3-2


 廊下を歩きながら考えるのは黒森のこと。あいつが抱えている事情について心当たりは無いわけじゃない。それは、美術部の中で行われているイジメのこと。


 だが、斎藤先生はそのことを知っているのだろうか。黒森へのイジメについては恐らくまだ若葉も知らない。たとえ黒森に苦手意識を持っていたとしても知っていたら放置するような奴じゃない。美術部部長としての責任感から何か動いているはずだ。


 俺だって、たまたまスケッチブックを探すのを手伝わなかったら知らないままだったことだろう。だから、先生が知っている黒森の事情――それはまた別件なのではないだろうか。


「……?」


 思案しながら歩いていると、廊下の窓の外にふと気になる光景が見えた。


 数人の女子生徒が校舎の裏で集まっている。ただたむろしているというより、よく見れば一人の女子生徒を校舎の壁際に追い込んで、周りを取り囲んでいるらしい。どう見ても剣呑な雰囲気だった。


 そして、その女子生徒たちに囲まれているのは黒森だった。他の女子生徒たちも改めて見ると美術部の一年生らしい。


「噂をすれば、か」


 正直、他の生徒だったらスルーしていた。美里奈は妹だから助けただけで、何の縁もゆかりもない生徒がイジメを受けていたところで救いに行くほどの正義感は俺には無い。


 だが、黒森には美里奈の件で恩があるし、たった今斎藤先生に『仲良くして』と頼まれたばかりだ。俺は上履きのまま廊下の端にある非常口から外に出て、女子生徒たちの元へと向かっていった。


「――じゃあ、今日の部活来ないでね。返事は?」


「…………」


 周囲の生徒たちから詰め寄られるも、黒森は無言。ただじっと連中を見つめているだけ。その手には、例のスケッチブックがあった。落書きはもう消されている。それを黒森は身体の前で、両手で大事そうに抱きかかえていた。


「聞いてんの? いつもグロい絵ばっかり描いて……」


「毎回捨ててやってんのに、ゴミ箱からスケッチブック漁ってんの? 本当、気色悪いよね」


 周囲から次々に浴びせられる嫌悪の言葉。


 だが、その渦中にいて黒森は平然とした表情を崩さなかった。


「用件はそれで終わりですか? では、失礼します」


 そう言って、黒森は眉一つ動かさずに女子生徒たちの間を歩いて通り抜けようとする。だが、そこで一人の女子生徒が苛立ったように黒森を手で突き飛ばした。


「……ッ」


 バランスを崩し、その場に転倒する黒森。同時に手からスケッチブックも取り落とし、衝撃でページが開く。黒森の描いた数々の残虐画が露わになり、周囲の女子生徒たちが悲鳴を上げた。


「この……! こっちが甘くしてたら調子に乗って……こんな気持ち悪い絵描いて、みんな迷惑してるんだってわかんないの?」


 言いながら、一人の女子生徒がスケッチブックの絵へと足を振り下ろそうとする。


「やめてください……!」


 だが、その時初めて黒森が声を荒げ、絵を守るようにその上へと覆い被さった。その抵抗でさらに苛立ったのか、相手はそのまま足を振り下ろそうとした。


「――そこまでにしとけよ」


「……!」


 俺が背後から声を掛けると、その女子生徒は足を止め、俺の方を振り返った。他の美術部員も同様で、揃って驚愕の目で見つめた。


「副部長……」


 特に黒森を足蹴にしようとしていた生徒は、罪悪感に駆られたように目を伏せた。


 そして、気まずい沈黙が場を支配する中、黒森がスケッチブックを抱えてよろよろと立ち上がった。


「何しに来たんですか、先輩……」


「助けてやったのに、とんだ言い草だな。それとも、わざと暴力沙汰になるまで耐えてたのか? そいつらを停学にするために」


『停学』という言葉で加害者たちがざわつくのが分かった。本人たちからしてみれば自分たちの側が正しくて、制裁のつもりでやっていたのだろう。自分たちが罰されるという可能性など全く頭に無かったに違いない。


 そういう点では、高橋さんの方が何倍もイジメの手際は上だった。少なくとも、イジメの現場に女子トイレという密室を選ぶだけの知恵はあったのだから。


 しかし、黒森は相変わらず表情を変えずに首を横に振った。


「この人たちの処分なんて、別に興味はありません。私はくだらないことで時間を浪費するのは嫌いなんです」


「……だそうだ。運が良かったな、おまえたち。さっさと行け」


 黒森の言葉を受けて俺が一年生たちに言うと、蜘蛛の子を散らすように女子生徒たちはその場を立ち去っていった。


 こっちだって別にこいつらの処分がどうなろうと知ったことじゃない。黒森が面倒ごとが嫌だというなら、その意向を無視してまで罰を与えたいなんて思わなかった。


 そして、加害者たちの足音が絶えた後、校舎裏には俺と黒森の二人だけが残った。


「……今度は本当に感謝なんてしませんからね。私は別に、あのまま足蹴にされていても良かったんですから」


 服についた地面の土を手で払いながら、黒森は相変わらず不愛想に言った。


「ああ、別にいい。俺が勝手にやったことだしな」


 それから、黒森が大事そうに抱えているスケッチブックへと目を落とした。


「それに、連中が一方的に悪いとも思わないしな。おまえの絵を見て気分を害さないって奴の方が珍しい」


「私も重々承知の上です。あなたや芦屋さんくらいでしょうね。平気なのは」


「それをわかってて、どうして教室や美術部で描く? さっきみたいに危害を加えられるかもしれないのに。家とか、誰も見てないところで描けばいいんじゃないのか?」


「正論ですね。でも、私は時間が惜しいんですよ。休み時間も、放課後も、なるべく絵の練習に当てたいんです。彼女らに配慮して自粛するのは、時間の無駄です」


 だが、そこで黒森は少し考え込むようにした。


「ああ……ですが、美術部で描くのは少し考えた方がいいかもしれませんね。最近、妨害が露骨になってきましたし。絵を描くのを邪魔されたら元も子もありません」


「どうしてそこまでして絵を描きたいんだ?」


「美術部の副部長とは思えない質問ですね」


「幽霊部員だからな。で、質問の答えは? ただ絵が好きだからか?」


「それもあります。ですが、それ以上に――何か作品を残したい。私の人生の証となるような絵を作りたい。それが理由です」


「人生の証……ねぇ。ずいぶん大仰に出たな。俺たち高校生だぞ? どれだけ背伸びしても、まだ人生の半分も生きてないガキだ。なのに、生き急ぎすぎじゃないのか? そんなの、もっと年取ってから考えればいいだろ」


 黒森は今の時点でかなり絵が上手い。正直、うちの美術部の中では群を抜いている。だが、だからこそ現在の画力が終着点とは思えない。これから大人になっても堅実に絵を描き続けていれば、今よりさらに上達することは明らかだ。


 今から急いで生涯の最高傑作を描こうとすることに意味があるとは到底思えなかった。


「身の程知らずの大言壮語とは自覚してますよ。ですが、それを恥じるつもりもありません」


「なるほどな。でも、何でよりによってあんなグロテスクな絵ばかり描くんだ? 動物の死骸じゃなくても、他にいくらでも描くものはあるだろ」


「『死』が一番美しいと思うから……それで答えになりませんか?」


「陳腐な言い草だな。中学生辺りが言いそうな台詞だ」


「それも自覚してますよ。……話はそれで終わりですか?」


「ああ」


「では、これで失礼します」


 ぺこりと形だけ会釈すると、黒森は俺の脇を通り過ぎて行く。


 俺はその後ろ姿をただじっと眺めていた。


 人間嫌いで偏屈な芸術家肌。手に負えないほど頑固で、決して自分を曲げない。そして、上手なのに何故か生き物が死ぬ絵ばかりを描いている――それが、現時点でわかっている黒森の情報。すなわち、ほとんどあいつについて何も知らないのも同然だった。


 向こうだって、たとえどれだけ詮索しようと自分のことを打ち明けることはないだろう。斎藤先生は『仲良くして』と言ったが、これではたとえ俺にその気があったとしても友達になるのは不可能だろう。


 なれるとしたら、あいつがどれだけ拒絶しても平気で傍にいようとする人間――美里奈くらいのものだろうか。




 放課後、美術室に顔を出すと案の定というべきか一年生の数は少なかった。黒森へのイジメに加担していたグループがごっそり欠席していたから。


 そして、その黒森の姿も美術室の中に無い。昼休みに言っていた通り、あまり絵を描く邪魔をされるものだから嫌気が刺したのだろうか。


「何だか今日、一年生少ないね。どうしたんだろう?」


 部長の若葉はいつもより部員の少ない部室を見て、首を捻っている。


「さあな。一年の間で何か親睦会でもあるんじゃないか」


「ああ、そっかそっか。もう五月だもんね。私らも一年のころ、カラオケとか行ったなぁ。クラスみんなでワイワイ盛り上がってさ。いやぁ、輝かしい思い出だね」


「俺はまったく記憶に無いけど……そんなことやってたのか」


「良一もちゃんと誘ったよ! 良一、頑なにクラスのLINEグループ入らないから、仕方なく私がメッセージ送ったんじゃん! それなのに、読みすらしなかったし!」


「ああ。そう言えばそんなことあったな。若葉が拗ねて、なだめるのに駅前のドーナツ屋で10回は奢る羽目になったな」


 入学したての頃、美里奈以外からの通知はオフにしておいたんだった。妹からの重要な通知が埋もれないように。


「ああ……思い出したらふつふつとムカついてきた……せっかく良一がボッチにならないよう気を回してあげたのに」


「輝かしい思い出だったんじゃなかったのか?」


「良一のせいで色褪せたんだよ! セピア色だよ! お詫びに駅前のドーナツ屋さん奢ってもらわないと収まらないよ!」


「また食うのか……ただドーナツ食べたいだけだろ。というか太るぞ?」


「私、ドーナツなら太らないよ? カロリーも全部完全消化できるし。何故ならドーナツ好きだから」


「どういう理屈だ……」


 というか去年は明らかに俺がドーナツ奢りすぎたせいで太っていた。まあ、若葉は良く外を歩き回って写生をするので、すぐに脂肪も消費したみたいだったが。ある意味健康的な奴だ。


 それはともかく、若葉の反応からして、やはり若葉は黒森が受けているイジメについて知らなさそうだった。もし知っていたら黒森と他の一年生が一緒に親睦会なんて、天地が引っ繰り返ってもあり得ないとわかる。


 黒森がいなくなっても、イジメの現場を目撃されて部に顔を出すほどあのグループは面の皮が厚くないようだ。もしかしたらこのままフェードアウトするかもしれないな。


 もっとも、あのグループが抜けても美術部に一年は十分にいる。結局絵なんて個人の活動だから部員が多ければ多いほど良いというわけでもない。どちらにせよ、この時期は物見遊山で入った新入部員が辞めていく時期だ。大して問題にもならないだろう。


 そんなことを思いながら、俺は静物画を描き進めていた。


 だが、その時のこと――俺のスマホが鳴動し始めた。見ると、美里奈からのメッセージだった。


『今、おうち帰ったよ! 今日は寄り道無し!』


 それから、可愛らしいキャラクターのスタンプが続く。前は俺が帰るまで待っていたが今日はちゃんと道草せずに帰ったらしい。


『えらいな。俺も部活終わったらすぐ帰るよ。寂しがらずに待ってろよ』


 そんな返信メッセージを送ると、十秒と経たずに再びメッセージが送信されてきた。


 だが――そこに書かれていた文面は、俺の背を凍り付かせた。


『寂しくないよ! だって、黒森さんと一緒だし!』


 そのメッセージの直後、今度は画像が送られてくる。それは美里奈が自分の部屋で自撮りしたものらしい。笑顔でピースサインを作る美里奈の後ろ、黒森が困惑したような表情を浮かべ、手で顔を隠そうとしているのがはっきりと映っていた。


 ――黒森が今、家にいる? 美里奈と一緒に?


 俺は咄嗟に美里奈へと電話を掛ける。コール音が一度鳴り終わるよりも先に美里奈は電話口に出た。


『もしもし、お兄ちゃん! 美里奈だよ!』


「おい、美里奈。黒森がそこにいるのか?」


『うん、そうだよ! 私が誘ったんだ! 代わろっか?』


 その質問に俺が返事をするよりも先に、黒森の声が聞こえてきた。


『え? 私に代わる……? ごほん、あー、その……芦屋先輩。お邪魔してます』


 やや緊張した様子ではあったが、その声は明らかに黒森のものだった。


「黒森……どうしておまえが家に? どういう風の吹き回しだ?」


『別に……ただ芦屋さんにどうしてもってお願いされただけです。無理やり連れて来られたようなものですよ』


『今日、家庭科の授業でクッキーを作ったんだ。それで、黒森さんが私にくれるって』


 と、そこで横から美里奈が細く説明を入れてきた。


「クッキー?」


『そうだよ! チョコチップとレーズン入りのクッキー! 本当に美味しいんだよ? だから、せっかくだしおうちに来て一緒に食べようって誘ったの』


 ますます俺は困惑する。美里奈を疎ましがっていたあの黒森が、クッキーを作って美里奈に贈った? いよいよどういう心変わりかわからない。


『言っておきますが、勘違いしないでくださいよ。これは前にスケッチブック探しを手伝ってくれたお礼です。言ったでしょう? 私は借りを作るのが嫌いだって』


「お礼だと? でも、もう高橋さんの件で――」


『あれは先輩の分のお礼ですよ。芦屋さんへのお礼はまだです』


 ――ああ、そうだったな。とことん律儀な奴だ。たとえ俺への礼だったとしても、イジメをやめさせただけで十分美里奈への義理は立っただろうに。


 だが、そんなことはどうでもいい。現実として、黒森が俺と美里奈の家へと遊びに来ている。それは紛れもない現実だ。


 そして――今、アトリエにはまだ美里奈が殺したウサギの死体が三羽放置されている。もしも黒森が美里奈の部屋に居続けるなら問題はないはずだ。だが、もしも少しでも美里奈がアトリエのことを話題に出せば、あれほど絵に熱心な黒森が興味を持たないとも限らない。


 黒森がアトリエを見たいと頼めば、美里奈は快諾するだろう。そして、黒森が足を踏み入れれば、すぐにウサギの惨殺死体を発見することになる。


『もしかして、私が家に来ていることが不満ですか?』


「いや、良いんだ。くつろいでてくれ」


『クッキーを食べ終わったら、すぐに帰りますけどね』


『もうちょっといようよ。ゆっくりしていけばいいのに』


『ちょ……抱き着かないでください! 芦屋先輩も、何とか言ってくださいよ!』


 スマホからは美里奈の部屋のバタバタとした騒がしい声が聞こえてくる。


「じゃあ切るぞ。せいぜい楽しんでくれ」


『ちょ――』


 努めて平静を装って通話を切った後、俺はスマホをポケットに突っ込んですぐさま絵を片付け始めた。


「どうしたの?」


 俺の様子に若葉が怪訝そうな目で訊ねた。


「ちょっと野暮用ができてな。今日は早めに帰る。悪いな」


「……? まあ、別にいいけど……」


 若葉の許可を受けながらも、手早く片付けを済ませ、俺は鞄の紐を肩にかけ美術室を出た。


 万に一つでも美里奈の動物虐待癖が露見する可能性があるなら、先回りして芽を潰さなければ。


 俺は逸る心臓を抑えながら、足を速めた――

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