4-3
『拡張性心筋症』――その病名をノートPCのキーボードで打ち込み、ネットで検索を掛ける。
出てきた情報一つ一つに目を通していくが、そこに書かれている大要はどのサイトも同じ。つまりは『治療困難の難病』。黒森の言っていた通り、症状の進行を遅らせるだけの薬物治療が主となる。だが、それでもいずれは心臓の筋肉は弱っていく。根治するには、現状心臓移植か人工心臓にするしかないが、それもできない場合は――
「…………」
やがて、俺はノートPCを閉じ、沈黙に耽る。
黒森の秘密を知ってから一週間。俺は詮無いことと知っていても、毎日のようにあいつの病名を調べていた。
まったく……自分でも自分のしていることがわからない。調べたところで、どうするというんだ? 黒森が余命わずかだからといって、俺には関係無い。
そう自問するものの、一度心にかかった雲は晴れなかった。
美里奈のように大切な家族というわけでもない。若葉のように友達というわけでもない。斎藤先生のように恩人というわけでも――いや、妹を助けてもらったという恩はあるが、それだって本人に言わせれば貸し借りの問題だ。
それなのに、あいつが数年と経たずに死ぬということを考えると、どうしても心が千々に乱れた。
その時、不意に一階の玄関からインターフォンの音が鳴り響く。それに続いて、隣の部屋のドアが開く音。
「お兄ちゃん! 綾乃ちゃんが来たよ!」
「ああ、今行く」
美里奈が階段を下りていきなが声を上げるのに返事をしながら、俺は椅子から立ち上がった。また今日も共同作業が始まる。
アトリエの中、俺たちはめいめいに作業の準備をする。黒森は画具を用意し、俺と美里奈は今日のモチーフとなる生き物を黒森の指示する位置へと置いた。
もうそんなことをここ一週間ほど続けている。学校が終われば、放課後には黒森が家に来るし、休日に至っては朝から作業を始めて暗くなるまで絵を描きっぱなしだ。
今日の生贄は、鮮やかな薄緑色の羽根をしたインコだった。やはりバイト先のペットショップの売れ残りを貰ってきたもので、羽毛の艶が良い。アトリエ中央に据えられた台の上に、鳥籠が置かれ、その中で大人しく毛繕いをしている。これから自分の身に降りかかる事態を知る由もなく。
俺はアトリエの端にあるコンセントに半田ごての電源プラグをセットし、十分に金属棒の先端が熱され始めていることを確認した。
「もう行けそう?」
「ああ。だけど、気を付けろよ。火傷しないようにな」
「うん!」
そう言うと、美里奈は半田ごての取っ手を持ち、アトリエ中央に据えられた鳥籠へと近づいた。
「じゃあ、綾乃ちゃん! 始めるね?」
「ええ、お願いします」
もうすっかり名前呼びにも慣れた様子で黒森が答えた。木製のパレットの上で油絵具を混ぜながら、色を作っている。
それを確かめると、美里奈は鳥籠の格子の隙間から、熱された鉄の棒を差し入れた。止まり木に留まっているインコの羽根へと先端が触れると、緑色の羽毛が無残に焦げ付き、異臭を放つ煙が立ち始める。だが、鳥はそれに気付いていないようすで首を傾げるように動かしていた。
だが、美里奈がぐい、と深く半田ごてを差し入れると、鳥の肉体に熱棒が食い込み、同時に甲高い鳴き声が鳴り響く。小さな翼を大きく広げ、バタバタと狭い籠の中で羽ばたいた。
恐怖に駆られて飛び立とうとするも、金属の格子が遮り、生贄が逃れることを許さない。インコが狂乱する間にも、美里奈は器用に金属棒を中に差し込み、玩具を責め苛んでいた。
飛び散る羽根。アトリエ内に充満する肉の焦げる臭い。小鳥の悲鳴はどこまでも高く響き渡る。
そんな中、黒森は眉一つ動かさずにこの光景を凝視し、筆をキャンバスの表面に走らせていた。パレットの上では、緑色の絵具にさらに赤色の絵具を混ぜ、名状しがたい色が生み出されていく。それはそのまま、鳥籠の中で焼け爛れた肉を露わにしていく哀れな鳥類の体色だった――
やがて、鳥の鳴き声も、羽ばたきの音も絶えた時、鳥籠の中には羽毛の剥げ落ちて身体のあちこちが赤黒く焼け焦げたインコの死体が横たわっていた。
「ふぅ……こんな感じでいいかな? 綾乃ちゃん?」
「ええ。素晴らしいです」
美里奈の手際に賛辞を送りながら、黒森は小鳥の死骸をキャンバスに写し取っていった。その表情は真剣そのもので、まるで何かに取りつかれたかのようだった。
そんな黒森の邪魔をしないように、俺は後ろから絵を窺った。猫、蛙、ヘビ――この一週間で殺した様々な動物が無残な骸を晒している。そして今、黒森の筆は焼け焦げたインコの屍をあまりにも生々しい色彩で描いているところだった。
死骸の山はまだ完成まで三割方といったところ。それでも、未完成の状態でさえ鬼気迫るものがあった。醜悪でおぞましいはずの『死』がこうして黒森の筆を通すと、どこか暗い美しさを得る。例えるなら、まるで深い沼の水面を見るときのように、視線を吸い込まれてやまない。
「本当に……きれいだよね」
気付けば、いつの間にか美里奈も俺の隣に来て、黒森の絵を見ていた。その目は瞬きもせずに残虐がへと吸い寄せられ、どこか恍惚とした様子でため息をついていた。
「ああ……」
俺も素直に美里奈の問いかけに同意を返した。幽霊部員だが、美術部の端くれではある。その絵の美しさを認めないわけにはいかなかった。
「お二人のおかげです。私一人では、描き始めることさえできませんでした。ありがとうございます」
不意に、黒森は絵筆を止めることなく、俺たちに礼を言った。
その態度を俺は不思議に思う。
「後ろから見られるのは、気が散るんじゃなかったのか?」
「ええ……そのはずでしたが」
視線は絵に集中しながら、黒森はどこか言葉を選ぶように訥々と声を紡ぐ。
「今は不思議と平気です。慣れたのかもしれませんね。だから、別に見ていても構いません」
「そうか。じゃ、そうさせてもらうよ」
「うん! 見てると楽しいしね。綾乃ちゃんが絵描いてるとこ!」
本人から許可を得て、俺と美里奈は黒森の作業を観察する。
その筆の一塗りごとに絵は真実性を帯びていき、焦げた小鳥の屍から臭いが立ち上るかのよう。迷い無くパレットとキャンバスを往復する筆の動きはそれ自体が一個の芸術とさえ思えるほど流麗だった。
画布に色が塗り重ねられていくのを、俺は言葉を発することもなく見続けていた。
だが――一度も止まることのなかった黒森の手に変化が起きる。画布に豚毛の先端が触れる寸前、ぴたりとその筆が止まったのだった。
「……っ」
黒森は息を飲み、初めてモチーフと絵以外のものへと視線を向けた。自分の手が震えているのを目にして、彼女は忌々しげにため息をつく。
「……そろそろ休憩した方がいいんじゃないか。紅茶でも淹れよう」
「……そうですね」
普段の黒森なら、俺の提案も断って、ただひたすらに描画作業に没頭していたことだろう。だが、震える手を隠すように下ろしながら、消え入るような声でそう答えるのだった。
「じゃあ、私が淹れてくるね!」
「ああ、頼む」
美里奈は黒森の異変に気付いた様子も無く、アトリエの扉から外へと出て行った。
それを見送った後、俺は黒森の方へと向き直る。作業用の丸椅子に腰を下ろしながら、震える手を見つめている。そして、どこか疲れた様子で深い呼吸を繰り返していた。
「根を詰めすぎなんじゃないのか? あまり無理するなよ」
「無理なんて元からですよ。ガタが来ているのを、強引に動かしているようなものです。身体を労わっていたら、完成する前に死んでしまいます」
「だからって、今倒れたら元も子も無いだろ」
「重々承知していますよ。自分の身体のことは、自分が一番よくわかっていますから」
大儀そうに息を吐いて、黒森は丸椅子から立ち上がろうとする。だが、その足がふらつき、身体が傾いた。
「おい!」
反射的に黒森の身体を腕で抱き留める。その時、身体に感じた体重の軽さに、俺は戦慄するほどだった。美里奈よりも背が高いのに、その体重はともすれば美里奈と同じか、それ以下かと思うほど。まるで空洞のガラス細工に触れているかのようだった。
「すみません……お手数をおかけして」
「いいから座ってろ。今は休め」
「……はい」
弱弱しい声で答えながら、黒森は丸椅子に座り直す。そして、再び辛そうに呼吸を繰り返すのだった。
生まれた時から、すぐそばに『死』があった――他人である俺には、黒森の感覚を完全に理解することはできない。だが、その脆い身体を感じ、その一端に触れたような気がした。
やがて、とたとたと階段を上ってくる音が響く。続いて、アトリエのドアが再び開いた。
「お待たせ! 紅茶淹れたよ!」
天真爛漫な美里奈の声。その手には、三人分の紅茶のカップが載せられている。それに対して、黒森も努めて平静を装った。
「ええ……ありがとうございます。美里奈さん」
「ああ。三人で飲もう」
すると、俺たちの様子を見て、美里奈は首を傾げた。
「……? どうかしたの? 二人とも、何か変だよ?」
「いえ、別に……」
不思議そうな視線を向ける美里奈。それに対して、黒森は相変わらず空元気を続けている。やはり、美里奈に打ち明ける気は無いようだった。
「ふうん……? まあいいや。じゃあ、ティータイムだね!」
美里奈は特に気に留める様子もなく、アトリエ内にある小卓の上へとティーカップを並べ始めた。
即興の鼻歌を唄う美里奈の横顔を見ながら、俺は黒森の言っていたことを思い出していた。
あらゆる苦しみや痛みに鈍感な、美里奈の無痛症――だが、それは身体だけの話で、心まで痛みを感じないわけではないのではないか。
しかし、インコを殺害した後も今のように無邪気に振る舞う姿を見ていると、黒森の言葉も机上の空論に過ぎないのではないかと思えてくる。
それに、考えたところで仕方がない。美里奈に『悲しみ』という感情があったとしても、無かったとしても、俺のやることは変わらない。妹が傷付かないよう守るだけ――つまりは、今までと同じことだ。
そう思いながら、俺は椅子へと腰を下ろし、ティーカップを手に取った。
こうして作業中に休憩を挟む時は、ほとんどが美里奈の黒森への質問責めに費やされる。
「ねえねえ、綾乃ちゃん! どうやったらあんなに上手に描けるの?」
「どうやったら……あまり意識はしたことありませんね。子供の頃からただひたすらに絵を描き続けてましたから」
「なるほど、練習あるのみってことだね! かっこいい……」
「別に……他にやることが無かっただけですよ」
まるで子供がスターに憧れるかのような羨望の眼差しに、黒森はどこか落ち着かなげに視線を泳がせる。
やはり、あんな絵ばかり描いていたからか、他人から褒められ慣れていないだろう。絵の完成度自体は高いのに、それが小動物の死骸ばかりと来ては見るものを選ぶにも程がある。
若葉のように黒森の才能を認めていても、生理的に絵を直視できないというパターンが大方だろう。
「私も練習したら、綾乃ちゃんみたいに絵を描けるかなぁ?」
「私みたいに――というのはともかく、実際描いてみないと何とも言えませんね。というか、こんな立派なアトリエがあって今まで絵を描かなかったんですか?」
勿体ないと言わんばかりに、黒森は俺と美里奈に交互に視線を注いだ。
「父さんが生きていた頃は、立入禁止の仕事場だったしな。それに、両親が死んでからは美里奈の『遊び』に使ってたし……本来の目的で使ったのは、もう何年ぶりになるか」
美里奈の代わりに俺が質問に答える。
「なるほど……何というか、宝の持ち腐れというか……人の家なので、使い道に口は挟みませんが」
黒森は改めてアトリエの中を見渡して嘆息する。
黒森の描画作業を始めるに当たって、本格的に中を掃除したので、室内はもう以前とは見違えるほど綺麗だった。それでも、毎回小動物を虐殺すると床が血みどろになるのでそのたびにモップを掛けることになるが。
「そうだ! いいこと思いついた!」
その時、不意に美里奈が椅子から立ち上がり、決意を表すように両手でガッツポーズをしていた。
「思いついたって……何をですか?」
「私も絵を描くの! 綾乃ちゃんにアドバイス貰えれば、きっとすぐに上達するよ!」
美里奈は興奮した様子で、黒森にきらきらと輝く目を向けている。その様子に、黒森は少し身を引いていた。
「ねえ、いいかな? 休憩中だけでいいからさ! 私が絵描くとこ、見ててくれない?」
「え? ええ……まあ、お世話になってますし。そのくらいなら……」
「やった! じゃあ、早速始めよっと! あ、綾乃ちゃんは座ってていいからね?」
美里奈は紅茶のカップをそのままに席を立ち、アトリエの片隅を漁り始めた。そして、次々にイーゼルやキャンバスといった用具をかき集める。
その様子を俺と黒森はただじっと見守っていた。
「いいのか? 美里奈のいつもの気まぐれだ。別に断っても――」
「いえ……休憩するには良い口実です。今日はもう、絵を描けそうにはありませんし」
言いながら、黒森はそっと自分の胸を押さえる。やはりまだ、その心臓は長時間の作業に疲れているのだろう。その指は未だに少し震えていた。
激しい運動ではないにしても、毎日こうして絵を描き続けていれば、確実に負担は蓄積していく。定期的に休息を挟むのは良いかもしれない。
「それに――」
「それに?」
「美里奈さん、今までに一度もちゃんと絵を描いたことが無いんでしょう? だったら、単なる気まぐれかどうかはまだわかりません。決め付けるのはよくないですよ」
「…………」
「私は、彼女が絵を描きたいというなら、それを応援したいです。たとえ気まぐれだとしても、どんなことでも最初に始めるきっかけはそんなものでしょう?」
黒森の言葉に、俺は黙って美里奈の方を見つめた。
今は黒森の絵と比べれば遥かに小さなイーゼルに小さなキャンバスを掛けているところだ。その鼻歌交じりの楽しげな様子は子供が何か新しい遊びを始めようとしているかのよう。
美里奈はその性質から、どんなことにも気まぐれに手を出し、そしてその途中で別のおもしろいことを見出してそちらへとふらふらと寄っていく。いくつもの花が咲き誇る野原で舞う蝶のように。
今回もそうだと、俺は決め付けていた。だが、よく考えればすぐに終わると思っていた黒森との友情も、今に至るまで続いている。
俺は家族だから、ずっと傍にいて守ってきていたから、妹のことをすっかりよくわかっている気分になっていた。だが、あまりに近くにいるからこそ見えないことも確かにあるというのは認めざるを得ない。
ずっと美里奈のことを傷つけないように、背中に守ってきた。だからこそ、向き合う機会を逸していたのかもしれない。
黒森の言うことを鵜呑みにするわけじゃないが――それでも、黒森の位置だからこそ美里奈のことが良く見えることもあるのだろう。
俺のように近すぎる家族ではなく、若葉のように親しい先輩としてではなく、斎藤先生のように責任ある保護者としてではなく――対等の立ち位置だからこそ、見えることが。
そこまで考えて、俺はふとおかしくなって口元を緩めた。
「……? 何を笑ってるんです? 気持ち悪いですね」
「いや、随分友達らしいことを言うようになったなって思って。美里奈を応援したい、と来たか」
「……っ、別に……そんなことは」
ぷい、と黒森は頬を赤らめたまま向こうへ視線を逸らした。最初の頃は感情の起伏の無い奴だと思っていたが、なかなかどうして、こうしてしばらく付き合っていると、むしろ感情を隠すのが下手な奴だということがわかってきた。
確かに、やってみないとわからないことはある。黒森自身がその証明だった。
「よし、準備できた!」
黒森とそんなやり取りをしていると、美里奈が用意の終わったキャンバスの前に立ち、ぶかぶかのエプロンを付けて画筆とパレットを構えていた。
黒森が絵を描くのを見てきたからか、既にその画布には薄く下塗りを始めている。
「綾乃ちゃん、何か良い感じのアドバイスを!」
「そうですね……まずはモチーフを良く観察することです。最初は描くことよりも、観ることに集中した方がいいくらいでしょう」
「わかった! 観察だね!」
美里奈は黒森のアドバイス通り、アトリエの真ん中で死んでいるインコの鳥籠を凝視し始めた。そして、ゆっくりと豚毛の画筆をキャンバスの表面に走らせていった。
その作業を黒森はただ見つめていた。
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