第3章 残虐画の少女
3-1
「――それでね。黒森さんの席は最初教室の前の方だったんだけど、クラスのみんなが『後ろの席に行ってくれ』って言ったから交換したんだよ? 前の席だと、黒森さんが描いてる絵が見えちゃうからって。私は黒森さんの絵、好きなんだけどなー」
アトリエの作業机の上で生きたウサギの首を麻紐で絞めながら、美里奈は教室での黒森のエピソードを楽しそうに語っている。
その間にも、気道も血管も塞がれた白ウサギは齧歯を覗かせてか細い呼吸を漏らしていた。美里奈の腕力は弱く、首を絞めてもすぐに死には至らない。時々手を休めると、生贄の口から甲高い鳴き声が響いた。
ウサギは滅多に鳴かない。そもそも声帯が発達していないから、厳密に言うと発せるのは喉の中で発生する空気音だけ。だが、死の危機に瀕した時はそれがまるで悲鳴のように聞こえるほど激しくなる。木の板が軋むような、ひどく哀れな音だ。
それに暴れ具合もケージの中で大人しくしている時とは大違いだ。必死で身をよじり、恐怖から逃れようとする。
もっとも、抵抗できないよう既に俺が両の後ろ脚を金槌で叩き潰しておいたが。ウサギの蹴りは思いのほか強く、こうして処置をしておかないと美里奈が手を怪我する危険がある。ついでに、絞殺に伴う脱糞や失禁を防ぐために、昨日から餌を抜いておいた。胃袋は空っぽで、栄養失調のためにもう十分弱っていることだろう。
アトリエの片隅では檻に入れられた後2匹のウサギが仲間の悲鳴を聞いて逃げようと暴れている。だが、ただ金属のケージをガタガタと揺らすばかりで内側から蓋が開くことはない。
だから、俺は気にせずに妹との雑談に興じた。
「あいつ、教室でも絵描いてるのか」
「うん。いつも休み時間になったらスケッチブックを出して、きれいな絵を描くの。犬とか猫とかウサギとか虫とか、いろんな動物が死んでる絵」
美里奈にとっての『きれいな絵』も、他のクラスメイトにとってもそうとは限らない。というかどう考えてもあいつの残虐絵は周囲に歓迎されないだろう。
事実、それが原因で美術部一年の間でイジメを受けているわけだしな。
「ずっと前から、黒森さんの絵をじっくり見たかったんだけどね。こっそり後ろからのぞき込むと、いつもムスってしてスケッチブックを閉じちゃうの。本当に上手なのに」
美術部で初めて会った時もそうだった。俺が絵を描いているとき後ろに回ると不機嫌そうにしていた。もっとも、絵を描いている時に後ろに立たれたくないというのは黒森に限らず一定数いるが。
ただ、黒森が見せたくない理由はどうもそれだけじゃないらしいが。
「『習作』だから見せたくない……確か、前そんなことを言ってたな」
「練習のために描いた絵ってこと?」
「ああ。何か描きたい絵があって、試しにいくつか描いてるんだろう。構想を固めるためとか何かで」
種々様々な生き物の死骸――そんな習作が必要な絵だというのだから、完成図もそれ以上に残虐な絵だということは想像が付くが。
「どんな絵なんだろう……見てみたいなぁ」
どこか夢見るように天を仰ぎながら、美里奈は呟いた。
きっとその脳裏には未だ全貌のわからない黒森の残虐画がぼやけた輪郭のまま浮かんでいることだろう。
俺も想像を巡らしてみるが、やはり頭の中で思い描くだけでは限界がある。そもそも想像上だけで画風を再現できるほどに俺はあいつの絵を見てはいない。
「あ――ウサギさん、死んじゃってる」
美里奈の声に目をやると、作業台の上でウサギがいつの間にか動かなくなっていた。首も脚も耳もだらりと力無く垂れ、呼吸も絶えている。白い毛皮さえなければ、その下の皮膚が蒼白になっているのが見えたことだろう。
「次のウサギ準備してやるよ。待ってろ」
「うん! ありがと、お兄ちゃん!」
美里奈が喜ぶ声を背に聞きながら、俺は檻へと歩き、蓋を開け、長い両耳を鷲掴みにして生贄を一匹引きずり出した。そして、小さな身体を宙に浮かせたままハンマーで脚を何度も叩いて折る。アトリエ内に例の、板の軋むような鳴き声が響き渡った。
ウサギは動物の中でも特に骨が脆い。頭蓋骨を叩き潰さないよう細心の注意を払いながら、その胴体も何度か打擲して体力を奪う。
そして入念に脚を叩き潰した後、美里奈の待つ作業机の上へとウサギを置く。すると、妹は屈託の無い笑みを浮かべてその首に麻紐を巻き付けた。
「うさぎ~うさぎ~何見て跳ねる~♪ 十五夜お月様見て跳ねる~♪」
無邪気に童謡を口ずさみながら、新しいウサギの喉へと麻紐を食い込ませていく美里奈。不思議とその歌に合わせるかのように、生贄は骨のひしゃげた足で身をのたうたせていた。
イジメの問題が解決して、久しぶりに何の気兼ねもなく美里奈の天真爛漫な笑顔を見守ることができる。ウサギを絞殺する妹の表情は可憐そのもので、見ているだけで心が安らぐほどだ。それは俺にとって他のどんなことより幸せな時間だった。
何はともあれ、黒森には感謝しないとな……
トラブルを乗り越えた安心感に俺はようやく肩の荷を下ろした気分だった――
だが、翌朝すぐにちょっとした問題が発覚した。といってもトラブルという程じゃない。俺が朝の家事をするために台所へと行った時、冷蔵庫に張っておいた市のゴミ収集日カレンダーに目をやり、ふとあることに気付いたのだった。
「あ……しまったな。燃えるゴミ、明日か」
ハムスターやヒヨコだとか小さな動物なら大して問題にならないが、ウサギのようにある程度大きな動物はあまり家に置いておきたくはなかった。腐り始めるとかなりの異臭を発するし、そうなるとどれだけ見えないよう黒い袋に入れても、ゴミに出したら目立ってしまう。
別に不燃ゴミの日でも収集場所に出しておけば回収されるだろうが、燃えるゴミ以外の日は単純にゴミの量が少ないから、収集員が気付かないか不安だ。まさかゴミ袋を破る変人もいないだろうし、収集場所は小屋になっていてカラスも来ないから中身が見られる危険は薄いが、念には念を入れるべきだろう。
仕方ない。三匹のウサギの死体はひとまずアトリエに放置しておこう。まだ五月だし、一日程度では腐らない。
そんなことを考えていると、二回から美里奈が下りて台所へとやってきた。
「ふぁぁ……おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう、美里奈。今日は自力で起きられたな」
「うん……えらいでしょ? 褒めて褒めて?」
「ああ。えらいぞ」
寝ぼけ眼を擦りながら微笑む妹の頭を、俺はぽんぽんと撫でてやる。
「えへへ……ねえ、お兄ちゃん、今日の朝ごはんは?」
「ポーチドエッグとオートミールだ。すぐ作るから行儀よく待ってろ」
「はーい!」
元気よく返事をしてテーブルへと着く美里奈。俺はエプロンを付けてキッチンへと向かい、朝食の準備をし始める。ウサギの死体についてはごく些細な問題だ。明日ゴミ出しを忘れないようにすればいいだけ。
そして、俺は沸騰させた鍋に卵を二人分落とす。湯の中で卵白が薄絹のように卵黄を包んでいくのがひどく綺麗に見えた――
「――そう。そんなことが」
昼休みの保健室。俺は美里奈のことについて報告するため、斎藤先生と会っていた。
もちろん、黒森が高橋さんにグロ画像を送り付けまくったことについては黙っておいた。ただ美里奈と黒森が友達になり、守ってくれたという程度にぼかして話す。
もちろん、何か裏があることくらい斎藤先生も承知の上だろう。あれほど狡猾だった高橋さんが簡単にイジメをやめるわけはないし、今は不登校になっていると来てる。
とはいえ、先生に黒森の所業を話すのは、妹を守ってくれたあいつに義理が立たない。斎藤先生だって頼めば黙っててくれるだろうが、精神の繊細な彼女にこれ以上秘密を負わせるのは忍びなかった。美里奈の動物虐待癖を隠すだけでも、かなりメンタルへの重圧になっているのだから。
「はい。というわけで、もう美里奈のことは心配しないで大丈夫です。いろいろありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、これまで美里奈のために手を回してくれたことに礼を言う。
「やめてよ良一くん。私は何の役にも立ってないし……」
「それでも、美里奈のために尽力してくれたことは確かです」
「そう言われると、嬉しいけど……でも分不相応だわ」
言いながらも、いつも疲れ切った表情をしてる斎藤先生の顔には今や安心の笑みが浮かんでいる。姪である美里奈の問題が解決して、喜んでくれているのだろう。
「それにしても、黒森さんと美里奈ちゃんが友達になるなんて……」
「正確には、美里奈が一方的に懐いてるだけって感じですけどね。黒森の方はウザがってるみたいですし」
だから、その関係もいつまで持つかわからない。美里奈が気まぐれで離れるか、黒森の方が愛想を尽かして距離を置くかはわからないが。続いたとしても、美里奈の動物虐待癖がある以上、表面的なものであり、従ってほんの一時的なものだろう。
そういうわけで俺は黒森と美里奈の関係に危惧だろうと期待だろうと大して抱いていなかったのだが――
「仲良くしてあげてね……黒森さんと」
「……?」
その言葉はいささか奇妙に感じられた。
斎藤先生だって美里奈の事情は知っている。黒森との関係が続くかどうかさえ危ういほどだ。だけど、斎藤先生の言葉は、まるで美里奈よりも、美里奈を疎ましがっている黒森の側に立って発されたもののようだった。
それはまるで、黒森の側に何か事情があることを示唆していた。美里奈の無痛症と虐待癖にも劣らない、何かが……
「先生、黒森は――」
「聞かれても、答えられないわ。他の生徒のことだもの。たとえ良一くんでも話すわけにはいかない」
それから、先生はどこか悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさい。私は君たちの保護者であると同時に、先生でもあるの」
「……なるほど。そうですよね。すみません」
美里奈の件は家族としての問題だ。だけど、他の生徒のことを軽々しく俺に教えるわけにはいかない。たとえ甥であろうとも。
考えてみれば当たり前のことだ。養護教諭である斎藤先生の立場を失念していたことを内心で恥じる。やはり俺はまだ子供だ。無意識のうちに保護者である彼女に甘えていたのかもしれない。
だが、少なくとも――斎藤先生の言葉で、黒森に何かのっぴきならない事情があることだけはわかった。あるいはそれが、彼女が残虐な絵を描き続けていることと関係があるのかもしれない。
「それじゃ、失礼します」
「うん。美里奈ちゃんにもよろしく言っておいて」
そんな言葉を交わして、俺は保健室を後にした。
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