4-2


「ごちそうさま!」


 夕食の席で、美里奈は綺麗に俺の作った料理を食べ終わり、満足そうに言った。両親が死んでからは、食卓は俺と美里奈の兄妹二人だけ。


 だが、今日はもう一人の来客がテーブルを囲んでいる。


「ごちそうさまでした。確かに美味しかったですね。芦屋――良一先輩の卵焼き」


 黒森は素直に感心した様子で呟きながら、フォークを置いた。


 猫の血のシャワーを浴びたワンピースは洗濯中で、今は美里奈のシャツとスカートを身に着けている。サイズは確かに違うが、黒森が痩せているためかそれほどきつそうでもなかった。


「でしょ? でしょでしょ? お兄ちゃんの作る卵焼きは、世界で一番おいしいんだから」


 自慢げに胸を反らしながら、嬉しそうにする美里奈。まるで自分が作ったかのような喜びようだ。


「いつも良一先輩が料理を?」


「まあな。美里奈に包丁を持たせると危ないし」


「殺人鬼みたいな言い方ですね……」


「誤解するなよ。怪我をするから危ないってだけだ。美里奈なら、包丁で指を切り落としても気付かず料理を続けるかもしれない」


「そんなことないよ。さすがの私も、指が切れたたら気付くって」


 美里奈がおかしそうに俺の言葉を訂正する。


「仮に気付いても、指落としたまま料理続けるだろ。おまえは」


「うん、それはあり得るかもね。そのまま落とした指も煮込んじゃったりして」


 強いて否定することもなく、美里奈は頷く。手を血まみれにしながらも鼻歌を歌って危なっかしく包丁を振るう美里奈の姿が、頭に浮かぶようだった。


「……食後にする話にしてはスプラッタですね」


 黒森が咎めるように言う。


「でも、別に平気だろ?」


「まあ、平気ですけど……それでも、TPOというものがあるでしょう」


「グロ絵を教室や美術室で描く奴にTPOを説かれたくはないな」


「美術室は絵を描く場所ですし、教室で休み時間をどう過ごそうが私の勝手です」


 言いながら、黒森は自分が食べ終わった後の食器を重ねて片付け始める。


「いいって。後で俺がついでに洗っとくから」


「そういうわけには行きません。泊めてもらう上、そこまで世話を掛けるわけにはいきませんから」


「うん! 食べた後はお片付けだよね」


 美里奈もいつも通り、食器を片付けて流しへともって行き始める。黒森もそれに続いて、テーブルから立ち、食器を持っていく。


「スポンジ、貸してもらえますか?」


「うん、どうぞ!」


 流しで二人並んで食後の食器洗いに励む黒森と美里奈。その姿は、ともすれば姉妹のようにも見えるから不思議なものだった。





 そして、夜――


 俺は自分のベッドの上で、まんじりともせず天井を眺めていた。昼間の猫の虐殺とその後片付け、日頃の家事諸々で心地いい疲労感に包まれているのに、不思議と眠気は無い。ただ両の掌を枕にしながら、瞼を閉じることもなくぼんやりと黒森のことを考えている。


 名前を知ったのもついこの間。それまでは話したことさえない後輩。だが、ほんの短い付き合いとはいえ、俺は少しずつ黒森のことをわかり始めているような気がした。


 少なくとも、悪い奴ではない――いや、それは語弊があるか。小動物が虐殺されるところを見学して、それをモチーフに絵を描こうなんて考えるのは、一般的な倫理から言えば善人には程遠い。だが、それに関しては俺も美里奈も同じこと。


 正しく言い換えるなら、あいつは俺や美里奈に害悪じゃない。美里奈を傷つけることも無ければ、俺たちを脅迫するつもりもない。今の残虐画製作への協力を持ち掛けてきたときに『断ってもいい』と言っていたが、それも本心からのことなのだろう。


 真面目というか、律儀というか……変人の割に、妙なところで筋を通す。黒森とはそんな少女だ。


 だが――と、そこで俺は自問する。だったら、わざわざ今日みたいにあいつの酔狂に手を貸してやる必要もない。俺が断れば、黒森は別に恨みに思うこともなく素直に引き下がるだろう。そして、美里奈の動物虐待癖についても秘密にしてくれるに違いない。


 それなのに、どうして手を貸しているか、と言えば――その理由は偏にあいつが呟いた言葉が気になったからだ。


 ――私の命が、終わる前に。


 あの時、黒森は確かにそう言った。聞こえるか聞こえないかの微かな声で。恐らくは本当に独り言だったのだろう。俺や美里奈に向けて投げかけた言葉ではなく、己自身への決意表明。


 だからこそ、俺は何となくその意味するところを訊ね損ねてしまった。聞いてはいけない秘密を垣間見たかのような、妙な後ろめたさを感じてしまって。


 それに、斎藤先生も示唆していた。あいつが何かただならぬ事情を抱えていることを。そして、それは養護教諭であるである彼女の口からは言えないこと。


 つまり――


「本人に聞くしかないよな……」


 今までなら放置しておいてもよかったが、今こうして黒森に美里奈の秘密を知られた以上、俺も向こうの事情を知らないというのは据わりが悪い。


 だが、聞いたところで向こうが話してくれるかどうか――


 そんなことを考えているうちに、壁一枚向こうから話し声が聞こえてきた。


 両親の寝室はもう長いこと使われておらず埃が積もっていたので、黒森も美里奈と一緒の部屋で寝ることになったのだった。


「ねえ、一緒の布団で寝ようよ? 床に直で布団敷いたら、眠りにくくない?」


「結構です。そんなことをするほど仲良くなった覚えはないので」


「じゃあなおさらスキンシップしようよ! 仲良くなるために!」


「そもそもそのベッド、二人で寝るのは無理でしょう」


「そうかな? ぎゅうぎゅうに詰めて、ぴったり身体をくっつければ寝られるよ」


「セクハラですよ、それ……」


「え? 何で?」


「……何でもありません。とにかく、早く眠ってください」


 窓を網戸にでもしているのか、話し声がひどく明瞭に聞こえてくる。そのせいで、余計に俺は眠りに就くのを妨げされていた。


 そうして、美里奈と黒森の他愛無い会話――というか、ベッドに同衾するかどうかの問答は一進一退で進んだ。だが、やがて美里奈の声は止み、代わりに可愛らしい寝息が聞こえ始めた。


 どうやらようやく眠ったらしい。クラスメイトを家に読んで、はしゃいで遊び疲れて眠りに落ちる。まるで子供のようだった。


 とにかく、これで俺もようやく寝ることができる


 ――そう思っていたが、ふと美里奈の部屋のドアが開く音がした。


「……?」


 それから辺りを忍ぶように廊下を歩いていく音。美里奈の寝息は続いているから、恐らく部屋から出たのは黒森だろう。


 トイレか何かだろうか。別にそれほど気にすることでもないのかもしれない。だが、この家にはトイレは二階にもあるのに、階段を一階へと降りていく足音がする。少し奇妙だった。


 気にせずに眠れば良かったが、目を瞑っても意識が階下に集中してしまって眠気が来ない。そもそも、いみじくも黒森が言った通り、俺たちは美里奈の秘密を知られたことがきっかけで繋がっているだけでそれほど親しくもない他人なんだ。深夜に歩き回られるのは気分が良くない。


 ……よし、起きて確かめるか。


 もしも本当にトイレだったら気まずい。だが気まずいだけだ。別にそこまで俺があいつに気を遣ってやる義理も無い。俺はベッドから降りると、部屋の外に出た。


 そして、ゆっくりと階段を降りるとキッチンの方に電気が付いていた。


 俺が気になって覗き込むと、テーブルを挟んだ向こう側に黒森がいて食器棚の前に立っている。眼鏡は外していて、美里奈のパジャマを着ていた。サイズは違うが、ゆったりとしているのでそう違和感もない。


 今にも扉の取っ手へと指を伸ばそうとしているところだった。


「何やってるんだ?」


「……っ!」


 驚いた様子で、黒森はこちらを見る。


 それから、俺の姿を認めるとゆっくりと深呼吸をした。


「驚かさないでください。びっくりしたでしょう」


「それは悪かったな。で、他人の家で深夜に何を探してるんだ?」


「いえ……少し、飲み物が欲しくて。コップを探していたんです。起こすほどのことでもないと思いまして……」


「そうか……好きなコップを遣えよ。飲み物は、ミネラルウォーターでいいか?」


 俺はキッチンの入り口付近にある冷蔵庫の扉を開いて、中からペットボトルを一本取り出し、テーブルの上に置いた。


「ありがとうございます」


 思いのほか普通の答えに拍子抜けする。まあ、まさか本気で泥棒をしているなんて思ったわけじゃないが……これで懸念は晴れた。


 そして、再び二階へと戻ろうと思ったが――その時、黒森が後ろ手に何かを隠しているのに気付いた。


「何持ってるんだ?」


「いえ、これは……」


 俺が指摘すると、黒森は気まずそうに後ずさって、余計にその品を隠した。


 怪しすぎる――まさかとは思っていたが、本当に泥棒を……?


 俺が疑いの目を向けていると、黒森は観念したようにため息をついた。


「先輩が何を考えているのかはわかります。ですが、誤解ですよ」


 言って、黒森はテーブルの上へと何かを置いた。それはポリウレタン製の小さなポーチだった。俺のものでもないし、美里奈のものでもない。つまりは黒森の私物ということだろうが……


「中身は?」


「どうぞ、開いてください。見ればわかりますよ」


「いいのか?」


「見られて恥ずかしいものは入ってませんよ」


 黒森がそう促すので、俺はポーチの留め具を外して中身を見た。すると、そこには何種類もの錠剤が入っている。包装シートに書かれている薬品名はどれも聞いたことのないものばかり。


 単なる風邪薬ではないのは明らかだった。其れに気付いた途端、俺は期せずして黒森の『事情』に踏み込んでしまったことを悟った。


「病気……なのか」


「……まあ、もう隠すことでもありませんね」


 再三のため息を吐くと、黒森は渋々といった調子で口を開いた。


「ええ。病気ですよ。生まれつきですのね。美里奈さんと同じですね。ただし、私の場合は神経ではなく、心臓ですが」


「…………」


 人間の持つ臓器の中でも、最も致命的な部位だ。今まで美里奈と一緒に殺した数々の小動物の例を引くまでもなく、心臓を害されれば動物は生きていけない。


 これ以上は踏み込むな。俺と美里奈には関係ないことだ。自分にそう言い聞かせるものの、俺の口は勝手に動いてしまっていた。すでに一歩足を踏み入れた秘密の沼へと、ゆっくりと沈み込んでいくように。


「これを毎日……?」


「はい。飲まないとただでさえ短い余命が縮みますから」


 俺の質問には、黒森は顔色を変えずに平然と答える。まるでどうでもいい他人事を語るかような調子だった。


「拡張性心筋症――それが病名らしいです。生まれつきの体質で、どうしようもないそうですよ? 医者の先生が言うには、心臓の筋肉が少しずつ、少しずつ……時間をかけて薄く伸びていくんです。そして、血を送る力が弱まって、やがて死に至るとか」


「……治療法は無いのか?」


「唯一完治する方法は、心臓移植だけですね。ですが以前、手術をしようとしましたが、身体が持たず中断しました。心臓の組織が弱くて、耐えられないそうです。移植用の心臓もそうそうあるものでもないですし……今できることは、薬を飲んで、少しでも病気の進行を遅らせるだけですね」


 説明しながら、黒森は食器棚の中からコップを一杯取り出す。そして、今度はテーブルへと向き直り、先ほど俺が置いたミネラルウォーターのペットボトルから水を注ぐ。


 それから、ポーチの中から数種類の錠剤のシートを取り出して、一つずつ口の中へと放り込んでいく。


「二十歳まで生きられれば幸運な方……らしいですよ。もう私の命はカウントダウンが始まってるんです」


「…………」


 錠剤を一つ口に含むごとにコップから水を飲む黒森。その動作を一度繰り返したら次のシートを取り出し、一錠、時には二錠三錠を同時に服用する。


「小さい頃から、ずっと『死』がそばにありました。激しく運動したり、疲れたりすると、自分でも怖くなるほど鼓動が遠くに感じるんです。それに、リズムも不規則で、壊れかけの時計みたい。私のここは、いつ止まってもおかしくない――医者に言われるまでもなく、理解してましたよ。私の命は長くないって」


 話しながら薬を飲むのを繰り返す黒森。瞬く間に飲んだ錠剤の数は十を超えた。まるでラムネ菓子を食べるかのような慣れた手付きが、かえって痛々しかった。


「……死体の絵を描くのも、そのせいか?」


「そうかもしれませんね。否定しません」


 俺の指摘に、黒森はこくりと頷き――そして、残虐画のルーツを語り始めた。、


「小学生の頃は病院にかかりっきりで、むしろ学校よりも多く行っていました。激しい運動も禁じられて、私にできる唯一の慰みは絵を描くことだけでした。そして……ある日、窓のすぐ外で蜂が一匹死んでいるのを見かけたんです。だから、私はその姿を画用紙に描きましたよ。『自分もいつかこうなる』――そう思うと、不思議と親近感が湧いたんです。死体の絵を描くようになったのは、それからのことです。私が描くのにふさわしいモチーフは、『死』の他にありませんから」


 最後の一錠を飲み終わるとコップを空にすると、黒森はテーブルの上に広げた何種類もの錠剤を再びポーチの中へと戻していく。それらの錠剤はこれから毎日、黒森が生きている限り欠かさず、その細い喉を通っていくことだろう。一生、終わることなく。


「……つまらない話だったでしょう? 退屈させてすみませんでした」


 黒森はポーチの留め具を元通りにすると、俺の方へ頭を下げた。


「それから……私のわがままに付き合わせて、すみません。あの絵を完成させたいのは――ただの棺桶に片足入った半死人の意地です。迷惑でしょうけど、我慢してもらえればありがたいです」


 黒森の『事情』――その予想以上の重さに俺はしばらく立ち尽くしていた。


 恐らく黒森は同情など望んでいないし、哀れまれるのも真っ平だろう。だから薄っぺらな慰めの言葉を掛けることもできない。


 ただ、俺は一言だけ、呟くように発した。


「……悪かった」


「……? 何で謝るんです?」


「前、話しただろ。おまえが『人生の証を残したい』って言ったとき――俺、酷いことを言った。『まだ人生の半分も生きてないのに』って。『焦ることない』って」


 抱いた感情は同情でも、哀れみでもない。沸々とこみ上げる自分への怒り。ただ、黒森の事情を知った今なら、あの時の俺を自分でぶん殴りたくなる。自分だけが特別な事情を抱えていると思い込んで、こいつの抱えているものを慮れなかった俺のことを。


 こいつはずっと時間を惜しんでいた。自分をイジめてくる加害者に関わり合うことも、周囲の目を気にして絵を描くことを遠慮することもしなかった。


 それはすべて、本当に時間が無かったから。俺と違って、もう自分の命の終わりを意識していから。


 ――私の命が、終わる前に。


 あの言葉は、つまりそういうことだった。


 こいつは『人生の半分』なんて、もうとっくの昔に過ぎていたんだ。


「だから、すまない……」


 絞り出すようにそう言って、俺は頭を下げた。


 黒森はしばらくの間、黙っていた。だけど、すぐに声を和らげてこう言った。


「顔を上げてください。別に気にしてませんから」


 その言葉に、俺がおずおずと顔を上げると、驚いたことに黒森は優しげに微笑んでいた。


「妹のことしか頭に無い人だと思っていましたが……結構、思慮深いところもあるんですね。正直、意外です」


「…………」


「……? 何ですか、じろじろ見て」


「いや、笑ってるところ、初めて見たなって思って。それに、眼鏡外すと意外と可愛いんだな」


「……!」


 俺に指摘されて初めて気付いたのか、黒森は自分の口元へと手をやった。それから、すぐにいつもの不愛想な仏頂面に戻る。


 だが、それは無理矢理に作っているものだということは目に明らかだった。何しろ、その顔は耳まで赤く染まっていたから。


「急に変なこと言わないでください……私の絵のモデルになりたいんですか?」


「おまえの絵だけはごめんだな……」


『絵のモデル』というキーワードがこれほど物騒な意味に変わる奴も黒森くらいだろうな。


「とにかく……同情や哀れみは要りませんから。そういうのは一番嫌いです。今まで通りで構いません」


「ああ。なるべくそうするさ」


 他人からの憐憫や同情の視線――黒森はそんなものに何度も煩わされてきたのだろう。だからこそ、今までそのことを隠していたに違いない。


 不愛想で他人を拒絶するようなその態度も、そんな視線に晒されることを防ぐための仮面なのかもしれなかった。


「それから……美里奈さんには、このことは黙っていてください」


 黒森の付け加えた言葉を訝しく思い、俺は首を捻った。


「……別に構わないけど。でも、美里奈だっておまえを哀れんだりしないと思うが」


 美里奈は自分の痛みが理解できない。従って、当然、他人の痛みや苦しみはなおさら理解できない。それがあの無邪気な虐待癖に繋がっている。


 だから、そもそも他人を哀れむという機能が欠落しているのだ。わざわざ美里奈に秘密にする意味は無いように思うが――


「違います。ただ――悲しませたくないんです。仮にも私を友達と慕ってくれる、あの子のことを」


 だが、返ってきたのはさらに意外な返事だった。


「……知ってるだろ? 美里奈が感じないのは、身体の痛みだけじゃない。悲しみ――つまり、心の痛みだって美里奈には無い」


 俺が分かり切ったことを説明すると、黒森は静かに首を横に振った。


「そう、でしょうか……? 私は、そうは思いません」


「何……?」


「美里奈さんは、身体の痛みを感じない。それは確かでしょう。いつも苦しみや悲しみなんて無縁のように笑っているのも確かです。でも――痛みを感じるのは、傷付くからです」


「何が言いたい?」


「美里奈さんが悲しまないのは、あなたが傷付かないように守っているおかげなんじゃないですか? 小さいころから、ずっとそうしていたんでしょう? 今みたいに、ずっと彼女の傍にいて……私に頼んだみたいに妹が傷付かないように、いつも気を遣っていたのではないですか?」


「…………」


 黒森の言葉に、俺は黙り込む。


 美里奈の心身の無痛症――少なくとも『身』に関しては間違いなく美里奈は痛覚を持たない。それは美里奈が生まれた時から傍にいる俺が良く知っている。


 まだ美里奈が幼稚園児だったころ、床に落ちていた釘で自分の掌を楽しげに指していたのを止めたこともある。自分の指の爪を剥がしていたのを必死にやめさせたことも数えきれないほど。


『心』の痛みに関してもそうだと思っていた。いわゆる良心の痛みという奴を感じないからこそ、平然と小動物を虐殺できるのだ、と。


 だが、黒森の理屈で言うなら――それはそもそも、心を怪我したことが無いからだということになる。傷付かなければ、痛みも無い。だが、だからといって今まで一度も傷付いたことがない人間に痛覚が無いということにはならない。


 だが――


「でも、美里奈は父さんと母さんが事故で死んだ日もあの調子だった。悲しんでる様子なんて、欠片も――」


「それは、『死』を理解していなかったからじゃないですか? 小さな子供が、身近な人の死の報せを聞いても悲しまないのと同じように。それに――あなたが悲しまないように、ずっと傍で支えたんじゃないですか?」


「……俺は兄だからな。妹を守るのは当たり前のことだろ」


 両親が死んだ後、俺は前以上に美里奈の傍にいた。遊びにも付き合ったし、怪我をしないよう四六時中面倒も見た。


 いや――そもそも、両親は動物を虐待する美里奈のことを厭っていたし、よく手を上げていた。家族とは名ばかりで、美里奈と父さん、母さんの間に絆なんて無かったことだろう。


 本当の意味で、美里奈が大切な人を亡くしたことなんて、一度もない――それは、俺も認めざるを得なかった。


「確かに、心の痛みを感じにくいのは確かでしょう。他者の苦しみへの共感性が著しく低いことも。でも、だからといって悲しみという感情が無いとは断定できません。そして、その可能性があるなら、私は万に一つも彼女を傷つけたくありません。だって――」


 それから、不意に黒森は視線を下げた。


「――傷つけても、死んだ後には償うことなんてできませんから……」


 ……ああ、なるほど、と。


 俺はこの時初めて腑に落ちた。


 黒森が異様に貸し借りの清算にこだわる理由。それは残りの命が短いから。誰かに借りを作ると、その借りを返せないまま死んでしまう可能性がある。


 絶対に避けられない死に向けて、少しでも後悔の無い生を歩むために、黒森は今、残り短い命を燃やしているのだった。


「……あくまで『もしかしたら』の話ですけどね。でも、気がかりは作りたくありません」


「ああ、わかった。美里奈には黙っておく」


「ありがとうございます。では、これで……おやすみなさい」


 そう言いながらぺこりと頭を下げて、黒森は俺の横を通って、リビングから出て行った。


 俺はその後ろ姿を見ながら、


「……おやすみ」


 と、声を送った。


 黒森が階段を昇り終わり、美里奈の部屋のドアを開ける音がした後も、俺はしばらくの間リビングで立ち尽くしていた。


 黒森のこと、美里奈のこと。心の中に渦巻く様々なことに整理を付けようとして。だが、名状しがたい感情の澱が、いつまでも胸中に漂っていた。

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