7-3

 月日は流れ、翌年の春。


 三年生に進級した俺は、放課後の教室で、机の上に参考書とノートを開いたまま、問題を解いていた。まだ春とはいえ、そろそろ受験を意識して本格的に勉強を始めていい時期だ。


 ノートに数式を書き連ね、数学の証明問題をこなす。そして、そろそろ最後の式を書こうという時、俺の前から呻き声が聞こえた。


「うぅ……全然わかんない……」


 見れば、若葉が数学の問題を前にしてグロッキー状態になっていた。解答欄に書き連ねた微分方程式でどこか計算を間違えたのか、しきりに空中でシャープペンシルの先を泳がせている。


「その問題ならもう解いた。わかんないとこあるなら、教えられるぞ」


「この微分積分の計算が将来の人生で何の役に立つのか、全然わかんない……」


「この段階で根本的なとこに疑問を抱くなよ……」


 少なくとも高校三年の受験生になってから抱くような疑問じゃない。高校一年生で割り切るなり自分なりに答えを出すなりして片付けておくべき問題だった。


「あーあ、美術だけで受験できる大学無いかなー? 美大とか」


「美大でも学科試験はあるだろ。一応」


「だよね……はぁ」


 ため息を付きながら、若葉は途中まで書いた計算式を名残惜しげに見ながら消しゴムですべて消した。


 どうやら計算を間違えた箇所を探すよりも、最初から式を書き直した方が早いと判断したらしい。この10分間ほどの若葉の努力は、無残にも黒い消しゴムのカスとなって消えたのだった。


 縁山学院高校では、ほとんどの部活で三年生は半ば引退という形になるのが暗黙の了解になっている。


 別に校則で決まっているというわけじゃなく、一応県下随一の進学校として、何となく三年生は受験に集中する雰囲気になるのだった。三年になっても部活に顔を出すのは、スポーツで将来が嘱望されてる生徒くらいだった。


「というか、まだ進路決めてないのかよ」


「まだ春じゃん? 他の子だって、みんな考えてるとこだよ。まだ受験勉強自体始めてないって人も多いし」


「時間なんてあっという間に過ぎる。早めに決めとくに越したことはないだろ」


「ってことは、良一はもう決めてるんだ? どこ? 公立? 私立?」


「公立だよ。津乃宮大学」


「うわ、ふつー。超地元」


「普通で悪かったな。私立行って叔母さんに負担かけるわけにも行かないし、美里奈のこともあるから、県外の大学も除外。消去法だよ」


「ふふっ。美里奈ちゃんね」


「何だよ。その意味ありげな笑いは」


「別に? でも、美里奈ちゃん、もうお兄ちゃんいなくても大丈夫なんじゃない? って思っただけ。少なくとも、副部長のくせに万年幽霊部員だった良一よりは、しっかり者だと思うよ?」


「……まあ、確かに立派に部長をやってるな。兄貴のひいき目抜きにしても」


 縁山学院高校美術部は、今は二年生の美里奈が部長を務めている。


 一年生の頃にはゴタゴタのせいででだいぶ新入生が減ってしまったが、この春に美里奈が主導した新入生勧誘活動のおかげで、今年はだいぶ部員が増えたらしい。


「本当、変わったよね、美里奈ちゃん。周りのことが見えるようになったっていうか。正直、部長になったときはハラハラしてたけど、心配要らなかったみたい。絵の方だって、前に県のコンクールに入賞したし。私なんかよりずっと適任だよ」


「ま、いろいろあったからな。あいつだって成長するさ」


 そう――本当に、いろいろなことがあった。


 俺の18年に満たない人生の中で、黒森と過ごしたのはほんのわずかな期間に過ぎない。それでも、その密度は計り知れない。


 たとえどれだけ短くても、あいつは自分の命を生き尽くした。だから、その早世を寂しく思いはすれど、哀れだとは思わなかった。


 あいつがかつて言ったように――三人で過ごしたあの日々は、俺にとっても紛れもなく宝物だった。


「ふふっ、もしかして寂しい? 美里奈ちゃんがお兄ちゃん離れしちゃって」


 物思いに耽っている俺を見ながら、若葉が何やらニヤニヤ笑いながら見つめてくる。


「何だよ。そんなんじゃない」


「素直じゃないなーもう。しょうがない。このままじゃ良一が妹ロスでもっとダメになっちゃうかもしれないから、ここは私が一肌脱ごっと」


「一肌脱ぐって……どうするんだ?」


「私も良一と一緒の大学行ってあげる。津乃宮大学。で、今みたいにいろいろ世話を焼いてあげるから。感謝してよね」


「……別にいいけど。だったら、ちゃんと一本に絞って勉強しろよな。公立はいくつも受けるってわけにはいかないんだから。落ちたらシャレにならないぞ」


「そこはほら、良一に勉強見てもらうってことで」


「俺に世話を焼くんじゃなかったのか?」


「それは大学入ってからの話。だからさ、今のうちにたっぷり貸しを作っといた方がいいよ~?」


「ったく……」


 若葉のおどけた様子に苦笑を漏らす。


 こいつも、黒森が死んだばかりのころは柄にもなく落ち込んでいたが、月日が少しずつその傷を癒してくれていた。


 黒森は死んだ。そして、これからも俺の人生はまだまだ続く。願わくば、黒森のように人生を懸けられる何かを見つけたいものだった。


 だが、その前に――黒森から託された夢に、決着を付けなければ。


  ***


 下校時刻まで若葉と一緒に勉強をした後、俺は帰路に着く。


 そして、家の前までやってきた時、ちょうど玄関から出てくる女性の姿に気付いた。


「斎藤先生……」


「あ……良一くん」


 保健室で普段身に着けている白衣を来ていないから印象が違うが、紛れもなく斎藤先生だった。


 俺を見てぺこりと俺に頭を下げる動作にも、どこか疲れた気配が滲んでいるが、いつものことだ。


「珍しいですね。どうしたんですか? 何か用でも……」


「ううん、ちょっと寄ってみただけ。さっき、美里奈ちゃんとお茶を飲んでたのよ。もう少し早く帰ってくれば、良一くんも一緒に世間話をできたのに」


「お茶? 世間話……? 斎藤先生が、美里奈と?」


 どちらも意外すぎる単語だった。斎藤先生は俺たちの保護者だが、あくまで書類上の話であってほとんどこの家を訪れることもなかった。


 斎藤先生の鬱病と、美里奈が抱える事情を考えればそれも仕方ないことだ。感謝しこそすれ、そのことで彼女を責めようと思ったことも無い。実際、今までそれで生活できていたのだから。


 だが、それなのにどうして急に――


「……私は、あなたたちの家族なんだから。たまには、理由もなく来てもいいでしょ?」


「それは――いえ、その通りですね」


 その言葉だけで、斎藤先生の気持ちが理解できた。


 つまりは、彼女なりに家族として美里奈と接しようとしてくれているのだ。今までずっと放置していた負い目というのもあるだろう。黒森が死んでから、すっかり塞ぎ込んでいた美里奈を見たせいというのもあるだろう。


 ただこれまでの通り、俺たちの事情を知りながら見守ってくれていた。それだけで十分なのに、もっと向き合おうとしてくれている。


 つくづく斎藤先生には頭が上がらない。


「また一緒にお茶を飲みましょう。この家で、今度は三人で」


「ええ。楽しみにしておくわ」


 柔らかな微笑みを浮かべながら、斎藤先生は俺の横を通り過ぎていく。


 だが、その時ふと何かを思い出したように振り向いた。


「そういえば……美里奈ちゃんが待ってたわよ。あなたのこと」


「待ってた?」


「ええ。確か『もうすぐ絵が完成するから、早く帰ってきてほしい』って――そう言ってたの」


「ああ、なるほど」


 確かにあの絵はもうすぐ完成間近だった。


 しかし、美里奈がそう言ったということは、ようやく最後まで迷っていた部分に答えが出たということだろう。


「ありがとうございます。じゃ、これで」


「待って、それからもう一つ」


 玄関ドアから中に入ろうとしたときに、再び呼び止められる。まだ何か用件があるのだろうか。不思議に思って先生の方を見ると、どこか困ったように笑みを浮かべていた。


「……学校の外で『斎藤先生』はやめて。仕事中じゃないんだから」


 意外なその言葉に、しばらく俺は固まった。だが、やがて俺も笑顔を返す。


「ええ。すみませんでした……梢叔母さん」


 そう呼ぶと叔母さんはさらに口元を綻ばせるのだった。


  ***


 アトリエの中へと足を踏み入れると、すでに美里奈が絵の準備をしていた。


 室内の中央に置かれたイーゼル、そこに掛けられた、黒森の遺品。種々様々の生き物の死体が描かれた残虐画。その前で、作業用のエプロンをした美里奈がパレットの上で油絵具を混ぜている。


 絵を描いている美里奈の姿を見るたびに、一年前のあの頃の記憶が蘇る。黒森から手取り足取り絵を教えられていた、美里奈の姿が。


 あれから美里奈は少し髪が伸びた。背もほんの少しだけ、高くなったかもしれない。


 だが、鼻歌を歌いながら絵に没頭するその姿は、記憶の中のままだ。


「ただいま。美里奈」


 夢中になっている美里奈の背に声を掛けると、たった今気付いたように振り返った。


「あ、おかえりお兄ちゃん! やっと帰ってきた。もう、遅いよ」


「悪いな。若葉と勉強してたら遅くなった」


「もう、ダメだよ? 今日は大事な日なんだから」


「大事な日?」


「綾乃ちゃんと、初めてここで絵を描き始めた日。忘れないでよ。大事な記念日なんだから」


「……そうか。もうそんなに経ったのか」


 光陰矢の如し、とはよく言ったものだ。あいつと出会ってから、もうそれだけの時間が過ぎたのだと実感する。


 今はまだ黒森のことを覚えている。だが、きっとさらに年月が過ぎるにつれて記憶は薄れていくのだろう。黒森の仏頂面も、時々見せた笑顔も、すべて。


 だが、忘れない。ずっとずっと覚えている。そのために、俺たちはこの絵を描き続けてきたのだから。


「今日までには、絶対に完成させようと思ってたんだ。ううん、今日、この日に完成させたいって」


「……ということは、最後の色は決まったんだな?」


「うん。ずっと迷ってたけど、ようやく見つけたよ」


 パレットの上で、オイルで十分に絵具を溶かしながら、美里奈は答える。


 黒森が死んでから作業を引き継いで、もう九割九分絵は完成している。数えきれないほどの生き物が苦悶し、血にまみれ、臓物を撒き散らしながら息絶えていく屍の山。


 その山の頂には黒森が描いていたころには無かったモチーフが描き足されている。それは、頭が半分潰れ、脳髄を曝け出した少女の死骸。屍の山を玉座とするように、絵の中央で存在感を放っている。


 美里奈はずっと絵具を塗り、乾かしては削りを繰り返していた。油彩とはもともと試行錯誤に特化した技法だ。理想の絵が出来上がるまで、納得できないなら何度でもやり直せる。


 逆に言えば、そのために八割方完成していた絵を今の段階まで描き進めるのに、一年も要したのだが。


 だが、美里奈の妥協の無い姿勢のおかげで、油絵はかつてよりもはるかに生々しさと凄惨さを増していた。今となっては黒森が未完成だと言っていたことがよくわかる。後から描き足したにもかかわらず、少女の骸はまるで最初からそこにあったかのように絵の中へ溶け込んでいた。


「綾乃ちゃんが死んだとき……本当に、心の底から悲しかった。生まれて初めて痛みを感じたの。身体じゃなくて、心の痛みを」


 色を混ぜ終えた美里奈は、木製のパレットから筆を離す。その毛先は、たった今身体から流れ出たばかりの血のような真紅が染めていた。


「でも、同時に『きれい』って思ったんだ。綾乃ちゃんが流した、血の赤色。今までに殺したどんな生き物の血よりも、素敵な色だって――そう思ったんだ」


 真紅の筆が、キャンバスの表面へと触れる。屍の山の女王、半分潰れた、少女の頭へと。そこへ、美里奈は細心の注意を払って赤色を塗り広げていった。


「あの赤色を再現するのに、ずいぶん迷ったけど……ようやく作れたよ」


 絵の中の少女へと語りかけるように柔らかな微笑みを浮かべながら、美里奈は手を動かし続けた。


 やがて、美里奈は手を止め、筆をキャンバスから離す。そして、ゆっくりと息をついて、絵から数歩ほど距離を取った。


「――できたよ、綾乃ちゃん」


 最後の赤色を加えたことで、屍だけを描いたその絵は、まるで生きて脈動するかのように鮮烈さを増した。


 首を切り裂かれた猫。身体中が焼け焦げた鳥。ナイフで切り刻まれた犬――それら一つ一つのモチーフを見るだけで、三人で殺戮を繰り返した日々が脳裏に蘇る。


 そして、その中央に座する少女――黒森の死体を見れば、胸が締め付けられるような痛みと同時に、到底言い尽くせない厳かな美しさに打たれる。その矛盾が一つの絵に凝縮されていた。


「……きれいだな」


「うん……すごく、きれい」


 それは、黒森綾乃という少女が生きた証。


 醜悪で、残酷で、凄惨で――きっと赤の他人が十人見れば、十人とも眉をしかめて目を逸らすだろう、救いがたいほど残虐な絵画。


 ――だが、それでも。


 世界中の誰もが直視できずとも、俺たちだけはまっすぐに見据える。世界でただ二人。俺と美里奈だけは、この絵が『美しい』と、誇りをもって叫ぶだろう。


 何故ならこれは――俺たち三人が過ごした、あのグロテスクで、だけど輝ける日々の証なのだから。


「ねえ、お兄ちゃん。あの時、言ったよね」


 絵を見つめながら、ぽつりと美里奈が呟くように言った。


「『命に価値なんて無い』って。命は大事にするものじゃなくて、何かを成すために使うためのものだって」


「……ああ、言った。懐かしいな」


 十七年。黒森の人生は、他の多くの人間と比べて遥かに短かった。だが、だからといってその人生は他人と比べて軽かったわけじゃない。


 あいつは夢を成し遂げた。たとえ死んでも、その命を使って、こうして俺たちが作品を完成させた。ただ短かっただけで、その人生が惨めなものだとは絶対に思わないし、誰にも言わせない。


 あいつが生きた時間は、紛れもなく尊いものだった。


「お兄ちゃんが言ってたことが正しいって、今はわかるよ。綾乃ちゃんも、私たちにこの絵を託すために命を使った。私もそれを受け継いで、今完成させた。そのことを後悔はしてない。でも、でもね――」


 不意に、美里奈は俺の方へと顔を向ける。


 その頬を、一筋の涙が伝い落ちていく。黒森が美里奈に遺してくれた、『痛み』の雫が。


「それでも、もっと一緒にいたかった。無意味でも、生きていてほしかった。何も成さなくても、完成しなくても――私と、綾乃ちゃんと、お兄ちゃんの三人で、ずっとあの日々を過ごしたかったよ……!」


「美里奈……」


 微笑みながらも、大粒の涙を零す妹に、俺はそっと近づき、その小さな肩を抱いた。


 俺の胸に顔を押し付けて、声を殺して泣く美里奈の姿に、俺は掛ける言葉も無い。ただじっと身体を抱き締めるだけ。


 美里奈自身もわかっているはずだ。それが叶わぬ絵空事だと。だからこそ、何も言わない。


 大切な人を失った悲しみは、決して癒えない。ちょうど、一生残り続ける古傷のように、たとえ薄れてもその痛みは続いていく。


 黒森は死んで、俺たちは生きている。これからの人生はあいつがいないまま続いていく。輝かしく、幸せだったあの日には、もう二度と戻れない。


 だけど、忘れない。ずっとずっと覚えている。黒森綾乃という少女が足掻き、もがきながら生きて、そして死んだことを。


 たとえ何十年という歳月が過ぎても、俺はこの絵を見るたびに思い出すことだろう。俺と美里奈と黒森、三人で過ごした日々のことを。


 生きた証を残すために戦い続けた少女の顔を、一抹の郷愁と共に――


(了)

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グロテスク・ノスタルジア 藻中こけ @monakakoke

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