7-2


 通夜の会場を後にし、俺は家へと帰る。玄関のドアを開けた時には、すっかり日は落ち、夜の帳が下りていた。


 だが、家の中は明かり一つ付けられておらず、外よりも遥かに暗い。そして、死に絶えたように静かだった。やはり一日中、美里奈は自分の部屋に閉じ籠っていたらしい。


 靴を脱いで家の中に上がると、二階へと階段を上っていく。美里奈の部屋の前に立つと、中からは物音一つ聞こえない。


 俺は一つ深呼吸をすると、ドアをノックした。


「美里奈、いいか? 話があるんだ」


 しばらく待つ。だが、返ってくるのは沈黙ばかりだった。


「いるんだろ? 大事な話なんだ。入っていいか?」


 やはり、返事は無い。だが、確かに中にいるはずだ。外出してはいないのは、玄関に靴が残っていたことからもわかっている。


 俺は仕方なく、ドアノブへと手を伸ばす。だが、回らない。どうやら鍵がかかっているらしい。


「鍵……?」


 ――いや、そんなはずがない。


 鍵がかかっているなんてありえない。そもそも美里奈の部屋には錠なんて付いていないのだから。


 小さいころからよく遊びで自傷行為をしていた美里奈のために、両親がもともと部屋についてた鍵を取り外してしまったのだ。それに、美里奈も別にプライバシーなんてものに頓着しない性質だから、それから鍵を付け替えたなんてこともない。


 だが、だとしたらどうしてドアノブが回らない?


 嫌な想像が、にわかに頭の中で膨れ上がっていく。


「美里奈、開けるぞッ!」


 大声を上げながら、無理やりドアノブを捻る。すると、抵抗はあるものの問題なく回る。


 やはり鍵はかかっていない。何かでドアノブが固定されているだけだ。たとえば、何か重いものをドアノブに吊り下げているとかで――


 俺はそのまま、ドアを強引に開け放った。


「うぅ……! ごほっ……」


 ドアから弾かれたように、パジャマ姿の美里奈が部屋の床に蹲り、咳き込んでいる。その首にはちぎれた細い紐が巻き付いていた。


 さらに、ドアの内側のノブへと目をやると、そこにも切れた紐の一片がある。美里奈がそこで首を吊ろうとしていたのは明らかだった。


「何馬鹿なことやってるんだ!」


 俺はすぐさま美里奈へと駆け寄り、その首の紐を外した。そして、美里奈の肩を掴んで、その顔をまっすぐに見る。だが、俺は声を失った。


 美里奈の頬には涙の跡がありありと残っていたから。赤く晴れた目は、今までずっと泣き続けていたことを如実に語っていた。


「どうして止めるの……? お願い。死なせてよ、お兄ちゃん……!」


 掠れた声で懇願する美里奈。


 もはや立つ気力も無いほど脱力し、くずおれたまま床に涙の雫を落としている。まるで痛みに耐えかねたように、自分の胸を押さえながら。


「苦しくてたまらないの……胸が押し潰されそうで……なのに、張り裂けそうで……! こんなの、耐えられない……」


「美里奈……」


 悲痛な声で訴える美里奈の姿に、俺は胸を掻き毟られる。


 生まれて初めて親友を失ったという苦痛。それは今まで悲しみや痛みといったもの一切を体験して来なかった美里奈にとって、どれほど苛烈な責め苦だろう。文字通り、死んだ方がマシとさえ思うほどに。


 俺が甘かった。まさか、自殺を試みるほどにまで妹の心が追い詰められていたとは――


「そうだ……お兄ちゃん。お願い、殺して……? 私のこと、殺してよ……」


「……ダメだ。バカなこと言うな」


「どうして? いつも、いっぱい殺してきたのに。犬も、猫も、虫も、鳥も……二人でいっぱい殺したのに……! だから、私のことも殺してよ……もう、こんなに苦しいのやだよぉ……っ」


 言いながら、美里奈は俺の手を両手を取り、自分の喉へと導く。ほんの少し力を籠めれば折れてしまいそうな、その白く細い首へと。


 指が美里奈の肌に触れる。その皮膚の下で血潮が流れているのを感じる。指に力を込めて、ほんの数十秒間、血管を締め付ければ美里奈の望みは叶うだろう。脳への血流が絶たれ、ほどなくして絶命する。少なくとも、こんなドアノブで首吊りを図るよりは確実に死ねるのは間違いない。


 あまりにも苦しげな美里奈の姿に、俺は一瞬、望みを叶えてやりたい誘惑に駆られてしまう。残酷すぎる痛みから、妹を解放してやりたい、と――


 だが、俺はすぐに誘惑を振り払い、首から手を放す。そして、その矮躯を両腕で強く抱き締めた。


「……ダメだ。いくらおまえの願いでも、それだけは聞けない」


「どうして……? 教えてよ、お兄ちゃん。何で殺してくれないの? 何で生きなきゃいけないの? こんなに苦しいなら、生きてる意味なんてない……綾乃ちゃんだけ死んで、私だけ生きてるなんて……こんな命、価値なんてない。だったら、捨てちゃったっていいでしょ……! 綾乃ちゃんだって、絵が描けなくなったから、絶望して自殺したんでしょ……? だったら私も死ぬよ……! 綾乃ちゃんが死んだのに、生きていたくなんてない……!」


「……それは違うぞ、美里奈」


「何が違うの? 命が大事だから? 大切にしろって言うの? そんなの嘘だよ。だって、何匹も何匹も殺してきた。いろんな生き物を、この手で死なせてきたんだよ? オモチャにして、グチャグチャに弄びながら……今更、そんなこと言わないでよ!」


「いや、そうじゃない。違うといったのは別のことだ」


「え……?」


 俺の言葉に、美里奈は呆気に取られたような顔で見る。


「『命は大切』なんて嘘っぱちだ――それについては、おまえの言う通りだ。命なんて大事じゃない。生き物は、ただたまたまこの世に生まれてきただけだ。そこに意味や価値なんて見出すのは、ただの欺瞞だ」


 何匹も何匹も、俺たちは生き物を殺してきた。動物を苦しめ、弄び、その命を踏みにじりながら、アトリエの中で惨殺した。いや、アトリエの中だけじゃない。普段食べている物、身に着けている物まで含めれば、間接的にどれだけの生き物の命を踏みにじっているかわかったものじゃない。


『命の大切さ』なんていう概念は幻想だ。誰だって心の底では、そんな道徳の教科書じみたことは信じていない。だからこそ、人は命をゴミのように踏みにじり、気分によってオモチャのように愛で、掌の上で弄び続けている。それが動物の命だろうが人間の命だろうが関係なく。


 命の扱いを決めるのは、それ自体の価値じゃなく、単なる人間の都合だ。害虫や害獣は生きていられると困るから殺していいし、食用の家畜は感謝して食べるなら殺すのが許される。可愛いペットは守った方が都合がいいから守られる。ただそれだけのことだ。


 ずっとこの手で、美里奈と共に殺し続けていたからこそ、俺にはわかる――『命の粗末さ』が。


「お兄ちゃん、だったら――だったら、何が違うっていうの?」


「黒森が『絶望して死んだ』――そのことだよ。おまえが勘違いしてるのはな」


「……わけわかんないよ、お兄ちゃん。綾乃ちゃんは……絶望してなかったって、そう言うの?」


「ああ。その通りだ。いいか聞け、美里奈。確かに命は大切なんかじゃない。道端に落ちてる紙屑みたいに軽いものだ。それでも……紙屑でも、火をつければ明かりにはなる。もっと大きな炎を灯すための、火種にもなる」


「……何が言いたいの、お兄ちゃん」


「おまえの命、もっと別の使い道があるんじゃないのか――ってことだよ」


「別の、使い道?」


「ああ。立て、美里奈。俺たちにはやることがある」


 俺は無理やり美里奈の腕を掴み、立ち上がらせる。そして、腕を引いてドアから部屋の外へと出た。


「お兄ちゃん……? どこ行くの?」


「決まってるだろ。アトリエだ」


「え……?」


 美里奈の身体を引きずるようにしながら、俺は廊下を進み、アトリエの扉を開く。


 窓から入る月の光だけが照らす室内。その中央には、まだ黒森の絵が布を掛けられたまま残されている。俺はそのそばへと近寄ると、布を取り払った。


 数多の生き物の死を描いた、グロテスクな残虐画。断末魔に悶え狂う動物たちの狂宴。黒森が遺した、未完成の作品。


「黒森は最期に願った。この絵を完成させてくれ、と。だったら、やるべきだ。俺たちで続きを描くんだよ」


「でも……無理だよ。私なんかじゃ……」


「無理じゃない。それどころか、黒森とずっと一緒に絵を描いてきたおまえにしかできないんだ。そのために、黒森は死んだんだからな」


「……どういうこと?」


「黒森が言っていただろ。この絵には人間の『死』が足りない。自分自身の死体を描かなければ絶対に完成しないって。だけど、自分の死体を自分で描くことはできない。だから――飛び降りたんだ」


 俺の言葉に、美里奈は眼を見開く。


「まさか、私たちに……自分の『死』を見せるために……?」


「その通りだ。黒森が飛び降りたのは、今おまえがやろうとしていたみたいに無駄に命を捨てたんじゃない。『使った』んだ。俺たちに託すために……!」


 ――目を、逸らさないでください。


 黒森の最期の言葉がリフレインする。ああ、望み通り、目に焼き付けた。あいつが死ぬ瞬間を。あいつの頭が地面に激突し、赤い肉塊へと変貌する刹那を。目を瞑れば、瞼の裏に今でも映し出せる。


 一生忘れられるわけがない、鮮烈な光景。それはきっと、美里奈にも同じように焼き付いていることだろう。


「『命が大事だから』? 『大切にしろ』って? 違う。そんなくだらない物のために生きろなんて言っているんじゃない。重要なのは命を使って、何を成すかだ。生きるためだけに生きるなら、ゆっくり死んでいくのと同じだ。黒森がそう教えてくれた」


 あいつの人生は他の多くの人間より遥かに短かった。それは事実だ。


 だが、それがどうした? たとえ短かろうが長かろうが、人はいつか死ぬ。


 生きるということそのものに価値があるというなら、自ら命を断った黒森の人生は下等で、他の人間の人生より劣っているというのか。あいつの自殺は間違いだったというのか。たとえベッドの上から動けなくなっても、チューブで栄養を送られながら、少しでも長く延命されていた方が正しかったというのか。


 いや、断じて違う。


 黒森綾乃――あの少女は自分の人生の最期の瞬間まで有意義に使い切った。命という紙屑に火を灯し、最後の最後まで燃やし切った。


 生きた証を残すために。あがいて、もがいて、この世界に爪痕を刻むために。暗闇の中に道筋を照らして、俺と美里奈に見せるために。


 その生き様、そして死に様は、何よりも誰よりも尊いものだった。


 そして、この絵を完成させることができるのは、世界中で俺と美里奈のたった二人だけだ。あいつの死の瞬間を見届けた――俺たちだけだ。


 アトリエ内の作業机へと行き、俺は黒森が使っていた画筆を取る。そして、ただ呆然と絵を見つめ続けている美里奈の元へ再び近づき、それを差し出した。


「さあ、どうする? それでもまだ死にたいっていうなら、仕方ない。望み通り俺が殺してやる。生きたくないのに生きるなんて、それこそ無意味だ。だけど、あいつの遺志を継ぐ気があるなら……持て」


 黒森の筆を前にして、美里奈は逡巡する。苦しげに胸を押さえながら、俺の目を見る。


 俺にはこれ以上何も言えない。これは美里奈が一人で決めなければいけないことだ。


 生きていく上で痛みは避けて通れない。身体の痛覚の話じゃない。苦しみや悲しみ、胸を引き裂かれるような別離。


 きっと黒森が最初で最後じゃない。命が有限である限り、これからも別れは来る。俺と美里奈もいつかはどちらかが先に死ぬことだってある。若葉や斎藤先生と死に別れることもあるだろう。その時の悲しみは、俺だって想像したくないほどだ。


 もう美里奈の心は幸福だけで満ちた天上の楽園じゃない。たとえ苦痛の中でも、この地上で生きるのを受け入れるか。それとも、拒絶して死ぬか。


 今、ここで決めなければならない。


「私……私、は……」


 美里奈は苦しみに耐えるように目を固く瞑る。そして、深呼吸を一つしたあと、再び目を見開く。


 その瞳からは、すでに迷いは消えていた。


「お兄ちゃん……私、描きたいよ。綾乃ちゃんの生きた証を、完成させたい。たとえ、どんなに苦しくても」


 震える声で――しかし、決然と答えながら、美里奈は俺の手から筆を受け取ったのだった。


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