わった。この共同作業をこなす上で、『芦屋』という苗字で指示を出されたらややこしいことこの上ない。
だから、しばらく考えた末、黒森はようやく頷いた。
「わかりました、美里奈さん。呼び捨てを許可しましょう。ただし、あまり馴れ馴れしくしないように――」
「わーい! よろしくね、綾乃ちゃん!」
「ちょ……人の話を聞いてください! っていうか、余計に血が……ああっ!」
感極まった様子で抱き着く美里奈。黒森はその手から逃れようと身じろぎするものの、完全に懐に入った美里奈を引き剥がすのに手こずっている様子。
なかなか微笑ましい光景だった。二人とも、先ほどの惨劇のせいで猫の血まみれであるという点に目を瞑れば。
黄色い声を上げてじゃれ合う女子二人から視線を逸らし、俺はアトリエの床に落ちた猫の胴体と、木の台の上に残された生首を見る。
どちらももう死後の痙攣を止め、すっかり死骸らしくなっている。だが、つい先ほどまでの暴れようで飛び散った血は、アトリエ内のあちこちを赤く汚していた。
「……これ掃除するの、大変だな」
後片付けの苦労を思い、俺は今からため息をつくのだった――
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